第12話 凍てつく鏡 その肆
威は幸せだった。
浩然の胸の上に伏せ、自分のすべてを預けても、しっかりと受け止めてくれる。
腰を抱く腕は力強く、抱きしめられるほどに求められているのを感じる。髪を撫でるては優しく、浩然が威を愛しんでくれているのを感じていた。
「俺が、怖くはないか?」
二度目の問いだった。
何故、そんなことを聞くのだろうと不思議に思うが、威は素直に答えた。
「少し怖い。俺は浩然の事を何も知らないから」
「知らないことが怖いか」
「俺は何も知らなくて、教えられた時には見えていたものと現実が何もかも違っていた」
玲は威を大事にしてくれていた。
兄の様に慕って、玲もそれにこたえるように慈しんでくれた。
でもそれは利害関係が一致しただけで、玲が威を威と同じように思ってくれたからではない。
玲は瀬下の家の為に、威を摂のドナーとして差し出すことに躊躇わなかった。
「俺は、玲を兄さんだと思っていた。玲は俺を弟の予備だと思っていた。本当のことを知ったことで俺の幸せは全て塗り替わってしまった。俺は、そんな風に浩然とのことが塗り替わるのが怖い」
「知らずに済めば幸せだったか?」
「違う」
知らなければ幸せだったとは思わない。
知っていれば、別の選択肢があった。何も知らないまま、何の覚悟もできないまま、すべてが塗り替えられることが怖い。
「俺は知りたいんだ。どんなことでもいい。どんな嫌な事でも怖い事でも知ってさえいれば、どうにかしようともがける。俺はもがきたい。何も知らずに、目の前に終わりしかないのは嫌だ!」
浩然の胸に凭れたまま、威は涙を流した。
威は浩然の事を何も知らない。
すごいお金持ちで、威の事を必要としてくれて、気難しいけど優しい事しか知らない。
その優しさが何処から来るのか、威は何故求められているのか、威は知らない。
「俺は、浩然の事が知りたい」
威を抱く腕が微かに震え、浩然が緊張したのが伝わる。
それが何を意味するのか威にはわからなかったけれど、このままではまた同じことが起こるような嫌な予感が胸を過ぎった。
「なぁ、浩然……」
何かあるなら教えてほしいと言おうとしたときに、玄関の扉をノックする音が聞こえた。
ハッとして威が顔をあげると窓からは陽の光が差し込んでいる。夜が明けているのだ。
控えめではあるが、ノックがもう一度聞こえた。
「誰だろう?」
威は身体を起こし、浩然の顔を不安げに見つめる。
結城は朝にはここへ来ると言っていたことを浩然は思い出したが、扉の向こうにある人間の気配は結城とは違っていた。
「ここに居ろ」
浩然は威をソファの上に残し、その肩に毛布をかけてから、軽く身なりを整え扉に近付く。
そして、扉に触れようとした瞬間、扉がものすごい勢いで開き、その勢いで浩然の身体は弾き飛ばされた。
「ぐ、アッ!」
「浩然っ!」
受け身も取れずに床に打ち付けられた浩然が身体を起こすより早く、扉から男たちが飛び込んでくる。
今度は顔も隠していない。
しかし手には警棒やナイフなどの凶器が握られている。
「威っ!」
男の中の1人が名を呼び、前に出てきた。
威はその顔には見覚えがある。
玲だった。
「玲兄ぃ……どうして」
「お前が連絡をくれたから分かったんだよ。さあ、帰ろう」
玲は笑顔で、威の方へと手を伸ばす。
優しい笑顔。何も知らないままの頃の威なら、間違いなく縋った優しさ。
「俺っ、玲兄ぃに、れ、連絡なんかしてないっ!」
「摂に連絡をくれただろう? 摂が俺に教えてくれたんだ。その男に監禁されて、帰れない兄さんを助けてくれって俺は摂に頼まれたんだよ」
じわじわと距離が詰まる。
救いを求めて視線を彷徨わせると、浩然が数人の男たちに床に押しつけられているのが目に入った。
「浩然っ! 浩然を放せっ!」
「動くな!」
玲の怒声に制されて、威はビクッと身を竦める。
玲のこんな声聞いたことが無かった。
「来るんだ」
有無を言わせぬ命令が下される。
しかし威は身体が竦んで動けない。
押さえつけられて身動きの取れない浩然と、目の前で恐ろしい顔をして微笑んでいる玲を幾度も見比べる。
「瀬下議員の御子息を誘拐するなんてとんでもない事だ。しかも犯人は外国籍、例え財閥のトップでも許される罪じゃない」
「何を言って……」
「瀬下議員の御子息を誘拐した犯人は、逃亡の末、別荘地の一軒家に立て籠もり、抵抗の末に死亡する」
なまじ生き残って裁判になれば威のドナーとしての臓器提供手術も延期になる。
摂に残された時間を考えると、そんな無駄な時間を費やす暇はない。
「いっそお前も抵抗に巻き込まれて重傷を負った方がすぐに病院へ運びこめるかもな」
玲は浩然を押さえつけている男たちに合図を送った。
男たちは躊躇いもせず、サバイバルナイフを鞘から抜くと浩然の背に突き立てる。
「浩然っ!!」
威は立ちあがり浩然の方へ駆け寄ろうとしたが、玲の側に居た男たちにソファの上に押しつけられる。
「ハオラン! ハオランッ!」
どんなに暴れてもがいても腕も脚も抑え込まれて動かない。
