チャプター11

 翌日、2人は、電車で霞が関に向かった。久しぶりの警察庁だった。以前から警察庁に来ると、まるで自分がかみしもをまとっているようだと矢上は感じていた。裃をまとって儀式に参列する堅苦しい公式の場、そんな警察庁のイメージが矢上にそう感じさせていた。だから、この庁舎には来る度に違和感を抱いた。いつまでたってもその違和感は消えそうになかった。見慣れぬ街に一人佇む異邦人のように。

 定刻通りに藤崎のいる部屋のドアをノックし、中に入った。藤崎は執務をしていた。

 失礼します、と声を掛けてからデスクの前に2人で並んだ。

 まぁ、座りなさい、と言って藤崎はソファを指さした。内線電話で、コーヒーを3つ頼んでからソファに対座した。

 「どうだ、少しは慣れたか?」

 的場に藤崎が聞いた。

 「はい、何とか矢上さんの足を引っ張らないように努めています」

 的場が答えた。藤崎は、そうか、と満足げな表情を見せてから、

 「頑張れよ」

 と労りの言葉を掛けた。そして矢上に対し、切り出した。

 「ところで、相談とは?」

 米山のマンションに巡回連絡に来た巡査が面談した男が替え玉であったことは既に話をしていたので割愛し、今自分が考えていることと今後の捜査方針を説明し、その上で藤崎には上層部や関連各所への梃入れをお願いしようと思い、それらを重点的かつ簡潔に話そうと矢上は決めていた。

 あくまでも仮説だと前置きしてから話し始めた。

 米山は、この日室内で拘束されていた。そこにたまたま巡回連絡で巡回中の警察官が来てチャイムを鳴らした。ドアスコープから見たら警察官の姿の人物が立っていった。見た犯人は驚き、一緒にいた首謀者だろう人物に伺いを立てた。自分たちが米山の部屋に侵入したことに気付き、それで警察官が様子を探りに来たのではないかと犯人等は焦り、その思いは連想ゲームのように膨らんでいった。だからしたかなく首謀者自らが巡査に対応した。

 何とかこの日は切り抜けたが、時が経つにつれ、ここにいることが危険だと思った犯人らは、米山ともども撤退しなければとさらに焦った。

 首謀者が米山の身上を把握し、空で言える訓練はしていたのだろうと矢上は付け加えた 。

 「米山がこの部屋から連れ出されて殺害されていると仮定して、この室内の捜索・差押・許可状(ガサ状)を請求して何らかの証拠を探したいのです。それには請求をするためのネタが必要です。その何らかの事件に抵触するネタを探すために統制官に相談に伺った訳です」

 藤崎は腕組みをして聞き入っていた。的場は藤崎をじっと凝視していた。

 矢上は続けた。

 「統制官の梃入れで現在の米山の日課時限などをつまびらかに調査してもらえないでしょうか?」

 「米山の正体を調査しろ、と言うことだな?」

 矢上は頷いた。

 「米山の正体を暴くうちに分かった、関連していそうな別の悪事を追うことは、米山の本性を曝け出す方法としては回り道のように見えて、むしろ統制官からの下命、つまり本筋への近道になるのではないかと考えています。自分たちはそちらを追いますので、是非お願い出来ないでしょうか?」

 「分かった。米山の調査は私が責任をもってやらせよう」

 と藤崎は約束してくれた。

 矢上は言った。

 「管轄署の署長には、きちんと仁義をきって、マンションの聞き込みをお願いすればやってはくれると思いますが、米山本人が生存しているのであればそれは藪蛇やぶへびになってしまいます。まずは現在の米山の状況を確認することが先決かと思っています。お願いを聞いて頂き、感謝いたします」

 矢上はそう言って深く頭を下げた。

 ガサ状の請求は自分の名前で横浜地方裁判所へ的場と2人で行き、直接判事に説明することや、ガサ状の執行は自分達でやりたいので一次的現場処理班のメンバーを当てて欲しいこと、その際は的場と2人に検証に従事させて欲しいことなども話そうと思ったが、これは令状が出た段階で良いだろうと考えて今は止めることにした。

