わたしと楽しいことしませんか?
若く美しい女性に「わたしと楽しいことしませんか?」と声をかけられ、ついていった私が愚かだった。さっきから1時間、私たちは公園のベンチに座って寒風に吹かれているのに、なにひとつ楽しいことが始まらない。
「楽しいこと、なかなか始まりませんね」
私はなるべく嫌みにならないように彼女に話しかけた。彼女は「そうですね…」と言って微笑んだ。ずっと無表情だった彼女からの貴重な微笑みだ。しかし心からのものではなく、愛想笑いなのは分かっている。私は女性から愛想笑いしかされたことがない。
「もしかして、ノープランだったとか?」
思い切って切り込んでみた。
「ノープラン、ですか?」
「つまり、何かプランがあって、私を楽しいことに誘ったわけでしょう?」
「そんなプランだなんて…。そんな言われ方したの初めてです」
「あ、すみません。なんか言い方キツくて」
「いえいえ」
「すみませんね。野暮なこと言って。楽しいこと、楽しみですねー」
「そうですね」
こういうとき、男は女を押し倒すものだと私の親父は言っていた。
(こういうときってどういうとき?)
(そのときが来たらお前にもわかるさ)
今が「こういうとき」なのだろうか? しかしそれが楽しいこととは思えない。令和ともなれば、昭和の常識はだいたい賞味期限切れになっている。
「輪投げでもしませんか?」
思い切って切り込んでみた。
「は?」
「“は” ではなく “わ” です。輪投げでもしませんか?」
「どうして…」
「輪投げ、楽しいと思いますよ」
「そうですか」
彼女が私の顔をじっと見つめている。女性にこんなに見つめられたのは、高校の時、満員電車でOLのお姉さんに痴漢と間違われたとき以来だ。あのときの記憶がよみがえり、脇の下がなんか濡れてる。
私は鞄の中を引っかき回した。500ミリリットルのペットボトルが入っていた。よし、あとは輪だ。しかし、鞄にはもう書類と筆記具と文庫本と財布しか入ってなかった。
「輪、持ってませんか?」
「は?」
「だから “は” ではなく “わ” です。ほら、ここにペットボトルを置きますから、ここに輪を投げれば輪投げになりますよね?」
「輪なんてわたし…」
「いえいえ、無いなら大丈夫です。なんとかします。あ、そうだ! これを使おう!」
私はベルトの留め金を外し、一気に引き抜いた。女性が小さな声で「ひ」と叫んだ。
「あの、こんなところで…」
「え?」
「痴漢なんですか?」
「痴漢ではないです。なあに、ベルト外したからってズボンは落ちません。ほら! 私、メタボなんです」
「ああ、そうなんですね」
「それより、ほら! ベルトをこうして留めると輪になりましたよ。ちょっとやってみますね」
私はペットボトルから2メートルくらい離れて立ち、つま先で土の地面に線を引いた。そして、輪にしたベルトをひょいと投げた。ベルトはゆわんゆわんとたわみながら円盤のように飛行し、どさっと地面に着地した。ペットボトルは倒れていない。
「やった!」
「輪、入ってませんよ」
「ええ?」
本当だった。近づいてみると、輪はペットボトルのすぐ手前に落ちていた。
「惜しいなあ! ちょっと遠近感がわからなかったんですよ。輪が大きすぎるからかな。もう一度やってみます」
私は線のところに戻り、深呼吸して、えいやっと輪を投げた。輪が大きすぎるので、まるで漁師が海に網を投げるようなモーションになる。ゆわんゆわん。ペットボトルにたわんだ輪がぶつかり倒れてしまった。
「あれ、結構むずかしいな」
「あの、わたしもやってみていいですか?」
「あ、どうぞどうぞ。すみません、私ばっかり楽しんで」
「え、楽しいですか?」
「だんだん楽しくなってきました」
「そうですか」
女性のモーションは美しかった。網を投げる漁師というより、染色した絹布を広げる染め師のようだった。時間の流れがゆるやかになり、輪は天使のハロのように光り輝きながら、音もなく地面に落ちた。
「入りましたか?」
「惜しい! あとちょっとで届いてません」
女性が小走りでやってきた。そして自分の目で輪とペットボトルの距離を確認した。30センチ、いや、50センチはある。
