チャプター02

 異動日は、午前9時に警部補以下の異動対象者は全員制服、制帽に拳銃を装着し正装で5階講堂に集合した。

 前列から階級順に整列して署長が現われるのを待っていた。

 簡単な署長からの訓示の後、一人一人に辞令を交付して式は終了した。

 その後、それぞれ異動先の方面に別れて車で散って行った。

 矢上は横浜市中区海岸通りに位置する神奈川県警察本部へ異動する連中と一緒の車に乗った。

 神奈川県庁は、日本大通り一番地で警察本部とは直線距離にして、徒歩で10分とはかからない所に位置していた。

 県庁は、本庁舎、新庁舎、東庁舎、西庁舎からなり、一部の部署は近隣の民間ビルに入居していた。

 知事部局は、新庁舎の建物内にあった。

 矢上は1人先に新庁舎で降車し、残りの者は、そのまま県警本部へと向かって行った。

 知事部局で、出入口から一番遠い奥のデスクに腰掛けている課長に、異動の申告をしようとして近づくと、

 「いいよ、堅苦しい挨拶はいいから」

 とさえぎられてしまった。

 星崎と呼ばれた若い職員が課長に近づいて来ると、課長は矢上に向かって、

 「私服に着替えてから、もう一度ここへ来てくれるかな」

 と言い、星崎という職員に、矢上をロッカー室に案内するようにと、指示を出した。

 矢上は、星崎の後を付いていき、ロッカー室に入った。

 持参して来た背広に着替えて、矢上は再び執務室に戻り、課長のデスクに戻った。

 頭を下げ、失礼します、と矢上が言った途端だった。

 「星崎、矢上君の席を教えてあげなさい」

 と言って、課長は矢上には目もくれず、机上にある書類に再び目を落とした。

 これじゃ取り付く島もない、と半ば諦め、指示された通りの席へと行くしかないと、矢上は腹を括った。

 課長と矢上のやり取りが聞こえているにもかかわらず、執務室にいる職員連中は目の前の仕事をこなすのに手一杯であるような素振りをしていると見た矢上は、自分が育ってきた刑事部屋とは真逆な空気を感じ、背を向けたくなってしまう程の不快になった。

 こんな場所で、終日執務するのか、と考えただけで心が折れそうだった。


 矢上は、観念して机に向かった。

 執務時間の午後5時を過ぎるまで、所持して来た資料などを机上に広げてみたり、収めてみたりと、退社時間まで息を殺して腕時計と睨めっこをしたりしていた。

 「矢上君、ご苦労さん、引き揚げていいよ」

 課長の一声で、矢上は躊躇することなく立ち上がると、机上の物を引き出しに仕舞ってから、課長に一礼をし、すたすたと執務室を後にした。


 やっと解放された時間を、野毛町へでも行って憂さを晴らそうか、と関内駅北口の方面へ歩き出していた。

 吉田橋近くのイセザキ・モール(伊勢佐木町商店街)をぶらりぶらりと歩いていると、マナーモードに設定していた携帯が振動した。

 登録をしてはいない番号だったが、異動した直後なので出た方が無難だろう、と咄嗟に判断した。

 電話の相手は、神奈川県警捜査一課の根津管理官だった。階級は警視である。

 根津管理官とは、直接に親しく話をしたことなどは一度としてなかったので、相手の姿が見えない電話でのやり取りは、言外に夾雑物きょうざつぶつがあるようで、管理官が話すのを一方的に聞くだけで矢上からはほとんど短く返答をするだけであった。

 管理官との電話が終了し、ひとまずは近くに見える書店に入った。

 ここで一呼吸おき、矢上は今聞いた話を思い返した。


 管理官からの電話の内容は、おおむね次のようなことだった。

 刑事のプロが欲しい、と警察庁のある人物から相談された、と言うことであった。

 本物の刑事に来てもらって、本腰を入れてある仕事をしたい、と。

 そこで君を指名させてもらった、と言う話であった。

 指名した手前、自分に責任があるので、早速、君に電話をさせてもらったと言い、勝手に指名しておいて、こんなことを言うのもおこがましいが、君を紹介したことに間違いはなかった、と先方のお偉いさんには、思って頂かなければ、私の面目も立たないからねと弁解しながら、「結論を急ごう」と本題に入った。

 実は、知事部局への異動は第一次的なもので、つまりは今回の君の異動の本丸は、警察庁なんだよ。

 知事部局から警察庁への異動は、本日から1週間以内のうちに実施されることになっている。

 警察庁への異動が決まった時点で、神奈川県警において警部補から警部へと階級を上げてから転籍することになる。

 勿論、知事部局の課長も、異動の辞令を出した山田署長も、事前に話は受理しているよ。署長は、猛反対をして抵抗したが、警察庁に呼び付けられ、渋々承諾をさせられた、と聞いている。

 矢上君、自分も昔のことになるが、警察署(所轄)から刑事部局への異動、そしてその1週間後に階級を上げてから警察庁へ、1人だけ異動をした経験がある。

 刑事部局からの異動の際、神奈川県警の退職届を提出した。

 問題は、ここからの1週間、所謂いわゆる空白の時間が何を意味しているのか、と言うことだ。

 君の神奈川県警での身上記録は、既に知事部局側に提出され、それがそのままそっくり警察庁へ渡されることになるのは君も察しているとは思うが、この1週間の間に、神奈川県警は君の素行調査をして、上級官庁へ送り込む上で適性の有無の判断基準の一つになれば、と言う県警の配慮が実行されると言う訳だ。

