3 サヨ伝説 その壱

 江戸時代の末期のことである。

 世が動乱の期を迎えることになる少し前の時代。

 これまで鉄の統率を誇っていた幕府の力にほころびが目立ち始めていた。


 日本各地で社会変革の萌芽が、長い冬を越した草々が雪解けとともに動き始めるように、さまざまな形で表れ始めていた。

 それは折から襲った飢饉をきっかけとする農民の暴動の形を取ることもあったし、下級武士のクーデターという形を取ることもあった。

 また、幕府の目を盗んで藩が独自に開発した鉱山での苛烈な労働に耐えかねた農民や罪人が起こした暴動、というような形を取ることもあった。


 争いに破れた者たちは、山中深く逃げ込み、隠れ里を築いた。

 しかし彼らが落ち着いたところは耕作に適さない深い山の中。

 自給自足の暮らしを営むことができない。

 おのずと彼らは周辺の村々を襲い、食料や生活に必要な品を略奪することによってしか腹を満たすことができなかった。



 この地域にもそんな隠れ里があった。


 しかしどの村の長も、山賊退治を藩に掛け合うことをしなかった。

 それと引き換えに、藩の役人がなにかにつけてちらつかせている様々な厄災、例えば街道の普請を村に押しつけて来ることを恐れていたのである。

 しかも役人は、万一その山賊の討伐に失敗したときに自らの職責を失うことを恐れ、その約束を反故にする懸念もあるからだった。

 村としても、山賊に襲撃されてもそれは一時的なものであり、延々と続く負担や働き盛りを普請の現場に奪われるより、まだましだったのだ。



 そんな不穏な時代の出来事である。



 ある新月の夜、ひとりの若い女が、庄屋の屋敷において両親や一族の者と別れの杯を交わしていた。

 傍らに、五穀を詰めた小さな袋、提灯、菅笠といった旅装束が調えられていた。


 普通の旅でないことは、女が白装束に身を固めていることからわかる。

 屋敷の奥にある、村人の信仰厚い岩代神社の神並びに山ノ神に、今年の豊作を祈願する貢物として出立しようとしていたのである。



 当時、この村は現在と同じように小さな集落で、度重なる山賊の略奪に加え、数年来続いた飢饉によって困窮を極めていた。


 もはや神仏に頼るしか残された道はない。人身御供の娘はもう戻ってくることはない。神に召されて天に昇るのだ。

 そしてこの村には神のご加護が下されるだろう。

 これが最後の選択肢である。

 村の長老である采家の筆頭、久次郎が村人に説いた。

 村人はその言葉を疑うことはなかったし、たとえ疑いを持ったとしても、村全体の生死に関わる決定に反対することは許されなかった。



 これに先立ち、屋敷の裏には木戸が設けられていた。

 神社へは娘ひとりが向かわねばならない。

 誰も人身御供を追うことがないよう、また、恐れた娘が舞い戻ることがないようにするために。



 娘の名はサヨ。歳は十六。

 久次郎の一族、分家である忠八の娘であった。



 はたして、宵闇が迫るころ、時ならぬ横笛の音が山中から聞こえてきたときを見計らって、サヨは裏木戸をくぐった。

 そしてゆっくりと振り向くと、見送りの両親たちに深く頭を下げた。

 ごうごうと音を立てて燃え盛るかがり火に照らされて、サヨの白い顔に朱色の影が踊っていた。


 サヨは頭を上げると、もう誰の顔も見ることなく、毅然として前を向き、真っ暗な木立の中に足を踏み出していった。

 死出の旅路の供をするように、装束の肩に蛍がとまっていた。

 その放つ光が三度も明滅しない間に木戸は硬く閉ざされ、屈強の男共がその扉を固めたのである。

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