6-4
「ふう……」
もう一人のレンタローがいる。
アゲハさんに告げられた衝撃の事実をにわかに受け止めかねた僕は、「少し一人になって考えをまとめてみては」との薦めに従い、ソラさん家の湯船に浸かっていた。
ソラさん自慢の総檜のお風呂である。広々とした浴槽には虚空からどぼどぼと湯が補充され続け、溢れたお湯はまた虚空へと還っていく。片側の壁がなく開け放ちなので半露天と言えるのかもしれないが、見えるのは黒よりなお暗くわだかまる混沌のみである。
「いろんな感情はあるけど……良かった、よな。うん、良かったが一番大きい気がする」
首まで浸かってぶくぶくと泡を吹き出す。これまでやらされてきたことはみな人違いに起因していたことは間違いないが、別に強制労働や拷問をされていたわけでもない。可愛いソラさんに親切にされながら暮らし、ない夫の操作には手こずらされたがそれもむしろ日々の張り合いになっていた。極悪人に対してと考えると過分な好待遇である。
そのうえで自分が悪人でないと知れたのは何より嬉しい。今までは思い出したくもないと思っていたが、今は生前のことを思って目を閉じると、ふわっとした幸福な記憶の輪郭のようなものが見える気がした。アゲハさんの言うように、今までは自分の記憶に蓋をしていたのだろう。
思えばここに来たばかりの頃、ソラさんに自分の死を告げられた直後は、人生をやり終えた満足感みたいなものを感じていたはずだった。直後に地獄行きだったと言われて吹き飛んだが、あの時の気持ちを感じられれば何か思い出すだろうか。
そんなことを考えながら湯船に浸かり、ふと目を開ける。浴槽の脇に据えられた大きな鏡に映る自分の姿を見て、はっとなった。
――会ったことがある。
もちろん鏡の中の自分は何万回と目にしてきた。だがそれとは違う。僕はたった一度だけ、鏡の中ではないところで自分と会ったことがある。
その瞬間、僕は『彼』のことを思い出した。
◇ ◇ ◇
空の上にいる、とまず思ったのは考えてみると不思議なことで、下に風景が見えるでもなく、上下も分からない白い空間だったように思う。
とにかく僕が死んだ直後、気づいたら不思議空間をたゆたっていた記憶がある。周りには似たような人がたくさんフワフワとしていて、ああこの人たちは死んでいるのだな、と直感し、したがって僕も生きてはいないのだな、とすぐに呑み込めた。
“魂の皆さんは、すみやかに列に並んでください……”
姿は見えないが、そんな声がどこからか響いてくる。周りの死者たちは声に従ってどんどん先へ進んでいく。そんな中死んでもどんくさい僕は、『どこからどこまでが列なんだろう』とかくだらないことを考えてキョロキョロとしていた。
彼が声をかけてきたのは、そんな折のことだった。
「やあご同輩。並ばないのですか?」
「いや、勝手がわからなくて――!?」
振り向いたそこには、僕とうり二つの男が浮いていた。正確に言えば僕よりも理知的な雰囲気で、着ているものもスマートで高価そうではあったが、見慣れた顔であることは間違いなかった。
男は同じように僕の顔を見て驚いたようだった――今思えばそれは演技で、そっくりな顔の僕を見つけて近付いてきたのに違いなかった――が、すぐに親しげに話しかけてきた。
「……これは驚きました。生き別れの兄弟がいた覚えはないんですけどね」
「僕もです。あの僕死ぬのは初めてなんですけど、死ぬとこうやってドッペルゲンガー的なものに会うものなんでしょうか?」
「さあ、私も死ぬのは初めてなもので。ただどちらかというと、ドッペルゲンガーは生きている間に会うものでは?」
「そ、そうですよね。他の人たちはそんなこと、ないみたいですし……」
「失礼ですが、名前をお伺いしても?」
と、お互いに名乗り合って、僕たちはまたひとしきり驚きあった。当然、向こうのレンタローは同じ名前であることぐらい予測の範囲内だったに違いないが、僕は無邪気に驚くと共に、それこそ生き別れの兄弟にあったような気になって喜んだ。
「不思議ですね、死んでからこうしてお互いに、自分の分身みたいな相手に出会うなんて。僕は正直この先どうなるか不安だったので、心強いです」
