第3話 びんぼう
私の家は、まあ、世間一般でいう「貧乏」にカテゴライズされるんだろうな、ということは小学生ぐらいの時から薄々感じていた。
気がつくのになにか特別なきっかけがあったわけじゃなくて、小学生ぐらいになって「自分」と「家族」以外にも世界があることが分かってくると、嫌でもそれを意識せざるを得なくなったのだ。
例えば着ている服のブランドとか、身に付けているアクセサリーの種類とか、そういう同級生たちの見た目とか。
例えば今年のクリスマスプレゼントはなんだった――とか、親戚の人からいくらお年玉を貰った――とか、そういう他愛もない友達との会話とか。
例えば学校では大人しくて目立たない子の家に遊びにいったときの、思いがけず豪華な外装とか、そのガレージにぴかぴかに磨かれた外国の車が三台ぐらい止まっていたりとか。そういう団地住まいの私の家との、トイレや給湯器の設備の違いとか。
そのなかでも一番違いを意識するのは「食事」だった。
例えば小学校のときの給食の時間。
みんな平気で嫌いなメニューを残していることに驚いた。
ほうれん草のおひたし、ワカメとキュウリを酢であえたもの、筑前煮の中に入っている人参、カボチャの煮物――確かに中には美味しくないよと思うものもあったけど、それを残すなんてことは考えられなかった。せっかく食べられるのに。自分でその材料を揃えようとしたら、結構お金がかかるのに。
特に、大きなバケツの中に飲み残しの牛乳が棄てられているのを見るのは辛かった。
もったいねえー、と心の中で叫んでしまっている自分の、その貧乏臭さが嫌だったのだ。
「……」
しかしまあ、それでも、貧乏だろうがなんだろうが学校には行かなきゃいけないし、いじけていたってしょうがない、と当時の小学生だった私は結構前向きだった。
なきゃないで、自分で作ればいいのだ。
確かに我が家の経済状況は逼迫している。
それでもスーパーマーケットでなにも買うことができない、というほどではない。野菜の見切り品コーナーにいけば、半額になった白菜とかネギが買えるし、うまくタイミングが合えばお肉や魚に手が届くこともあった。豆腐やもやしはいつでも大抵お手軽だし、そういうものを組み合わせればそれなりの食卓にはなる。もちろん豪華とまではいかないけど。
だからまあそれなりに、当時の私は料理という手段でもって、その生活を楽しんでいたりしたのだ。
そんな生活が楽しくなくなったのには、はっきりとしたきっかけがあった。
私の母は、毎朝七時ぐらいに仕事に出掛けて、夜の十時ぐらいに帰ってくる。仕事のことは滅多に話してくれないのでよく分からないけど、複数の職場を掛け持ちしていたりして、忙しいらしい。
それでも母親は私に優しくしてくれていた。
掃除や洗濯なんかの家事をやっておけば褒めてくれたし、ご飯を作って待っていればそれを美味しそうに食べてくれていた。生活費以外におこづかいとかを貰ったことはなかったし、クリスマスプレゼントとか、お年玉とか、そういうものにも無縁だったけど、別にそれでもよかった。
よかったのだけど、母親の方はそう思っていなかったみたいだ。
「お帰り、お母さん」
それは冷たい冬の日のことだった。
ご飯できてるよ――そう言って仕事帰りの母親を迎えた当時の私は小学六年生で、ドアの向こうにはみぞれ混じりの雨が降っていたことを覚えている。
「今日はね、豆腐入りのハンバーグに挑戦してみたんだ」
「……」
「……お母さん?」
いつもならすぐに靴を脱いでリビングに向かうはずの母親が、その日は玄関に突っ立ったままだった。無言で、靴も脱がないで、私のことをじっと見てくる。
「……どうしたの、なにかあった?」
「ううん、なにもないわ。ねえ、
母親は私のことを見つめたまま、私の名前を呼んでくる。
私は身構えた。
見慣れたはずの母親の顔が、その日はなんだか違って見えた。
