第16章 記憶と夢が混濁する


 瞼を開けると、なんだかすごく眩しくて、咄嗟に目を細める。

 どうやら光にやられてしまったようで、暫く視界は灰色で、徐々にぼやぼやと視力を取り戻す。

 しかし、それには限界があり、色は分からないままで、見えるようになった視界はぼやけたままそれ以上は良くならない。



「どこだここ?」



 意識がはっきりした時には、なんだか遠い記憶に覚えのある場所に立っていた。



 何もない無機質な廊下が続き、同じ扉が並び、同じ窓が並び、同じ部屋が並ぶ。

 唯一違うのは扉の上に掲げられたプレートで、2-1、2-2、2-3と数字が書かれている。


 ここは学校の廊下だ。


 誰もいない廊下に自分1人。

 なんの音も、誰の声も聞こえない。



 なんとなく、エイトが自分の教室だった2-1に足を向けたところで、教室の中から女の子たちの笑い声が聞こえてきた。



「ねえ、そういえば佳奈恵。今朝靴箱になんか手紙みたいなの入ってたよね?」


「えー、なにそれ?もしかしてラブレター?」



 クラスで1番派手なグループの女たちの声だ。


 もう顔も覚えていないが仕方ないよな。

 化粧を塗りたくった顔はもう殆ど偽物で、実際本当の顔なんて見たこともないのだから。



「えっ、…あー、うん。まあ」



 その2人に詰められて、渋々そう答えるその声の主をエイトはよく知っていた。



 宮原佳奈恵(ミヤハラカナエ)。

 11月26日射手座、血液型はA型。家族構成は妹が1人。吹奏楽を中学から始めて6年目、楽器はホルン。ピアノを小学校から習っていて、歌も上手い。成績は比較的いい方だが、英語が少し苦手。小学6年間は無遅刻無欠席、中学は一度だけインフルエンザで休んだ。性格は明るく、誰とでも仲良くて、男子でも女子でも友達が多かった。彼女のことを悪くいう人は見たことがない。



 エイトは決してストーカーなわけではない。


 彼女のことがこんなに詳しいのは、ただエイトが昔から好きだったからだ。


 幼稚園からずっと同じ学校で、小学校は6年間同じクラス。詳しくてなってもおかしくないだろう。




 そうだ。これはあの日の記憶だ。



 放課後のたまたま教室の前を通り掛かった時に聞こえた女子たちの会話。


 瑛斗が佳奈恵の靴箱にラブレターを入れた日のことだ。




 瑛斗は反射的に壁に張り付き、息を潜めた。



「今どきラブレターって古くない?」


「ねー、ありえないよねー」



 ギャハギャハと下品な笑い声を上げるギャル達に、少し悔しい気持ちになるが、ここはぐっと抑える。



 だって、実際ちょっと古いかもと自分でも思っていた。

 しかし、勇気が出せなくてその方法しかできなかったんだ。


 だけど、"宮原さんへ、放課後校舎裏に来てください。梛木瑛斗"たったそれだけのメッセージだが、何度も書き直して何度も考えて、気持ちを込めた手紙だった。


 それを笑われるのは流石に少し腹が立つ。



 佳奈恵は一緒にその話題には乗らず、あっ、と小さく声を上げて可愛い声で切り出す。



「……それよりさ、今日の放課後、この前できたカフェ行こうよー」


「話逸らそうとしてもダメだよー!誰から誰から?」


「どうせカバンにしまってあるでしょ?…と、ここかー?」



 しかし、佳奈恵の話など聞かず、ギャル2人が彼女の鞄を探る音がする。



「あっ、ちょっと待って……」



 彼女の静止は効かず、ギャルの1人が取ったー!と手紙を発見して勝手に取り出し、読み上げる。



「えーと、なんて読むの?……ギエイト?」


「ナギ、ね。梛木瑛斗。…ほら、廊下側の後ろの席の」


「あー、いたね、そんな人。…なに?佳奈恵、梛木と仲良かったっけ?」



 ギャルの1人に認識されていたのは少し驚いたが、まあこんな影の薄いやつ普通は認知されてなくても仕方ないか。

 喋ったこともないし、瑛人だって彼女たちの名前は覚えていない。


 だけど、流石に佳奈恵は自分のことを知っていると思っていた。

 だって幼稚園からずっと一緒だったんだ。卒園アルバムも卒業アルバムも一緒に映ってたし、隣の席になったことだってある。



 しかし、佳奈恵は少し悩んで、困ったようにギャル達に答える。


「……えー、そんな人いたっけ。話したことないや」



 ショックだった。


 流石に認識くらいはされていると思っていた。

 勿論話したことだってある。




 瑛斗が彼女と初めて喋ったのは、小学1年の時。


 彼女が国語の教科書を忘れて泣いているところに、瑛斗が貸したのがきっかけだ。同じクラスだから瑛斗も勿論使うのだが、普段忘れ物をしなくて怒られたことない彼女に代わって、瑛人が先生に怒られた。だけど、言い訳はしなかった。なんだかそれがすごく誇らしかった。