「私もです。……正直、貴方を見つけるまでは、この列に並ぶのも気乗りしなかったんですよ」
それだけはきっと彼の紛れもない本音であっただろう。
「さっきからみんなが向かっているやつですよね。何でですか?」
「おとぎ話なら、死者を待つのは裁きです。もし仮に地獄、またはそれに準ずる場所に送られたらと思うと、少し尻込みしてしまいまして……」
僕と同じ顔で俳優のように肩をすくめる彼を、元気づけようとして僕は言った。
「きっとあなたなら大丈夫ですよ。すごくいい人そうですし……」
言っている途中で気づいて、「って、同じ顔の人に言う台詞じゃないですね」と笑ったが、彼は思いがけないことを言われたというようにきょとんとしていた。
かと思うと、あっはっは、と高らかに爽やかな笑い声をあげた。
「はっはっは……同じ顔の貴方にそう言われると心強い。――そうですね、きっと貴方は天国行きでしょう。間違いない」
「そうですかね」
「きっとそうです。そうだ、整理券はお持ちでしょう?」
「整理券?」
指さされて自分の右手を見ると、確かにそこに小さな紙片をしっかりと握りしめていた。最初から無意識にずっと持っていたに違いなかった。
僕がしげしげとそれを眺めていると、彼はひょいと横から覗き込んで言った。
「ふむ……見たところ私の方が番号が若い。貴方も早く天国に行きたいでしょうし、よろしければ交換してさしあげましょう」
「え……、でもそれだとあなたが……」
「私のことでしたらけっこう。少しやるべきことが出来ましたのでね」
「はあ……」
彼はやや強引に自分の整理券を押し付け、僕の整理券を取ってポケットに入れた。
「これは私からのお礼ですよ。貴方を見つけるまで、私は諦めかけていました。しかし最後にすばらしい奇跡が起きて、貴方に出会うことができた。死してなおこのような運命が待っているとは、これはむしろ、抗うことこそが天啓ということでしょう」
「はあ……? これからどうされるんです?」
「決めていることは何一つありません。ですがどうやら、死んだぐらいでは私の生き方は変えられなかったようだ。最後まで私の信じる道を行きますよ」
そう言った彼はもう僕に興味を失ったのか、魂たちの列に逆らうように離れて行こうとする。
「あの!」
僕はなぜかひとこと言いたくなって、その背中を呼び止めた。
「よく分からないけど、頑張ってください! あなたの向かう先に、幸運がありますように!」
彼は振り向くと、面白そうに微笑んだ。
「ありがとうございます。貴方も同じなのは顔だけというわけではなさそうだ。あなたの向かう先に、幸運がありますように」
そう言って、今度こそ彼は見えなくなったのだった。
◇ ◇ ◇
「――ということをお風呂で思い出したんですけど」
「……ちょっと突っ込みどころが渋滞してるんで、待ってもらっていいですか?」
風呂から上がった僕が思い出したことを話すと、ソラさんは頭を抱えた。
カグラさんは対照的に、合点がいったとばかり頷いている。
「ともかくこれで起こったことは分かった。レンタローに騙されて整理券を交換したレンタローは――ややこしいから悪い方はワルタローにしとくか。ワルタローの整理券を持って裁きの列に並んだレンタローは、アゲハ様の裁きより前に、大神様の命でソラちゃんの元に召し上げられたんだ」
「あたしが裁いてれば、整理券間違いなんていっぱつで気づいたのに……」
不満げなアゲハさんに、ひとつ疑問をぶつけてみる。
「もうひとりの……ワルタローの方は、あの後どこへ行ったんでしょう?」
「さあね、正確な経緯は分からないけど……輪廻の道から逸れた魂は混沌の中を彷徨うことになる。そのまま消えてもおかしくなかったけど、悪運強く無免許女神に拾われたんでしょう。それからどうしてこの異世界に侵入したかは想像のしようもないけど、ワルタローは『抗う』って言ってたんでしょ。神々に対してなのか大神様の作り上げたシステムに対してなのかは分からないけど、いずれにせよ魔王に加担しようとするのは自然だと思うわ」
魔王は存在するたけで世界の存続を脅かすらしい。そんな存在に加担して、僕のそっくりさんは一体何をしようとしているのだろうか。
