チャプター01

 昨晩から降っていた雨も止み、庭で小さな鳥のさえずる声が聞こえている。

 数日前に署長から直接自分の携帯に電話が入ってきた。

 今度の異動場所は知事部局だからと。つまり県への出向ということであった。異動日の数日前に署長自らが部下職員に直接電話で異動先を教えるなどということは後にも先にも聞いたことがなかった。

 署長からはそれだけで、知事部局でどんな仕事を担当するかなどの細かな話などは勿論もちろん何もなかった。ただびっくりするといけないのでそっと事前に連絡をした、とだけ言って電話は切れた。

 今回の自分の異動先については、当然事前に署長への打診はあったことは間違いないと思った。署長はその打診をしてきた人物とはおそらく面識があるのだろう。そしてその提案にイエス、と回答した。漠然とだが矢上はそう思った。


 今朝は久しぶりに義母の里江と中学1年生の一人娘の弘美と、3人でテーブルを囲んでいた。

 「父さん、異動でしょう。どこに行くの?」

 弘美が聞いてきた。

 「県庁の中での仕事らしい」

 弘美は意外な返答に、

 「えっ、県庁なの?もう刑事の仕事はやらないの?」

 右手にパンの一片を握ったままで。

 「分かんないよ。紙切れ1枚であっちほいこっちほいの世界だから」

 「県庁なんだ」

 独り言のようにつぶやいていた。

 「慣れるまでが大変だな」

 矢上は久しぶりに娘との会話の中で、屈託のない娘の対応に満足げな笑みを浮べていた。

 「ふ~ん、大変なんだ」

 「人事じんじ人事ひとごとと書くくらいだからね」

 「おばあちゃん、父さんもたまにはしゃれたたことを言うんだね」

 里江は弘美の言葉には触れず、弁当をテーブルに置いて、

 「早くしないと遅刻するよ」

 と急かせた。

 「はーい」

 と、掛け声と同時に駆け出して行った。

 「行ってきまーす」の掛け声が元気な声を残したまま遠ざかって行った。

 里江と2人になった。里江は心配げに矢上の顔を覗き込んだ。

 「異動先の仕事はどうなの?」

 「行ってみないと分からないですが、知事部局と言われてますので、内勤の仕事だと思うんですが。刑事警察に関する事務かと」

 「それなら危ないことはないのよね。俊一郎さんに何かあったら弘美が可哀想過ぎるからね」

 里江の言う通りだった。いつも気丈に振る舞ってはいるが、家のことだけでなく弘美の学校のことも1人で身を粉にして頑張っている姿に、彼女の心労を思うと胸が締め付けられる思いになる。

 「おかあさん、大丈夫ですよ、心配しなくたって危険な部署じゃないですから」

 「本当に」

 里江はほっとした表情をした。

 「夕ご飯、何か食べたい物ある?」

 「今日は異動日なので直ぐには帰らないと思うので、パスで」

 「分かったわ、連絡だけはちょうだいね」

 「分かりました」

 矢上は頷き、1階の居間にある仏壇に2本の線香を手向たむけ、両手を合わせた。

 玄関で里江に声を掛けてから家を出ていった。



 結婚してから2年の歳月が流れて行った。

 先輩刑事の紹介もあって県警本部の公舎担当の事務の人に連絡を取った。入居希望の書類を作成し、提出してから間もなく、正式に許可証が封筒で自宅に届いた。

 公舎の場所は平塚市内、JR平塚駅南口から徒歩15分くらいに位置する国道134号線に沿う県警一番のマンモス公舎だった。その公舎の3階で夫婦2人の生活には充分の広さだった。

 3階の南側の部屋からの海の眺めはハイカラな景色を装っていた。

 奈津子は、

 「ここいいじゃん」

 と即答だった。

 「分かった。じゃ、早い方がいい。明日連絡をして押さえてもらうことにするよ」

 奈津子は、

 「うん」

 と嬉しそうだった。

     

