矢上俊一郎事件帖 追跡

岬弘

プロローグ

 海は色々な顔を見せてくれる。

 鈍色にびいろ・藍色・紺碧の色そして群青色と。

 夏が始まると町は海辺を中心として鮮やかな原色に変化をする。

 矢上俊一郎が卒業後教員として赴任した高校はこんな海辺の近くの長閑な町の中にあった。

 そんな高校のある日の午前中、矢上が授業をしているときに事件が起こった。

 1人の男子生徒が狂ったような爆音を発して走り回っている。その姿を教室の窓から見た。フルフェイスのヘルメットをバイクの後部座席の横にぶら下げ、走り回っている。顔を見た!あいつだった。自分のクラスの生徒だ。看過できない。あいつが自分に挑戦してきたのだ。つまらない誤解で。あいつの目が、自分を刺すような目で、敵対心をむき出しにしてきた。今までに何度かあったが、今日は大勢の目撃者のいる前で、この職場でこの先の教師生活を賭けた男の勝負だと思った。何があっても受けて勝たなければならないと。そこには教育の理念とか信念などの入り込む余地など存在しなかった。

 あいつと俺とのこの学校での存在感を賭けた権力闘争なのだ。この生徒を大袈裟に言えばこの校舎内の全ての生徒と教員の目前であいつを屈服させない限りは、明日からの自分の教師としての生活はなくなるだろうとさえ思ったら、躰が自然と教室から駆け出していた。

 遅刻をしてきて、校庭内で堂々とバイクを乗り回しているあいつも相当の覚悟はしてきたのだろうから、自分もその担任として勝負をして成敗するしかないだろうと思った。

 この場面で看過することは敗けと同じだった。

 バイクを乗り廻しているあいつの前に立ち塞がった。あいつは無視して自分の周りを何度も何度も繰り返し回り続けた。隙を見てバイクの後方に回り込みバイクの後方から飛びつき、躰を羽交い締めにしてバイクごと倒した。2人で倒れた。

 「何すんだよ!危ねえじゃねぇかよ!」

 あいつの学生服(ガクラン)をつかみ、立たせた後、足払いをして引き倒した。再び仰向けになって倒れた。校舎内の大勢の者たちがこの光景をしっかりと眺めているはずだった。

 この勝負に敗けは許されなかった。これから先に起こるであろうことなど正直考えないようにした。只管ひたすら、敗けてはいけない、敗けることだけは何としても出来ないと、呪文のように唱え続けていた。


 ある日曜日の昼下がり町に出た。海辺を歩いて町の商店街に入るところでクラスの生徒の横山陽子に出会った。横山も1人だった。

 「先生、こんにちは。何故へ行くの?」

 と声を掛けられた。ぶらっと外に出ただけと答え、横山から離れようとした。そのときあいつ、広瀬裕太の視線と合った。刺すような目を向けていた。勘違いをしやがったと思ったがそのままにするしかなかった。裕太は隠れて2人の様子を見続けてるのだろうが、放っておくしかないと言い聴かせた。

 「広瀬君、いる。何してんのかな?」

 矢上は、裕太が横山に気があるんだろうが、餓鬼がき飯事ままごと遊びに付き合わされたんじゃ迷惑千万だった。それが本音だ。だから横山も早くここから失せろと吠えたかった。

 しかし裕太は、このことがあってから明らかに自分に対し、敵意を態度に出すようになった。勝手に矢上を横恋慕の相手だと履き違えて。人との摩擦はこんなくだらない誤解から生ずるんだろうが、それがエスカレートすると、取り返しのつかないことにもなってしまう。何と哀れなんだ、と思ってしまう。誤解されて遣られた方はたまったもんじゃない。


 裕太は学校から付き添いの教師と近くの校医の医院へ行った。

 矢上は、校長室で教頭からの聞き取り調査を受けていた。校長室には学級主任は全員、他に多数の教師が立ったままで聞き入っている。

 教頭は冒頭から「質問」ではなく「詰問」だった。が、学校のナンバー2とすれば当然のことだろうと思ったし、その時の教頭に対して嫌な感情などは勿論、抱かなかった。

 教頭は何度も他に手段はなかったのか、と聞いてくれたが、矢上は、バイクから降ろすことが必要だと思い、結果的にあのような形になってしまったと話を繰り返した。

 その時突然、体育の教師が、

 「俺はいつだって我慢をしている。体育教師だからな。体罰は絶対に駄目なんだよ。学校は教育する場所なんだ。あれは何だ!喧嘩じゃねぇか、お前のやったことは。お前みたいな昨日今日きのうきょう教師になった若造にあんな真似されたんじゃ、校長先生や教頭先生にご迷惑をお掛けすることがわからねぇのか。貴様は絶対に許さん。貴様がここにいたんじゃ、この学校の沽券こけんにかかわる」