 次の日彼女が、昨日はありがとうと手紙付きで可愛らしい消しゴムをプレゼントしてくれて、その律儀さに惚れてしまった。いや、本当はもっと前から気にしていたのだが、意識し始めたのはその日からだ。

 その手紙と消しゴムは今でも大切にしまってある。



 だけど、あの思い出はきっと彼女に取ってはなんてことない、ただの日常の1ページだったんだ。




「クラスメイトくらい覚えときなよー。まあ、あたしも話したことないけど、なんて返事するの?」


「聞くまでもなく断るでしょ、フツー。ね?」



 ギャル達はそう好き勝手言って、佳奈恵に振ると、彼女も笑って答えた。



「うん……。当たり前じゃん」



 瑛斗は結局呼び出した校舎裏には行かなかった。

 そりゃそうだ。フラれると分かってて行く奴なんていない。


 そうして気持ちを伝えることもなく、瑛斗は失恋したんだ。




 なんでこんな惨めの日の記憶をまた呼び起こさないとならないんだ。


 忘れようと、なかったことにしようと決めたんだ。


 それから暫くして丁度春休みになり、それを好都合と、休み明けも学校に行かなかった。

 彼女の顔を見ると、虚しさが込み上げてくるから。




 その時、教室から佳奈恵が出てきて、瑛斗とかち合ってしまう。



「あっ……」



 教室の中にいたはずのギャルはいつの間にか消えていた。



 こんなのあの時はなかった。

 これは記憶じゃなく、瑛斗の妄想、夢だ。



 廊下には瑛斗と佳奈恵2人きりで、気まずい空気に沈黙が流れる。


 瑛斗は居た堪れなくて、逃げるように彼女の横を通り過ぎようとした。



「待って」



 しかし佳奈恵はそう言って、瑛斗の手首を掴んで引き止める。



「なに?」



 あんなことを言われたんだ。冷たく当たってしまってもしょうがない。



 佳奈恵は俯いて、ちっともその続きを話そうとしなかった。


 瑛斗は小さく溜息をついて、顔を背けてその場を去ろうとする。


 すると、慌ててまた彼女が口を開く。



「ごめんなさい!勢いで言っちゃっただけなの。梛木くんのこと、ちゃんと知ってるよ」



 振り返ると、彼女の大きな瞳と視線が交わった。



「幼稚園のとき、ブロックでロボット作るの上手で先生に褒められてたよね。小学校の時、運動が苦手で運動会の前にみんなの足を引っ張らないように、こっそり練習してた。掃除の時間サボるのが上手で、給食の牛乳はいつもこっそり残してた。中学の時は休み時間、いっつも本を読んでて、ちょうど良いところだと授業中も我慢できなくて、教科書の後ろに隠してずっと読んでたよね」



 それは全て事実だ。

 だけど、そんなこと彼女が知ってるはずない。



「全部、全部知ってるよ」



 瑛斗がそう思った瞬間、間髪入れずに佳奈恵は答える。まるで、瑛斗の気持ちを全て読んでいるかのように。



 佳奈恵が目を細めて微笑む。

 笑うと目尻が下がり、ぷくっと涙袋が浮き出る。彼女の特徴的な笑い方だ。



「手紙、ありがとう。嬉しかった」



 もう、どうでもいい。

 どうせ俺のことなんて、なんとも思ってないことなんて分かってた。

 告白だって、成功すると思ってしようとしたわけじゃない。

 ただ、気持ちが溢れて、抑えられなくなって、どうしても伝えたいと思っただけなんだ。

 だけど、その気持ちもきっと勘違いだったんだ。


 そう思っていたのに。



「あっ………、おれ……俺、宮原のこと……」



 気付いた時には口が勝手に動いていた。



 これは夢だ。

 そんなこと分かっている。


 本当の佳奈恵は、瑛斗のことなんて知らない、と冷たく言い放った。



――だからこれは、俺の都合のいい妄想なんだ。



 頭では分かっているのに、止まらない。



「ずっと前から……好き……――」





 そう言いかけたところで、瑛斗の視界には赤い月……――いや、赤い瞳が覗き込んでいた。



「………エイト!」



 ニャル子が必死な声でエイトの名前を呼ぶ。



「よかった。目が覚めた」



 彼女の瞳からはキラキラと、まるで宝石のような綺麗な雫が溢れ出て、エイトの頬に降り注ぐ。



「あれ……?夢………か……」



 エイトは気がつくと、そこはどこかのベッドの上だった。

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