 入居して半年が過ぎた頃、突然のもらい事故で岳父が亡くなってしまった。

 義母は悲しみを押さえることができない程、消沈してしまった。

 そんな時、奈津子のお腹に3ヶ月の新しい命が宿った。

 岳父の葬儀が終わって間もなくして独りになった義母の家に転居した。

 選択の余地はなかった。

 市役所に勤務していた奈津子はしばらくして役所を退職した。

 2人だけで話し合い決めた。義母は徐々にであったが元気を取り戻してきたように見えた。誕生してくる子の準備も里江と2人で相談しながら始めだしていた。

 矢上は相変わらず朝早く出勤して遅くに帰宅していた。新米刑事は誰よりも先に出勤し、順に来る先輩上司のお茶出しは勿論、清掃は刑事部屋から霊安室の清掃、使用した捜査車両の点検と洗車、各種簿冊の点検と記載等、8時30分からの業務開始前に全ての事柄も雑用的なことも含め終了させておかなければならなかった。

 午後5時15分の退社時間に帰る者はいなかった。一番最初に腰を上げる課長でも午後6時は過ぎていた。課長の後は各係の班長、そして部長刑事、古参の刑事そして刑事と、最後に若い新参者が数名で片付けをしてから帰っていく。早くとも午後9時前に帰ることなどはほとんどなかった。


 昔、刑事課は従弟制度だと言われた。今でも従弟制度が残存している組織は相撲部屋と刑事部屋だと揶揄やゆされたりもした。当時は、この組織では先に入った先輩は絶対だった。間尺に合わないことなどは日常茶飯事で、口答えなど以ての外だった。

 すべての新任警察官には1年くらいのスパンで、その係の巡査部長の階級に有る者が、その課の課長の推薦で、新任課員を指導簿に従って指導するようになっている。

 矢上は丸山という巡査部長が指導部長であった。

 指導部長は原則として事件現場にも帯同して指導するようになっている。

 ある日、目撃情報者の参考人調書を取って来い、と丸山部長から言われた。勇んでその男性と連絡を取った。

 「これから伺います」

 と言ってこの男性の所へ向かった。調書を取り終えてお礼を言って直ちに課に戻った。机に向かって執務している丸山部長に、

 「部長、取ってきましたので見て下さい」

 と手渡すと、丸山部長はさっと流し読みした後、赤色ボールペンを手にして調書に×印や縦線で、

 「駄目だ、取り直して来い」

 と言った。

 この参考人は事件の目撃者(メダマ)なんだから、誰が読んでも目撃した状況からこいつが犯人だ、と言えるほどのばしっとした状況が明らかじゃないとどうしょうもないだろう。もう一度行って取り直して来い、と満座の前で大声で指摘されてしまった。

 その後、合わせて3回、同じ参考人から調書を書き直しをさせられたことがあった。

 調書の決め手は整合性に無理がなく、蓋然性がいぜんせいが高くなければならない。そして詰めは秘密の暴露、所謂いわゆる、本人しか知り得ない事実がその調書の中にうたってあること。これが命脈である。調書の価値の有無はそこで決まる。

 その後の刑事生活ではこの時の切ない経験が、何度となく調書を作成する際のいしずえとなったことか。丸山部長が赤色ボールペンで書いてくれた指導のおかけで調書作成に対する自信がより自分の鎧となってくれた。心から師として目標にもしてきた。もちろん感謝も忘れない。

     

 奈津子は、弘美が生まれてから産後の肥立ちが悪く、矢上も里江も病院へ行くようにと勧めたが、行きたがらないので知人に紹介してもらった大学病院へ無理矢理、矢上の運転で連れて行った。

 数日経ってから検査結果が分かった。急性骨髄性白血病と診断された。

 診断結果については当日前に矢上には主治医からステージ4の白血病と連絡をもらっていた。当日主治医はステージ4については明らかにせず、治療に全力を尽くしますので貴女も頑張って下さい、と奈津子を励まし、入院の手続きをして下さいと言って席を立った。帰路の車内では2人の間に夾雑物きょうざつぶつが入り込んでいるようで重苦しかった。

     

 奈津子は入院して2週間が経った頃、退院して自宅で治療をさせてもらいたい旨を懇願した。

 主治医は、

 「分かりました」

 と同意をしてくれた。

 自宅で療養を始めたが奈津子の命は3ヶ月とは持たなかった。

 通夜の日、弘美はいつまでも泣き止もうとはしなかった。母の姿をどこまでも追い求め続けているかのように。その泣き声を聞いていると胸が締め付けられる思いで一杯となった。この現実に1人になることが怖かった。この現実こそが自分が背負ってきた運命なんだと自問したが、何の気休めにもならなかった。

 理性と感情とが乖離かいりした状態がしばらくは続いた。

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