3-2

「今日もお疲れ様でした、レンタローさん」


「お疲れ様です、ソラさん。カグラさんも、ありがとうございました」


「おう」


 一日を終えてない夫を寝かしつけると、ソラさんの部屋に弛緩した空気が流れる。まだまだ操作上の問題が無くなったとは言えないが、かなりまともな一日を送れるようになってきたという満足感があった。


「レンタローさん、お茶入れてきますね。ついでに何か食べます?」


「あ、はい。ありがとうございます、では何かあっさりしたものを」


「カグラちゃんはどうします?」


 ソラさんが尋ねると、カグラさんは首を振って立ち上がった。


「いや、あたしは一旦帰るとするよ。ない夫のシステムもとりあえずは問題なく動くみたいだしな」


「あ、その前にひとつ、いいですか?」


 帰りかけたカグラさんを呼び止める。僕の頭には先ほどトーコちゃんが口にした、「いつかない夫ともちゃんとお喋りできる日がくるかもしれないね」という台詞が浮かんでいた。


「他にいろいろあってすっかり忘れていたんですが……喋れる言葉が『はい』『いいえ』しかないのはどうにかならないんですかね? 現状だと現地人とのコミュニケーションに不安しかないんですが」


 むしろトーコちゃんの理解力によって何とか生活できていることが奇跡なレベルである。が、カグラさんは眉根を寄せた。


「はいといいえだけでも、喋らせるの結構大変だったんだぞー……。まあ時間をかければ語彙を増やすことはできるが、多少増やしてもあんま変わらなくないか?」


 そう言われると確かに、と考え込むことになる。


「かと言って大量に増やすと、ドア開けるメニューの時みたいに選択するのが大変になるしな」


「そうですね。例えば、マイクを付けて僕が喋ったことをない夫がそのまま喋る、とかできません?」


「んー、技術的にも難しいし、仮にできたとしても、ない夫は口も開けてないのにない夫とはぜんぜん違う声がどこからともなく聞こえてくる、みたいになっちゃうんじゃないかなあ」


「あからさまに不気味がられそうですね」


 お茶を持ってきたソラさんが言う。カグラさんは頷いて、


「それにこういうのは、中途半端に喋れるよりまったく喋れない方がいいんだよ。喋れなければ余計な詮索もされないし、現状うまく行ってるんだからいいじゃねーか」


「そう言われるとそうなんですかね……」


 どこか釈然としない気持ちで首をひねっていると、カグラさんはぱしっと僕の肩を叩いて言った。


「まあ、一語二語リクエストがあれば実装してやるよ。喋らせたい言葉があったら考えといてくれ」


「……わかりました」


 僕が頷くと、今度こそ帰ろうとするカグラさんの背中にソラさんが声をかけた。


「カグラちゃん、次はいつ来ますか?」


「そーだな、毎日来てもしょーがねえし、明後日ぐらいにまた様子を見に来るよ。そんときまでにまた何か不具合があったら教えてくれ」


「わかりました」


 そんなやり取りが終わると、カグラさんは慣れた様子で障子戸を開いて縁側に出る。そしてその向こうにわだかまる暗黒――ソラさんが言うには混沌(カオス)――の中に、ひらりと身を躍らせると、一瞬のうちにその姿はかき消えた。


「そっちから帰るんですね……」


「ちゃんと玄関を使えっていつも言ってるんですけど。同じことだろ、って言ってきかないんですよね」


 嘆息しながらソラさんが説明するところによると、結局玄関を開けた先も混沌であり、混沌の中では距離の概念が存在しないのだそうだ。つまりカグラさんは一瞬にして、この混沌の中どこかにあるカグラさんの家に帰り着いているらしい。


「あ、もちろんレンタローさんは真似しちゃダメですよ?」


「はい。試してみる気にもなれませんね」


 よろしい、と言ってソラさんは軽食を用意しに台所に戻る。残された僕はなんとなく、開かれたままの障子戸をくぐって縁側に出た。


 もちろん言われた通り混沌に飛び込む気はない。僕は縁側に座って、ぼうっと混沌を眺めた。黒一色の世界だが、なぜか恐怖や畏怖といった感情は起こらない。変化も何もないのに、まるで寄せては返す海を見ているかのように飽きない。