 これは本県だけでなく、各都道府県警察が警察庁へ送り込む、全ての中堅幹部に対して実施している最終審査なのだ。

 だから、この1週間は、間違いなく県警の公安職員が数名で交代しながら、君の調査をしていると言うことを、片時も忘れないようにしてもらいたいんだ。

 自分の時もそうだった。当時、自分を指名した上司が、事前に喚起してくれた。

 だから自分も、君を指名した者の責任として言っておきたかったんだ。

 君を指名した理由は、君の捜査に対する感性を、私は以前から高く買っていたからなんだ。

 捜本そうほん(捜査本部)事件において、君の捜査に向けての感性は、他を超越していた。

 だからこそ、このたった1週間の間に下手を打って欲しくはない。

 つまり誤解や疑念を抱くような場所や人との接触は避けてもらいたいんだ。

 窮屈だろうが、この間だけは我慢をして欲しい。


 1週間後に実施されるのが警察庁刑事局への異動、だとすれば、具体的にどこの部署に配属になり、そこでの任務等について何を担当するのかなどについて、根津管理官の口からは一言も触れられはしなかった。

 ひとまずは書店に入って周囲の様子を窺うことにはしたが、ここに入るまでは全くの無防備であったなぁ、と矢上はつくづくと振り返った。

 しばらく本を眺めて回り、少し時間を潰してから店外に出た。

 きびすを返して、JR関内駅から根岸線に乗車して横浜駅で下車した。

 横浜駅からは相鉄線に乗り、海老名駅で小田急線に乗り換えて、自宅最寄駅の愛甲石田駅で下車した。

 さすがにここまでは尾行はないだろうと思ったが、念の為、ゆっくりとした足どりで家路に向かって行った。

 帰宅した後、外の様子を窺ってみたいと考えなくもなかったが、こちらが警戒していると思われる方が、かえって不利益になるかも知れないと思い直して、知らぬ顔の半兵衛を装うことに決めた。


 里江と弘美との3人での団欒だんらんの晩ご飯は、本当に久しぶりのことだった。

 食事中、早速弘美が、異動の件を聞いてきた。

 「父さん、県庁への異動ってさぁ、どんな感じだったの?」

 「どんなもこんなも事務屋さんだからな。デスクワークは、ちょっと父さんには苦手な分野かな」

 「一日中、机に向かってるんだ?」

 「まぁ、そうだな。机での仕事だからな。どうも性に合わないけど、嫌だなんて言っちゃいられないしな。子供じゃないんだから」

 「子供だってそんな簡単に嫌だなんて言わないよ。でも危険じゃないなら、おばあちゃんは安心だよね。ねぇ、おばあちゃん?」

 里江は、苦笑いを浮かべるしかない、と言った表情をしていた。

 「そこには何年くらいいるの?」

 「はっきりとは分からないな」

 根津管理官から話を聞いてしまった後だっただけに、流石に2年くらいなどと答えることは出来なかった。

 「ねぇ、父さん、今度のさぁ、異動ってさ、栄転なの?」

 「さぁ、それはどうかな」

 「通勤は遠くなるんだもんね。横浜の先でしょう。県庁があるのは?」

 「うん」

 「電車はどこで降りるの?」

 「根岸線の桜木町駅か関内駅のどちらかだけど、関内駅で降りるのが良いかな」

 「そうなんだ。でさぁ、根岸線って、京浜東北線と同じ路線なんでしょう?」

 「そうだけど、実は京浜東北線は通称なんだ。正しくは横浜駅から東海道線で、横浜駅から根岸駅を経て大船駅までの区間が根岸線と呼ばれているんだよ」

 「そうなんだ。父さん物知りじゃん」

 「たまたまだ」

 「ふ~ん。照れちゃって」

 たわいもない話を弘美としてはいたが、里江もほっとした顔をしていたように思えて、矢上は安堵した。


 知事部局に異動してからの毎日は、退屈との戦いといっても過言ではなかったし、大袈裟に言えば、組織の輪の中にすなんり入れるような環境の職場とは、あまりにもかけ離れているとしか矢上には思えなかった。

 根津管理官の話では、知事部局の課長は、自分が1週間で警察庁に異動することは事前に知らされている、とのことだから、単なる腰掛けで来た者なんかいちいち相手に出来るか、とでも思っているのか。

 だからといって矢上に対して不利益なことをする訳ではなかったが、仕事を与えてもらえないことには時間をどうやって費やせばよいのか、矢上にはそのことが何より苦痛だった。

 正直もう限界だと思った時に、警察庁への異動の内示が下りた。


 知事部局にいたある日、弘美から、週末の連休にお母さんのお墓参りへ3人で行こうよ、と言われた時は、妻の眠る菩提寺ぼだいじまで県警の公安に尾行されたんじゃたまったもんじゃない、と矢上は次のように言い訳をした。

 「転勤したばっかりで、休みに急用を言いつけられないとも限らないので、もう少し父さんが職場に慣れてからにしよう」

 咄嗟に嘘をついてしまった。

 嘘をついた気まずさから矢上は、その詫として3人で食事に行こう、と約束をした。

 食事の日と場所等については、弘美に任せた。愛甲石田駅前のお好み焼きを食べに行きたいと、弘美は無邪気に言った。

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