第13話 黒い雪の女王と白蛇の子 その壱

 誰もいない病室で目覚めた。

 病室の窓は厚いカーテンで覆われ、ベッドの周囲も淡いベージュのカーテンで覆われている。

 耳に入ってくる音はピッピッと単調になり続ける電子音のみ。遠くから人の声も聞こえるが、こことは違う世界のようだ。

 威は臓器移植手術のドナーとなった。

 手術は無事に終わったようだが、威にはもうどうでも良い事だった。

 身体は鉛の様に重く、首を横に向けるのも苦しい。僅かに上がる腕には点滴の管が繋がれ、指先は何かのセンサーが付けられている。

 ふーっと息を吐くと、腹部に鈍痛が走る。

 まだ麻酔が効いているのか、痛みは然程ではないけれど、頭がぼんやりする。

 遠くに聞こえる声や音を聞きながら、威は再び目を閉じる。

 なんだか、ずっと見ていた夢が覚めたようだ。

 本当は生まれた時からずっとこのベッドの上に居て、このままゆるりと死んで行くのを待っているのが本当の自分。

 誰もいない病室で、一人でこの世から消えてゆく不出来な化け物。

 威の眦からつうっと涙がこぼれる。

 涙を流しても拭ってくれる人はいない。

 案じる様に抱きしめてくれる人はいない。

 どうせなら麻酔から覚めずに死んでしまえば良かった。

 あの夢の中でそのまま死ねたらどんなにか幸せだったのに。

 ぼろぼろ涙がこぼれてどうしようもなかったけど、それを拭うために手を上げることもできなかった。

「威……」

 男の声がしてベッドのカーテンが開かれる。

 そちらに目を向けると中年の男が立っている。

 初めてみる知らない男だったが、威はその男が誰かわかった。

「父……さん」

 しわがれて擦れる声でそう言うと、男――瀬下康成は肯いた。

「手術は無事終わった」

「……」

「お前の弟……摂は助かった。ありがとう」

 言葉は素っ気なかったが、康成はベッドサイドで威に深く深く頭を下げた。

 息子を大事に思う父親の姿だと思った。

 ただし、威の父親ではない。摂の父親なのだ。

「お前にはできる限りのことを……」

「もう、いいです」

 威は康成の言葉を遮って言う。

「終った事です」

 何もかも。終った。

 康成は酷く辛そうな顔で威の頭をそっと撫でてから、もう一度深々と頭を下げて病室から出て行った。

 田舎から逃げ出す前に、父親に会おうと思ったことが何度もあった。

 東京へ向かったのも、そこへ行けば会えるかもしれないと思ったのもあった。

 父親に会って、人でなしだと罵ってやろうと思っていたこともあった。

 そして、もしかしたら、威が息子だと分かったら、普通の親が子にするように威を抱きしめてくれるかもしれないと思ったこともあった。

 でも、康成は摂の父親だった。

 息子の為に頭を下げて感謝を示したが、威を息子とは呼ばなかった。

 額に乾いた男の手のひらの感触だけが残っている。

 威が撫でてほしい手のひらの感触とは全然違う。

 威が求めていたのはこの人じゃない。

(浩然……)

 目の前で閉じられた扉を思い出す。

(どうして……)

 光の中に突き飛ばされて、暗い影の中に残った浩然はどんな顔をしていた?


 うとうとして目覚めると夜になっていた。

 泣いたつもりはなかったのだが、目の周りが熱く腫れぼったい。

 カーテンは相変わらず閉じられ、部屋の電気は消されていた。

 ベッドサイドに置かれた何かの機械のモニターの明かりだけがぼんやりと青く光っている。

 こうやって目を覚ましても何も変わりはしない。

 威は一人ぼっちで、身体は鉛の様に重くて、浩然は居ない。

 お腹に鈍い痛みを感じながら、威は天井を見つめていた。

 病室の扉は閉まっているようで、扉の向こうを人が歩く気配がするが、どこか切り取られた他人事のように遠く聞こえる。

(浩然……)

 考える気持ちが戻ると考えてしまうのは浩然の事ばかりだ。

 考えても仕方ないのに考えてしまう。

 どのくらい天井を見つめ思い巡らしていただろうか。

 不意に病室の扉がカタンとなった。

(風?)