目も鼻も口も輪郭もいつも通りのはずなのに、なんだか歪んでいるように見えるのだ。その理由まではわからないけど、いい感じのことではない、という予感はしていた。
「……とりあえず中に入ったら?お風呂も沸いてるし」
「いいえ」
「い、いいえって……」
「ねえ、圭子。今日はお母さん、ここから先には入らないことにするわ」
「……え」
母親の言っていることがよくわからない。
ことにするわって、それじゃあどうするつもりなんだろうか。
「な、なに言ってるの?お母さん」
「いいえ、圭子。今の私は『お母さん』、じゃないの」
「……」
やっぱり言ってることがわからない。
私はどうしたらいいのかわからなくなってくる。
だって、お母さんがお母さんじゃないと言うのなら、いったいなんだと言うのだろう。
「ねえ、圭子。今の私は『お母さん』じゃないから、一人の女性として、人間として、あなたに言うわね」
「……」
「あなたはすごく頑張ってると思う。こんな生活なのに文句のひとつも言わないし、遊びたい盛りなのに家のことを立派にこなしてくれるし、それに――」
あなたの作るご飯は、私が作るものとは比べ物にならないくらい美味しいわ――母親はそう続けた。
私は褒められているはずのその言葉のひとつひとつが、まるで切れ味の悪い刃物のように私のことを責めているように感じていた。
「だから、本当はこんなことを言うべきじゃないのはわかっているのだけど、でも今日の私は『お母さん』じゃないから、言うわね」
「……」
「あのね、もう止めてほしいの」
「……」
「あなたがそんな風に家のことをしっかりこなす度に、私ね、責められているように感じるの。ちゃんと『お母さん』ができていない自分のことを、責められているように感じてるの」
「……」
「みんなが私のことを責めるのよ。私の味方は一人もいないの。だからせめて、家の中でぐらい、安心させて」
「……責めてるなんて」
「わかってる」
母親は私の言葉を遮ってそう言った。
「あなたにそんなつもりがないことは、わかってるわ。これは私の方の問題なの。あのね、本当はこんなことを言ってはいけないということはわかっているんだけど、でも、言うわね」
「……」
「あのね、私には『お母さん』になる資格なんてなかったのよ。ねえ、圭子。あなたはなんにも悪くないのに、こんな思いをさせてしまって、ごめんね」
そう言って母親は、ドアを開いて外に出ていった。
みぞれ混じりの雨が降る、冷たい冬の外へ。
きっと彼女にとっては、そっちの方がよかったんだろう。
たとえ冷たい雨に打たれて凍えてしまうとしても、娘がいて、「お母さん」、にならなきゃいけない家の中よりは。
「……」
高校二年生になった今なら、一人きりで私を育ててくれた母親の感じていたであろうプレッシャーの重さとか、朝から夜まで働きづめで疲れていたんだろうなあ、とか、そういう気持ちが少しはわかる。
しかしその時の私は、その時の状況が何がなんやらよくわかっていなかった。
そもそも言ってることがよくわからなかったので、ショックだったのかどうかもわからない。ただ呆然としながら、「人の心って難しいものなんだなあ……」と他人事のように思いつつリビングに戻った。
「……」
机の上には一緒に食べようと用意していた晩ご飯がある。
ラップをかけてあったのでそのまま冷蔵庫に戻してもよかったんだけど、どうしてもその気になれず、まるで給食の残飯を片付ける時みたいにそれをゴミ箱に棄てたとき、はじめて「悲しい」って思ったのを覚えている。
「……」
ゴミ箱の中にある、ぐちゃぐちゃになった豆腐のハンバーグ、胡麻油で味付けをしたもやしとレタスのサラダ。白いご飯。排水溝に流れていく味噌汁。
そんなものを眺めながら、当時小学生だった私は、
「……やっぱり、びんぼうってダメなんだなあ」
と思ったのだ。
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