「ぜんぜんダメですね」
「いや、でもモーションが美しかったですよ。まるで、染め師のよう…」
「染め師ってなんですか?」
「いや、とにかくよかったですよ。モーションが。何かやられてるんですか?」
「パンクバンドを少々」
「へえ」
「あと、日本舞踊も少々」
「あ、たぶんそっちの方です。モーションがいいのは」
「ちょっと楽しくなってきました」
「楽しくなってきたでしょう」
交互に輪を投げるのを繰り返すうちに、だんだんふたりとも上手になってきた。どちらも成功率は7、8割といったところだった。ちょっと飽きてきそうになったところで彼女が「ちょっといいですか?」と言って、ベルトの留める位置を変えた。
「はい。これでやってみてください」
輪のサイズがだいぶ小さくなっている。投げてみると案の定、ペットボトルを倒してしまった。
「サイズを変えただけでこんなに難しくなるんですね」
「じゃあ、次はおじさんがサイズを変えてみてください」
「おじさん?」
「すみません。呼び方がわからなくて」
「私は柿崎です」
「わたしは山田です」
「よろしくお願いします。山田さん、今日はお仕事はいいんですか?」
「ええ、今日のために有給取りましたから。柿崎さんは?」
「私は半休とりました」
「あの、それ、もしかしてわたしが誘ったからですか?」
「ええ。楽しいことに誘われるなんて断る手はありませんから。今日はめいっぱい楽しみましょう」
「はい!」
冬の公園でもふたりで輪投げしてるとちっとも寒く感じなかった。しかし、山田さんが鼻水をちょっと出していたので、自販機で缶のコーンポタージュを買ってきた。ふたりで「ずずず」と音を立てながら最後のコーン一粒まで味わいつくし、それぞれの空き缶をペットボトルから少し離れた位置に置いた。
「これは難易度高いですね」
山田さんが腕組みして、ペットボトルと空き缶2つの三角関係をさまざまな角度から検討した。
「3回戦ともなればこれくらいの難度はないと」
「これ、3回戦なんですか?」
「次の次は決勝ですよ」
「もう決勝ですか。まだ楽しみたいのに…」
「でも、3位決定戦をやってもいいですね」
「2人しかいないのに?」
「そんなことかまやしません。1本でもニンジンって言うじゃないですか」
「2人でも3位決定戦…」
「♪2人でーも、サンイケッテイセン」
「なるほど」
「楽しくなってきたでしょう」
「楽しくなってきましたね」
山田さんの頬が赤くなっている。寒いからか、それとも楽しいからなのか。たぶん両方だろう。
次は私が投げる番だ。投げる角度と力による輪の軌道をあれこれシミュレーションした。すると、とつぜん頬にひんやりするものが当たって私は「わ!」と声を上げた。山田さんが私の頬に触ったのだ。
「柿崎さん、ほっぺた真っ赤ですよ」
「山田さんこそ」
「え、そうですか?」
「風邪引くといけないから、そろそろ引き上げますか?」
「でも…。まだ楽しいし…」
「わかりました! 今日はとことん楽しみましょう。楽しければ風邪なんてうやむやになります」
「よかった」真っ赤な頬の山田さんが微笑んだ。「楽しいこと、たくさんしましょうね」
その微笑みは、愛想笑いではなかったと思う。
そうして私たちはとことん楽しんだ。日が降りてくるとさすがに寒さが耐えがたくなり、決勝戦までなんとか終わらせたところで引き上げることにした。優勝は山田さんで、準優勝は私だった。3位決定戦は後日にしましょうと約束し、私たちは解散した。しかしお互い連絡先を聞いてなかったので、3位決定戦はいつまでも行われることはなかった。
山田さんと楽しいことをした日の翌日、私はばっちり風邪を引いて会社を休んだ。同居している親父からは「さっさと押し倒せばよかったんだ。だからお前はいつまでたっても結婚できないんだよ」と何度も言われた。
しかしそれは、「楽しいこと」なのだろうか?
楽しいことと言えば輪投げ。それは昭和の常識ではないし、令和の常識でもない。
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