「レンタローさん?」


 眺めていたのはほんの一瞬のつもりだったが、ソラさんに声をかけられてはっとした。振り返ると、ちゃぶ台に茶と軽食を並べ終えたソラさんがこっちを見ている。


「大丈夫ですか? なんか魂が抜けたみたいになってましたけど」


「抜けるどころか、魂そのものですけどね」


 僕が自嘲するとソラさんは、魂ジョークですね、と笑ってくれた。


 ここには時計がないのでよく分からないが、体感よりも長い時間混沌を見つめていたのは確からしい。僕はちゃぶ台に移動すると、礼を言って食事に手をつけた。


「混沌(カオス)って言いましたっけ、不思議な感じですね。まっくろなのに見ていて飽きないというか」


「ありとある要素を内包した存在ですからね。今のレンタローさんは魂ですし、本能的にそういうのを感じ取っているのかもしれませんね」


「あっという間に時間が経ったみたいでした」


「分かります。私も縁側でぼーっとしていて、いつの間にか一ヶ月ぐらい経っていたことがありましたから」


「えらく枯れてますね……」


「何千何万年も存在していれば枯れもします」


 そう言ってソラさんはクスクスと笑った。こうしているととてもそんな枯れた存在には見えず、ただの可愛らしい少女に見えた。


「全然、そんな風には見えませんけど」


 素直な感想を口に出すと、ソラさんは「それはたぶん、レンタローさんの影響ですね」と言った。


「僕のですか?」


「ええ。私は今まであまり――というかまったく、個々の魂と関わるようなことはありませんでしたから。地獄や天国の管理をしている女神たちはまた違うのでしょうけど、私は遠くから世界を見守るのが役目です。あなたがた魂たちの営みはずっと眺めてきましたが、直接関わるのは初めてなんですよ。だから、少しはしゃいでいるのかもしれません」


「それはまた――」


 僕は何と言えばいいか分からなくて絶句した。何万年も人々の営みを見守り続ける生活――それは孤独とかそういう言葉で言い表せる範疇を超えている。頭に浮かんだ感想は「そりゃ枯れるわ」とかいう頭の悪いものだけだった。


「だから今はある意味、私という存在の中で最も濃密な時間なのかもしれません。最初は不安でしたけど、私いま、少し楽しいです」


 ソラさんは冗談めかしてウインクをしてみせた。


「さて、食事も終わりましたし、お風呂にでも入りますか? それとも寝ます? 魂に睡眠は必要ありませんけど、一応寝ることはできますが――」


「ソラさん」


 僕はこの孤独な女神様のことをもっとよく知りたい、より深く関わりたいとそんな気持ちになりながら、しかし特に妙案もなく、ただの思いつきでこんなことを言った。


「――しりとりでもやります?」


「はい?」


 ソラさんはきょとんとして首をかしげた。




 ――深夜のしりとり大会は思いのほか盛り上がり、あっという間に朝を迎えた。


 と言っても混沌に浮かぶソラさんの家に変化はない。僕はない夫の部屋に朝日が差し込むのを見て、コントローラーを手に取った。


「しりとり自体は知っていましたが、こんなにスリリングな遊びだとは知りませんでした! また続きをやりましょうね! 『ゆ』からですよ『ゆ』! ちゃんと覚えておいて下さいね!」


「は、はい……」


 ソラさんは眼を輝かせながらちゃぶ台に身を乗り出していた。しりとりを『スリリング』だと感じる彼女の感性は思った以上に刺激に飢えていたらしい。正直しりとりはもういいかな、とは思っていたが、そんな彼女をもっと楽しませてあげたい気持ちがあった。


『ない夫ー、朝ごはん食べにいこ』


『はい』


 画面の中では、トーコちゃんが朝の迎えに来たところだった。すでに最初に泊まった宿屋は引き払っていて、今のない夫はトーコちゃんと同じ、冒険者向けの集合住宅に部屋を取っている。併設の食堂では有料の食事も提供されているのだ。


「さてレンタローさん、今日のない夫はどうします? またトーコちゃんと一緒に狩りですかね」


 しりとりから魔王討伐更生プログラムに頭を切り替えたソラさんが尋ねてくるが、僕は首を振った。


「いえ、今日はちょっと、考えていることがあるんです」


「考えていること、ですか?」


 そう、僕は夜通ししりとりをしながらも、色々と考えていたのだ。ソラさんとの時間を作り、かつ魔王討伐に向けてない夫を効率的に強化する、そんな方法を。



  ◇  ◇  ◇



「もう、ない夫ったらこんなにこぼしちゃって……。拭いたげるからこっち向いて?」


「はい」


 トーコはもはや慣れた手つきで、ない夫の口元を拭ってやった。


 ない夫はびっくりするほど何でも食べる。ナイフなど使わず――いや、使えないのだろう。魚でも肉でも野菜でも何でも丸ごといく。当然のように骨もかみ砕くし、とうもろこしを軸ごと行ったときにはトーコもさすがに驚いたが、要は器用に可食部だけを食べるということができないのである。


 当然テーブルマナーなど期待できるはずもなく、トーコが介助してやるのは早くも日常となっていた。


 昔から住んでいる長屋に併設の食堂でのことである。当然他の冒険者からの好奇の目線を集めることになったが、トーコはもう気にしないことにしていた。ない夫が誰かの世話を必要としているのは間違いないし、誰かがやらなければならないことならば、それは自分がやるべきことなのだ。それについて他の誰からなんと思われようと、知ったことではない。