「それはそうと、魂の識別方法が整理券制なのは問題じゃないですか? 今回の元凶はそれだと思うんですけど……」
「いえ、そこがレンタローさんの突っ込みどころでして」
ソラさんが呆れた表情で説明する。
「普通、死にたての魂がそんなに喋らないですよ。大半は意識もあいまいで、天の声に従うだけの存在です」
「そうなんですか?」
そういえば、長々と僕たちが立ち話をしていたのに、周りの魂たちは気に留めるそぶりもなかった。
「そうそう、肉体の意識から魂の意識に切り替えるのにはそれなりに時間がかかるもんだ。よっぽど魂の意志が強かったんだろうな」
「善悪のベクトルは違えど、あんたとワルタローはやっぱり魂の同位体どうしってことよね。整理券のことだって、普通は持ってることを認識すらできないはずよ。実際、ワルタローに言われて初めて気がついたんでしょ」
「それは確かに……」
まったく実感はないが、僕もワルタローも魂としてはだいぶ変わり種らしい。意志が強いなんて言われるとちょっと嬉しくないこともないが、裏を返せばやはり僕の魂は、大悪党であるワルタローと似ているということだ。
「……僕も、一歩間違えば悪人になっていたんですかねえ」
「そうかもね。極端な悪人にも善人にもなれる、かなり不安定な魂なのかもね」
「人間は奥が深いですね……」
ソラさんがしみじみと呟いて、場をしばしの沈黙が満たす。それぞれ事態が把握できたところで、今後のことを考えているようだった。
僕はといえば。あのときワルタローに『いい人そう』と言ったのはとんでもない節穴さ加減ではあるが、気持ちとして嘘ではなかった。自分のそっくりさんが敵対陣営についていると分かってもさほど不快感がないのは、あの時の良い印象を引きずっているからだろうか。
ワルタローの意図に思いを馳せていると、ソラさんが不安そうにこう切り出した。
「――それで、これからレンタローさんはどうします? ううん、どうしたいですか?」
「? どう、とは?」
「だって、これまでは罪人を更正させるという名目でここにいたんですよ。人違いだと分かった以上、レンタローさんにはすぐにでも天国に行く権利があるはずです」
はっとした。確かに、僕が大悪党レンタローでなかった以上、ここにいる理由は無くなったのだ。思わず閻魔様の顔を見ると、アゲハさんも頷いた。
「そうね。レンタローなら、裁くまでもなく天国行きだわ。あんたはあくまでワルタローに騙された被害者なわけだし、望むならこの件から降りてもいいわ。どうする?」
「僕は……」
一瞬戸惑ったが、答えはすぐに出た。
「……今まで考えてもみなかったですけど、今『天国に行ってもいい』って言われて、理屈も理由もなく真っ先に『嫌だ』って思いました。乗りかかった船ですし、許されるなら最後までこの件を見届けたいです」
「レンタローさん……!」
不安そうな顔から一転して、ソラさんの表情がぱあっと輝く。それだけで自分の判断が間違いないと確信できた。
「それに、もうひとりの自分が魔王側について、僕が勇者側――というか、勇者の中の人をやっていることには、何かの意味があるようにも思えるんです。ワルタローを倒すのはレンタローであるべきじゃないかって……うまく言えませんけど」
「いや、あたしも同意見だレンタロー。このプログラムは大神様の肝いりで始まったことだし、何かお考えがあるのかもしれねえ」
「みんな大神様を持ち上げすぎだって。あいつ、何も考えてないと思うわよ?」
アゲハさんだけは大神様という存在について思うところがあるのか苦い顔をしていたが、僕に対してはこう言ってくれた。
「ま、レンタローの考えは尊重するわ。無免許女神とワルタローの意図については引き続き探っていくけど、あたしたち女神は世界の中のことには直接手出しできないから、魔王についてはない夫が頼りよ。
――自分で決めたからには、頑張ってもらうからね」
「はい!」
そろそろない夫が目覚めるべき時間だ。僕はコントローラーを握り直した。
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