第3章 恋に落ちる音がした
「ああ、ずっとお会いしたかった」
少女のハープのような優しく心地よい声が、瑛斗に向けられる。
朱を差した唇に潤んだ瞳、僅かに高潮した頬が徐々に赤みを増して…――、
「えっと…、とりあえずこれでも羽織って」
少女は視線を逸らすと、着ていたローブを瑛斗に差し出した。
すっかり忘れていたが、瑛斗は風呂に入るところだったため、全裸のままでこちらの世界に来てしまったのだ。
咄嗟に手で局部を隠すが、その姿が実にみっともない。
数秒前に自信満々に、俺は勇者だ、と言った己がとてつもなく恥ずかしい。
このままでは、風呂に入ろうとした男が異世界に行ったら即逮捕された、という物語が始まってしまう。
「どうして、そんな格好を…?」
先程まで勇者に羨望の眼差しを向けていた彼女の瞳に疑いの色が差す。
瑛斗は汚名をかぶるまいと、慌てて早口で今作った言い訳を並べる。
「いやー、ははっ。召喚される時に向こうの物は持って来れないみたいで、勇者なのにこんな格好でこんなところに放り出されるとは思ってもみなかったよー。見苦しい姿を見せちゃってごめんね」
変ではないだろうか。
何しろ女の子と話すこと自体久しぶりすぎて、その上こんな美少女相手に、上手く喋れているだろうか。
幸い彼女の容姿がthe・アニメやゲームのキャラそのもので、現実の女子より見慣れているため、ゲームをプレイする感覚でリアルより上手く舌が回る。
瑛斗はありがたくローブを受け取って羽織ると、フワッと女の子特有の甘い香りと微かな温もりが体を包み、心臓が跳ね上がった。
――あれ、俺、今……さっきまで女の子が来ていた服を素肌で……。
その情報は、純真無垢な童貞のキャパシティを遥かに超えるものだ。
――鎮まれ。鎮まれ俺の下半身。
今ここで元気になってしまったら、ますます不審者扱いされてしまう。
折角自分の中では最上級にフランクな会話ができたのに、まさかこんな不意打ちを喰らうなんて。
なんとか平常心を保つため、頭の中で素数を数えようにも馬鹿なので素数が何か分からない。鉄板の円周率も3.14…で終わってしまう。
かくなる上は母親の裸を想像して、なんていうが、そもそも遠い記憶の姿を想像するより、目の前の事実に意識がいってしまうは致し方ないことだろう。
と、その時、不意に吹いた突風に、瑛斗は何気なく視線を上げた。
視界に入ったのは、ローブを脱いだことにより露わになった、彼女の如何にも異世界ファンタジーらしい戦闘服。
翡翠色に金の装飾をあしらったマントに、ノースリーブで丈の短い、身体にフィットしたワンピース。
雫型に開いた胸の部分からは控えめな谷間が覗き、それを守るように申し訳程度の小ぶりの金の胸当てをしている。
腰のベルトは彼女の華奢な体を強調し、スカートから伸びる白い脚には男心をくすぐる絶対領域を作るニーハイ。
戦闘服としては些か防御力が気になるところだが、可愛ければ問題ない。それが異世界ファッションの暗黙の了解だ。
が、しかし実際にはその扇情的な戦闘服は、瑛斗にはぼんやりとしか見えていない。
なぜなら眼鏡を掛けていないからだ。
だが、はっきりと見えていなくとも分かる。その姿がいかに魅惑的なものか。
瑛斗はその美しい姿を鮮明に目に焼き付けるため、眼鏡をかけようとするが、気がつくと握りしめていたはずの眼鏡が手から消えていた。
「あれ?」
目を細め、あたりを見渡すと、草原に転がる光るもの。
どうやらビンタされた反動で落としてしまったようだ。
あれをかければ彼女の姿を鮮明に見ることができる、と瑛斗は胸を高鳴らせ、眼鏡を拾い上げる。が、掴んだそれは変わり果てた相棒の姿だった。
「あああああ、俺の眼鏡があああ」
瑛斗が思わず大きな声を出してしまうのも無理はないだろう。
眼鏡を常時かけている人間からすれば、眼鏡は命の次に大切なもの。いや、さすがにそれは大袈裟か。だが、超絶ド近眼の彼に取ってはそれ程までに大切なものだ。
なんたってこれがないと、少女のえっちな服装がよく見えないのだから。
まるでモザイクばかりで肝心なところが見えない、AVビデオを観ているような……。と、しまった。表現が直接的すぎたな。
瑛斗が心の中で反省していると、首を傾げた少女が心配そうに口を開く。
「メガ……ネ?それって、勇者様の大切なものなの?」
聞き慣れない日本語を呟く外国人のように、片言で眼鏡と繰り返すあたり、如何やらこの世界に眼鏡というものはないのだろう。
まあ、異世界なんて魔法があるのが鉄板だ。視力なんて魔法でどうとでもなるのだろう。
「ああ、これがないと俺……なにも見えないんだ」
瑛斗が簡単に説明すると、どうやら端的すぎて伝わっておらず、少女は驚いたように手を口に当てる。
うん、よく見えないがその仕草、可愛いな。
「えっ、勇者様、目が見えないのですか?」
「いや、全く見えないわけじゃなくて、視界がぼやけるというか…」
「もしかして、目眩しの呪いにかかってるの?」
呪い。それは隠れ厨二病をくすぐる単語だ。
俺の呪われた右腕が…、みたいな。
「…ははっ、確かに呪いみたいなもんか。一生治らない呪いだな」
うん、嘘ではない。
いいようによっては呪いのようなものだ。
生まれながらにして遺伝的に目が悪くなる運命を背負っていたのだから、呪いと言っても過言ではないだろう。まあ、遺伝だけでなく日頃の生活習慣も影響しているのだが。
瑛斗の大袈裟な表現をすんなりと信じてしまった少女は、全てを理解したように眼鏡の残骸を指差す。
「…じゃ、じゃあそのメガネって、呪いを制御する魔法具なのね?」
うん。全く理解していない。
が、この世界ではそもそも眼鏡がないのだし、ファンタジー世界で装備するものといえば防具や魔法具の類になってくるのだろう。
だったら眼鏡もこちらの世界に来たら、魔法具という認識でおk?