「ごちそうさま。ない夫、今日もすぐ狩りに行く?」


「いいえ」


「あれ、疲れちゃった? 今日は休む?」


「いいえ」


「?」


 ない夫は立ち上がると、すたすたと食堂を出ていった。意図が分からず、トーコもその後をついて行く。


 ない夫は長屋の裏手まで歩みを進めると、ぴたりと止まった。ここはちょっとした広場のようになっていて、住人の冒険者たちの訓練などにも使われている場所だった。


 ない夫の意図はすぐに知れた。腰に帯びていた剣を引き抜くと、その場で一度、二度と剣を振り始めたのである。


「おおー、ない夫偉いね! 狩りに行く前に、ここで訓練していくんだね?」


「はい」


「よし、じゃあトーコちゃんもちょっと付き合おうかな。部屋から剣取ってくるね!」


「はい」


 部屋に戻りながら、トーコは身の引き締まる思いだった。


 ない夫はひどく不器用だが、それでも強い。特に一撃でモンスターの堅い鱗を切り裂くそのパワーは計り知れない。にもかかわらず、ない夫は訓練してさらに上を目指そうとしているのだ。いや、おそらくはそういう訓練への姿勢があってこそ、あの超パワーが身についたのだろう。


「よし、あたしも頑張るぞ!」


 ない夫と一緒に、もっと冒険者として上を目指そう。


 そんな気持ちで、トーコはない夫と並んで剣を振り始めた。……もちろん、ちょっと離れた場所で。


 ない夫のことは信用しているが、その不器用さも信用しているのである。剣がすっぽ抜けたりしないか警戒しつつ、トーコはない夫の素振りを見守るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 よし、思った通りだ。僕は画面を見ながら頷いた。


 意図を知らないソラさんが、不思議そうに操作をのぞき込んでくる。


「どうして急に素振りなんですか?」


「ほら、昨日ソラさんも言ってたじゃないですか。モンスターを倒して強くなるんじゃなくて、経験によって強くなるって」


 モンスターを倒すことによる『経験値』のようなシステムは存在しない。であるならば、ない夫が待ち構えていてトーコちゃんが釣ってきたモンスターを倒す、という方法は、ない夫を強化するには効率が悪い。


 そこで目を付けたのが、メニューをいじって見つけた『素振り』の項目であった。


「ほらソラさん、これ見てください」


「はい?」


 僕はいったん素振りを中断して、メニューを操作する。『メインメニュー』→『その他』→『習熟度』と進み――メニューの数が多すぎるのはこの際我慢して――『習熟度(戦闘)』を選択する。すると細かい数字の書かれたグラフのようなものが表示された。


「ほら、この『剣術』っていうところと『肉体』っていうところの数値を見てください。これが素振りをすると――ほら、ちょっと増えたのが分かりますか?」


「増えてますね。ほんとにちょっぴりですけど」


 グラフではほとんど変化の分からないような差だったが、横の数値を見ると確かに増えている。素振りをすることでそれだけの女神パワーを取り込み、ない夫の剣術と肉体が強化されたということを示している。


「ただ、狩りに比べて効率がいいとは思えませんけど」


「そうとも限りませんよ。ほら、ない夫のスタミナゲージを見てください」


「どれどれ……あれ? ほとんど減ってませんね」


「そうなんですよ」


 昨日カグラさんからない夫の成長について聞いたときに、他にも聞いたことがある。それが、ない夫のスタミナに関する仕様についてだった。


 ない夫は元は死体であるから、当然そのエネルギー源は食事ではない。食事する機能はついているがそれは食事しないと不自然だからであり、動力源は別にある。


 女神によって作られた世界には、それゆえに女神パワー的なものが満ちている。それを吸収することで人々は強くなっていくのだが、それとは別口でない夫には女神パワーが注ぎ込まれている。それは微量ながら常に流れ込んでおり、それをない夫は強化ではなく身体を動かすために使っているのだ。それを可能にしているのがこのコントローラーやモニターといった、カグラさんが開発した一連の装置であるらしい。


「つまりですね、ない夫はスラッシュインパクトみたいなアクティブスキルを使ってると、すぐにスタミナ切れになってしまいます。これは流れ込んでいる女神パワーに対して、はるかに多くのエネルギーを一撃に使ってしまうからです。

――ですが逆に言うと、流れ込んでいるパワーよりも消費が少ないアクションであれば、ほとんどスタミナは消費しないんです」


「よく分かりませんが、ない夫は一度に激しく動くのは苦手だけど、軽い運動を長く続けるのはすごく得意っていうことでいいですか?」


「そういうことです」


 短距離走だとすぐにぶっ倒れるが、有酸素運動の範囲なら長時間続けられるのではないか、というのが、スタミナの仕様について聞いてから僕の考えた仮説だった。素振りを見守る限り、それは正しかったように思える。


 ドアを開けるべんりボタン実装の際にもぶっ倒れたが――あれは一晩中動いていたからというよりは、プログラム変更自体に女神パワーを使ってしまったからだろう。


「なるほど、レンタローさんは色んなことを考えつくんですね。ただ……」


 ソラさんは画面を見ながら言った。


「退屈じゃないですか? これ」


「ですよね」


 画面の中では延々とない夫が素振りを続けている。僕のやることもボタンを押すだけである。何時間もこればっかりやるのは、確かに苦痛だろう。


 しかしここからが僕のアイデアの本領なのである。僕はソラさんに言った。


「ソラさん。セロハンテープとか、ありませんか?」

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