 と血相を変えて吠えた。その後、吠えるだけ吠えて校長室を後にした。

 教頭の聞き取り調査は1時間以上かかった。怪我は擦過傷で腕や手と足に数か所あった程度であった。

 裕太は教室に戻っているとのことだった。

 教育委員会への報告は校長へ一任することとなった。


 裕太の両親が学校に呼ばれた。校長と教頭、それに学年主任の的場先生の3人が対応した。事前に校長から指示されていた学年主任が語り出した。

 規則違反をして、無免許で校庭内にバイクで乗りつけた行為を注意した担任に行き過ぎた行為があったかも知れませんが、広瀬君を指導しようとした熱意から出たものであることを理解していただきたいと話をした。初手から切り出された、『無免許で運転し校則違反」と言われたことで両親の心は既に萎えてしまっていた。申し訳ありません、と2人で何度も頭を下げて帰って行った。


 その後、矢上は再び校長室に呼ばれた。校長と2人だけとなった。

 校長はソファに座った。自分にもソファに腰掛けるようにと言った。話は、裕太の怪我の状況と来た両親との話しをさらっと説明した。

 今回の出来事を精査するまでもなく指導に行き過ぎた点はあったかもしれないが、君の生徒に対する正義感から発したものと思うので、簡単な理由書を僕に提出してもらって終了したいが、君の意見はどうかな?

 「はい、少し自分でも反省したい点を整理してから、ご報告させてもらってもよろしいでしょうか」

 と即答はしなかった。

 校長は、

「分かった。長い時間悪かったね。今日はこれでいいよ」

 と立ち上がりきびすを返した。


 自宅に戻ってから、この日はなかなか眠ることが出来なかった。

 今回の事案の発端は自分の感情が勝手に沸騰点に達して、子供相手にムキになった結果だったと言えなくはなかった。だから今いるこの空間からは出来る限り早く退出したいと思った。いつまでもこの不安が頭の中の残滓ざんしとして存在することにはえられないように思えた。

 多数の集団の中に生きた人間同士の狭間で、やり直しなどが簡単に出来るのだろうか?と。

 そして退職することを決めた。

 そもそも教師になったのは「でも」「しか」先生ではなかったが、結果的に教師としては失格と言わざるを得ない。

 退職届には一身上の都合によりと書くことにした。自分の都合で辞めたのだからどこからも突かれることもないだろう。裕太に対する感情は2人で倒れた時に、嘘のように頭から消え去ってしまっていた。裕太は横山が好きならぶつかって行けば良いことだし、この先まだまだ女性と知り合う機会は限りなくあるはずだ。バイクに無免許で乗って走り回ることなどは、麻疹はしかにかかったようなものだし、これからの長い人生を考えたらどうってことはない。

 ただ校長にだけは迷惑をかけたくはなかったが、数少ない教師の枠から1人減ってしまったら、それだけ定数が戻るまではどうしても負担をかけてしまうことになってしまった。


 数日後、理由書と退職願を一緒に提出をした。校長はどうしても私に退職願を受理させる気か、と言ったが自分の意志は固く新しい人生をやり直ししたいと言って、受理をしてもらった。

 退職日、校長室に呼ばれた。

「君とは短い時間だったが、君ならこれからの人生を有意義に過ごしてくれるだろう、と信じているよ」

 と言ってくれた。

 「ところで生徒たちに別れを言って行かなくてもよいのか?」

 「はい、このまま行きます」

 矢上は校長に対座してはっきりと回答した。

 「そうか、分かった。君の気持ちを大事にしよう」

 「ありがとうございました。お世話になりました」

 校長は軽く頷いてくれた。

 その後、職員室で簡単な挨拶をして、学校を正門から出て行った。一度も振り返ることはしなかった。

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