「そうだな。俺に輝かしい世界を見せてくれる、魔法具だな」
ついつい悪ノリして変な比喩表現をしてしまい、すぐさま後悔する。
本当のところ、何言ってんだとツッコミを入れて欲しかったのだが、どうやら彼女にはこの手の冗談は通じないようで、全て鵜呑みにして一気に青ざめた。
今更ながら3ちゃんの分からず屋たちが恋しくなってくる。
「ご、ごめんなさい。あたしが叩いたせいで、勇者様の大切なものが壊れて………。弁償させてください!」
彼女は責任を感じてしまったようで、瑛斗はそんなつもりで言ったわけではないのだが、こういうところに日頃のコミニュケーション不足がでてしまう。
「いや、そんな、あんたのせいじゃないし…悪いよ」
「でも、あれがないと勇者様なにも見えないんでしょ?」
「なにも、じゃないけど……まあ、不便ではあるなあ」
確かにせっかくの異世界生活、ずっと目を細めてボヤけた世界を見るのは勿体無い。
異世界転生……――いや、死んでないから召喚か?
異世界召喚モノは今後、沢山の可愛い女の子たちと出会うのが鉄板だし、しっかり拝めないのは忍びない。
何よりまず、眼鏡をかけたらこの少女の全身隈なく眺めなくては。
ぼやけた視界でも分かる、空いた胸元の主張し過ぎない谷間とギリギリのスカート丈から覗く白い脚。
これは何としてもくっきりはっきり目に焼き付けたいものだ。
少女は悪寒を感じたように小さく身震いするが、その原因が瑛斗の下品な視線だとは気付くことはなく、切り替えるように両手を胸の前でパンッと合わせる。
「あたし、メガ…ネ?が売っていそうなお店知ってるよ!案内するね。…あと、とりあえず服も何とかしないとね」
瑛斗的には彼女に包まれているようなこのいい香りのするローブで満足なのだが、まあ流石にそんなわけにはいかないので、案内してくれるのは大いに助かる。
「サンキュー、じゃあお言葉に甘えて…」
あれ?これはもう既に勇者の第1の仲間ゲットのイベントか?
最初のヒロインがエルフの美少女なんてベタ中のベタだが、今回ばかりはそのベタも最高の展開だ。
「あっ、申し遅れました。あたしはララノ………――、ララよ。気軽にララって呼んで」
ララはそう言って眉を下げて微笑み、手を差し出してきた。
一瞬、名前を言うときに言葉に詰まったように思えたが、今はそんなことよりも差し出された手の方に意識が集中する。
――握手……ってことでいいんだよな?
リアルの世界では女の子にコミニュケーションは疎か、冷たい瞳を向けられたことしかなく、こんな対等、いや敬意を持った対応をされたことがないせいで、戸惑ってしまう。
「お、俺は梛木瑛斗。瑛斗でいいよ」
こんなことで緊張してしまうなんて童貞感丸出しでみっともないが、こんな美少女相手なら仕方がない。寧ろ緊張しない男がいるだろうか…――否、いるわけがない!
瑛斗は緊張して一気に血の気の引いた手を伸ばして、ララの小さな手に触れる。
すると、ララは反対の手も伸ばして瑛斗の強張る手を両手で優しく包み込んだ。
柔らくて暖かい、それは引きこもって人との関わりを遮断していた瑛斗にとって、懐かしい温もりだった。
「エイト…様。素敵なお名前ね」
ララの鈴の音のような優しい声が胸をくすぐる。
瑛斗は今まで人に賞賛されることがなかった。
だから、マイナスの感情でもいい、誰かに自分という人間を認識してほしい、その気持ちからネットで嘘を吐き続けていた。
きっと、今の台詞はお世辞なのだろう。
そう分かっていても、それでも嬉しかったんだ。
――ああ、なんで単純な奴だろう。
瑛斗、もといエイトはこの瞬間、異世界のエルフの女の子・ララに、恋に落ちた。
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