 的場には、この話はしてあった。

 部屋を出る前、藤崎から6時に『微風そよかぜ』でやろうと声を掛けられた。

 はい、とそれぞれ返事をした。

 すでに時間は午後5時30分だった。内幸町二丁目のあの店までは15分もあれば充分だった。

 一旦自席に戻って身支席をしてから、的場と一緒に庁舎を出た。向かっている時、

 「今日は統制官に真ん中の席に座ってもらおうと思ってんだけど」

 と矢上が言うと、的場は小さく頷き、

 「そうですね」

 と相槌を打った。

 店に到着して中に入った。いらっしゃいませと女将の声に迎えられたが、藤崎の姿はなかった 。

 予約の連絡を受けていたとあって、カウンターには3人分のランチョンマットに箸置きと箸が用意されてあった。真ん中の席を空けて矢上と的場はそれぞれに座った。

 「藤崎のお父さん、30分くらい遅くなるので先に始めているようにと伝言がありましたよ。飲み物、何になさいますか?」

 女将が言った。矢上は、

 「生で」

 「わたしも同じでお願いします」

 と2人でビールを注文した。

 女将は生ビールとお通しを出してから、濃紺でピンストライプのパンツスーツに、オフホワイトのブラウス、深みのある臙脂えんじ色のローヒール姿の的場のコーディネートを、「颯爽として見えてとても素敵よ」と褒めた。的場は下を向いてしまった。女将は続けた。

 「的場ちゃんは何回も来て常連さんだけど、矢上さんは今日で2回目ですよね」

 「はい、そうです」

 矢上は即答した。女将は笑って言った。

 「は2回目よね?」

 矢上は怪訝な顔をした。そして訝りながら尋ねた。

 「何処で会いましたっけ?」

 「矢上君、わたしよ、渡辺よ。忘れちゃった?」

 「え!……、渡辺真理江……?」

 高校の同級生だった。そうか、確かに面影はあった。清楚な感じで大人しかった。男子生徒に人気があった。

 まさか東京のまん真ん中で、小料理屋の女将をやってるとは、想像も出来なかった。的場も驚いていた。

 そんな2人をよそに、女将が続けた。

 「初めて来た時、藤崎さんが矢上と言ったでしょう?お店に来た時からなんとなく思ってたけど、やっぱり矢上君だと思ったらなんか懐かしくなっちゃって、胸が今にもはち切れそうになったの。あの当時の矢上君のまんまだったから。今度ここに来たら同級生だって言おう、どんな顔するかなと思っただけで楽しくなっちゃって、家に帰ってから高校の卒業アルバムを引っ張り出して見たりして。同級生に会えるなんて、飲み屋やってて良かった。神様に感謝して、わたしもビールにお付き合いしちゃおう」

 女将が瓶ビールを持ってきたので、3人で乾杯をした。それから大いに盛り上がった。

 的場が女将に聞いた

 「矢上さんって、どんな高校生だったんですか?」

 女将は答えた。

 「う~ん。典型的な硬派ね。野球部でレギュラーの捕手、背が高くてがっちりしていた。3年生の最後の体育祭のとき、彼が騎馬戦の大将をやったのを良く覚えてるわ。あの時の堂々とした姿。誰が矢上君と付き合うのかって、興味のある、多かったわ。でも、矢上君に浮いた噂が全くなかったから、なかにはホモじゃないの、と陰口を言ってたもいたわ。でもわたしはそんなことないと思ってたわよ。