 開いた気配はない。

 だが、誰かが触れたようにカタンと小さな音。

 威は不思議に思って扉があると思われる方へ視線を移すと、ベッドを囲っているカーテンの向こうに何かの気配がある。

 身体を起こすことができない今、威の視界にはカーテンしか見えない。

 でも窓も閉じられている部屋の中で、カーテンがかすかに揺れた。

「……誰?」

 威が問うと、カーテンが再び揺れる。

 しかしそれ以上の反応はない。

 足音も、気配もない。

 誰もいない、気の所為なのかもしれない。

 でも、カーテンが揺れた。

「ハオラン?」

 そうだったらいいなと思う人の名を呼んでみた。

 そこに居る確信があったわけではなかったが、今、一番威が会いたい人だ。

『威……』

 不思議な響きの声が威の名を呼んだ。

 あの別荘で何かに包まれて聞いた浩然の声と同じ声。

「浩然……」

 じわりと涙があふれる。

 来てくれた。そこにいる。

 それだけで胸が詰まる。

 三度カーテンが揺れて、ほんの少し気配が動く。

 足音もしないが、浩然が立ち去ってしまうような気がして、威は声をかけた。

「行かないで……浩然」

 甘えた涙声で、言葉が震える。

「浩然……」

 管が繋がれた手を延ばす。

 その手はカーテンにも届かなかったが、去ろうとした気配が止まった。

『安静にしていろ、威』

「浩然、側に居て」

『眠るんだ』

「ねぇ、お願い」

 必死に延ばす手の、指先が震える。

 ふわりとカーテンが揺らいで布越しに威の手が握られた。

「浩然……」

 名を呼べば、ぎゅっと握り返される。

 その指先に感じる力は、まだ、浩然が威を求めていてくれると感じる。

「顔が見たい」

 指先にビクッと電気が走ったような震えを感じる。

 咄嗟に威は逃すまいと握り返す。

 震える感触が、ずっと伝わってくる。

『それはできない』

「どうして? もう、俺の顔はみたくないから?」

 浩然は無言だ。

「浩然、俺を捨てないで」

 威の願いとほぼ同時に、バツンッとベッドまわりのカーテンが外れて威の上に広がる。

「あっ」

 カーテンに完全に視界を塞がれた上から、何者かに抱きしめられた。

 威の身体の傷に障らない様に慎重に腕を回されているが、その腕は力強く威の望む抱擁をくれた。

『威、かい……』

 密着くしたせいか、声が少しクリアになった。

 もっとくっついたら、あの素っ気ないけど低くて甘い声で名を呼んでもらえるだろうか?

『俺が怖くはないのか?』

 幾度目の問いだろう。

 でも、威はやっとこの質問の意味が分かった。

 布越しに握った手、布越しに抱きしめてくる腕、そのどちらも乏しい威の経験の中でも感じたことのないものだった。

 それは浩然が威の特別好きな人だからというだけではない。

 浩然のそれは人間のそれとは違っていた。

 骨や筋肉の弾力が無い。太さは腕程の何か、指先も指ほどの何か。

 柔らかに沿う弾力はあるが、それは人間の生理と違う働きのもの。

 人間とこれだけ密着していたら感じるはずの呼吸音も心臓の鼓動も感じない。

 浩然は人間とは違うもの、だ。

 おとぎ話のような現実味のない話だが、それでも、そこにいる浩然が「違う」のだと分かった。

 それがわかったから、今度は迷わずに答えられた。

「浩然だから、怖くない」

 ぎゅっとひと際強く抱きしめられる。

 寝たきりで体動かないのが残念だった。

 腕だけでも自由に動かせたら、浩然を強く抱きしめ返したのに。

 威が浩然を拒まないことを教えられたのに。

『威……』

 浩然の抱擁が解かれる。

『ありがとう』

 浩然が身を引くとそれに引きずられるようにカーテンがずるずると滑り落ちる。

 完全にカーテンが床の上に落ちた時、正面の暗がりの中に影より黒い何かが見えたような気がした。

「浩然……」

 威は再び病室に一人取り残された。


 その数日後、別荘から直接病院へ搬送されて以降、姿を見せていなかった結城が病室を訪ねてきた。

「お加減はいかがですか?」

 威はより血の気の失せた顔を結城の方へ向けたが、もう言葉を出す元気もなかった。

 威の容態は日に日に悪くなっていた。

 摘出した残りの臓器の状態も悪くないし、術創の回復も悪くはない。

 しかし、威自体の元の体力が臓器摘出という手術に耐えうる状態ではなかったのだ。

 術後の経過を見に来る医師や看護師たちの様子を見るに、手術はかなり強引に行われたものらしい。威に同情を寄せる者たちが、こんなムチャをと口々に威を憐れんだ。

 最初に目覚めた時には動かせた腕はもう上げることもできない。

 そんな有様で結城の問いに答えることはできなかったが、威はにっこりとほほ笑んだ。

 今の威はこのまま朽ちてしまうとしても悔いはなかった。

 最後にもう一度浩然に会えて、浩然が威を捨てたのではないと分かったから。

 できるなら浩然の腕の中で最期を迎えたかったけれど、浩然に弱る自分を見せたく無かったので、これでいいんだと思っている。

「大分、お加減が悪いようですね」

 威の胸の内を知らない結城は痛ましそうに見ている。

 失礼しますと言ってから、そっと威の頬に手で触れた。

 父親とはまた違った手の感触。

「何か、御望みはございませんか?」

 威はそっと首を横に振った。

 はっきりとはできなかったが、結城には通じたようだ。

「欲しいものはございませんか? 何でもお見舞いに持ってまいりますよ」

 もう一度首を振る。

 もう大丈夫。

 もういい。

 結城は嘆息して目を閉じると、深々と頭を下げた。

「浩然様が長く無理を申しました。長くお付き合い、ありがとうございました」

「……え?」

「ここから先は自由にしろと浩然様から言付かっております」

 軟禁生活が終わったのだ。

 軟禁が終わったのは元よりその予定だったからなのか、残り少ない余命を憐れんでの慈悲か。

 それでも、威は自由になった。

「瀬下康成様の御許可もいただいております。もう、威様は何ものにも囚われる事はございません」

 すべての柵は取り払われた。

 ここからは自分の意思で、好きにできる。

「如何なさいますか?」

「はおらんに……あい、たい」

 威の望みはたった一つだった。



―― 続

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る