 この人硬派だから、女には興味がなかったのかな。隠れて付き合ってなんて、とてもとても、器用には見えなかったし。ねぇ、その頃、誰かと付き合ってた?矢上君」

 女将がからかった。的場がくすくすと笑っていた。

 矢上は何と言えば良いか分からず、黙ってジョッキを空けた。


 30分を過ぎていたが藤崎はまだ姿を見せなかった。

 3人はさらに大いに盛り上がった。的場も女将も一緒になって日本酒まで付き合った 。

 1時間が過ぎ、藤崎から店に電話がかかって来た。

 カウンターの端にある店の電話でやり取りをしてから、女将は受話器を置いた。

 「矢上さん、藤崎さんは急用で来れなくなったと言ってらっしゃいました。矢上さんから自分の携帯に電話をしてもらいたいっておっしゃってます」

 矢上は頷き、外に出た。藤崎は直ぐに電話に出た。そして言った。

 「長官に呼ばれた。これから長官の所に行ってくる。残念だか、今度、埋め合わせをさせてもらうよ」

 そう言って一方的に電話は切れた。

 店に戻ろうと入口に向かったとき、扉に『会員制』というシールが貼付されているのに気付いた。やはりここは常連だけで、一見の客は断わっている店なんだと、矢上は思った。

 席で待っていた的場に、藤崎統制官は急用で来られなくなった、と伝えた 。

 引き揚げようと的場に言っているのを女将が聞き、せっかくだから、まだいいじゃないのと言われ、ずるずると9時まで飲んでしまった。

 ようやくお開きになり、店を出てすぐに的場に、藤崎統制官が長官に呼ばれたこと話した。

 「何か、あったんですね?」

 矢上は、電話での藤崎の言葉がいていた様子だったと答え、

 「自分らに関することではなさそうだった」

と付け加えた。

 店を出た時、街は人通りも少なくなっていた。

 歩きながら、的場がこんなことを言った。

 「女将さん、矢上さんのこと、昔、好きだったんじゃないですか?あんなにはしゃいじゃって。わたし何度もこの店に来てますけど、あんな女将さん、見たの初めてですよ」

 矢上は笑って言った。

 「それはないね。懐かしかったのは分かるけど。だって彼女と個人的に話なんかしたこともなかったし。営業だからさ、統制官の部下だからって大袈裟に言ったんだよ、きっと。リップサービスってやつ」

 的場は納得いかないという口調で言った。

 「そうかな?それだけじゃないような感じだったですよ。それに多分、今でも好きって感じ……」

 いつの間にか地下鉄霞ヶ関駅に到着した。

 明日は10時に真金町で合流しようと話してから、矢上は千代田線で、的場は日比谷線でそれぞれ自宅へ向かって行った。


 女将が真理江であったことを知ったことで、矢上は帰途、奈津子のことを思い出していた。女将は知らなかったようだが、奈津子とは高校の同級生であった。

 最初、奈津子と知り合ったのは高校2年生の文化祭の時だった。それぞれ別のクラスだったし、当時は1学年8組ずつあるような規模であったから、同じ学年と言っても知らない同級生の方が多かった。なので、文化祭のクラス代表として委員会に顔を出していなければ、お互い知らないまま卒業していたかも知れない。

 文化祭委員会に出ているのは所詮クラスの推薦で選ばれた奴等ばかりで、まともに働こうなんて誰も思ってやしなかった。矢上もその1人だった。だが、奈津子は違った。クラスで自ら立候補して選出されたのだ。後から聞いた話だが、奈津子はこの高校の文化祭の演出が楽しくて、高校に入る前から毎年観に来ていたようだ。自分で文化祭を運営したいと思ったからこの高校を受験したとも言っていた。

 誰も手伝わない委員会で、奈津子は1人黙々と作業をこなしていた。クラスごとの出し物の管理に体育館の使用の準備、教師との連絡等、何から何まで全て。3年生は受験もあり、助言はしてくれたが、実質作業にはなかなか参加できなかった。委員会開催の度、文句も言わず、むしろ楽しそうに作業をしている奈津子に、矢上は自然と手を貸すようになっていた。

 初めて話し掛けた言葉を矢上は今でも覚えている。「何かすることあるか?」とぶっきら棒に言ったのだ。それに対し奈津子は、印象的な笑顔で「ありがとう」と言った。

 縁とは不思議なもので、3年生になって奈津子と同じクラスになった。あからさまに仲良くしてはいなかったが、試験勉強の時期に2人とも図書館を利用することがあり、次第とお互いを意識する相手になっていった。

 いよいよ受験勉強する季節となり、矢上は休日に地元の公立図書館へ行く時、奈津子を誘った。奈津子は自分も短大を受けるから勉強したいと二つ返事で了解してくれた。それからは毎週のように公立図書館で一緒に勉強した。

 女将が知らなかったように、奈津子は矢上と付き合っているというような素振りを学校では一切見せなかった。当時の矢上はクラスの女子に騒がれることが苦手であったので、波風なく過ごせて有難かった。結婚後、奈津子は「あなた高校の時、クラスメートが冷やかされているのを見ると、とても嫌そうだったわよ。眉間に深い皺が寄ってたもの」と笑っていた。


 2人の間では、矢上が大学卒業後、就職したらその年の秋に挙式を、と決めていた。だが、矢上はその年の初夏に、高校教師を退職してしまったのだ。

 退職した時、既に結婚式の式場も日取りも決まっていたので、2人は式を行いたいと思っていた。しかし岳父は、教員を辞めたタイミングでの挙式には難色をしめしていた。程なくして矢上は証券会社への就職が決まったので、娘に強く懇願され、結果、岳父は消極的な同意をし、式を挙げることが出来たのであった。

 ともあれ2人は予定通りに結婚をした。

 奈津子は短大卒業後に厚木市役所に就職し、愛甲石田駅近くの実家から通勤をしていたが、矢上の就職先である高校が千葉県内であったため、奈津子は結婚と同時に市役所を退職するつもりで、その機会を窺っている矢先だった。

 矢上の新しい就職先が近場であったため、結局奈津子は退職せずに済んだ訳だったが、それから3年半後、矢上と弘美を残して奈津子は逝去してしまったのである。

 早すぎる別れとなってしまった。

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