ザグッザグッというナイフを突き立てる音が何度も耳に届く。
「あーーーーーーーっ! いやだーーーっ!」
威の絶叫は乱暴に手袋をした手に塞がれた。
「黙れ」
口を塞いだ手の主は、ゆっくりと威に顔を近づけてくる。
「逃げずに、大人しく手術を受けていれば……」
口を塞ぐ手と反対の手が威の目の前にナイフを突きつけた。
「短い寿命くらいは全うさせてやったものを」
「っ!」
ゆっくりとナイフの切っ先が持ちあがり、迷わずに威に向かって下りてくる。
全ての音が止まって、それがただ自分の喉元を貫くのを待つだけになった時に声が響いた。
『威ッ!』
部屋中を震わす大音響で、その場にいた全員が何事かと動揺する。
一瞬、威の喉元を狙った切っ先が止まり、その隙に黒い何かが威の前に割り込んだ。
「っ!?」
威はその黒いものに巻き付かれるようにして天井付近へと引き摺り上げられた。
「ひっ、あっ!」
『目を閉じていろ』
訳も分からずパニックになる威の目が何かに塞がれて、聞き覚えのある声が優しく囁いた。
『案ずるな、離しはしない』
込み上げる悲鳴を無理やり飲み込んで、威はグッと目を閉じ肯いた。
「わかった。浩然」
何だか壊れたスピーカーから聞こえるようなゴワゴワとざわつく声だったが、それは間違いなく浩然の声だった。
そう言うや否や、身体に巻き付いた何かは生き物の様にぶるっと震えた。
途端に巻き起こる男たちの苦鳴。
威の足元の方ではヒュンヒュンと風を切るような音と鈍い打撃音、そして侵入してきた男たちの物だろう苦鳴が聞こえる。
「化け物っ!」
玲が叫ぶ声が聞こえた。
その声に僅かに威の目を塞いでいたものが緩む。
光がさして目隠しがずれたことを知った威は、目を閉じていろと言われたが、どうしても気になって少し目を開けてしまった。
玲と目が合う。
距離は離れていたが、黒いロープに縛り付けられた玲が、真っ直ぐに威を見て「化け物」ともう一度言った。
(玲兄ぃ……)
威を見る目は明らかに恐怖に染まり、そこには嫌悪と拒絶しかない。
(化け物……)
玲は異質な威を蔑みはしなかった。他の人たちの様に腫れ物に触る様にもしなかったし、好奇心の目で見たりもしなかった。
それが優しさだと思っていた。玲は威の味方だと思っていた。
でも、浩然と出会ってそれはただ攻撃的ではなかっただけで、威に興味がなかっただけなのだと知った。
浩然の様に威を必要としてもくれなかったし、抱きしめてそのままで良いとも言ってくれなかった。
『見るな、威』
「だいじょうぶ……大丈夫だよ」
威はもう一度目を閉じて、自分に巻き付き包みこむ何かに頬を寄せた。
その力強さに浩然が抱きしめていてくれるように感じだのだ。
浩然が頭を撫でてくれる感触で、威は再び目を開いた。
家の中は電気をつけていなくても明るく、窓から射し込んでいる陽はすっかり高くなっていた。
魅力的だったシノワズリで統一された部屋の中は酷く荒れていて、ソファやローテーブルに傷がつき、見事な柄の絨毯には黒っぽい染みが点々と散っている。
威は抱きしめる浩然の腕から抜け出ると、開きっぱなしの扉に近付いた。
「外へは出るな」
浩然が後ろから声をかけてきたが、威は止まらずに扉のところまで行く。
外には浩然の車以外に何代ものパトカーが止まり、警官やスーツの男たちが何やら話をしている。その中には結城の姿もあって、威は少し安堵した。
「玲兄ぃ?」
「屋敷に侵入した連中はみな救急車で搬送された。命に別状はないが……」
威の後ろに立った浩然は言葉を濁す。
「浩然は大丈夫なのか?」
威は浩然の方を振り返り問う。
はっきりと見てはいないが、男の1人が浩然の背にナイフが付きたてていた。
何度も何度も鈍く切り裂き突き立てられる音がしていた。
でも、浩然は目の前で怪我一つない。
暴れたせいかシャツはよれてしまっていたが、そのシャツにも浩然の褐色の肌にも怪我の様子は微塵もなかった。
「浩然様、威様」
警官と話をしていた結城が戻ってきた。
「もう、日差しも強くなってきております。どうぞ奥のお部屋へ」
そう言って扉を閉ざそうとするのを浩然が止めた。
「事情聴取は終わったのか?」
「はい。後日また話を聞きに来るとのことですが、こちらに非のあることではございません故、本日は終了です」
「では、威を連れて行け」
「え?」
声を上げたのは威だった。
浩然は威を結城の方へ突き飛ばし、結城は慌ててそれを受け止めた。
「帰って、ドナー手術を受けろ」
「どうしてっ!?」
威は明るい陽の光の中へ突き飛ばされて、その眩さに浩然の顔が見えない。
扉の向こうの薄暗い部屋の中で、陰に溶け込んだような浩然が言う。
「俺はお前の内臓をお前の父親に売ったんだ」
「!?」
「結城、連れて行け」
浩然はそれだけ言うと、扉を閉じてしまった。
「浩然っ! ハオランッ!?」
「威様、ここは光がお強うございます。私とお車の方へ」
「待って! どうしてなのっ! ハオラン! ハオランッ!」
威がどんなに叫んでもその扉は開かれることはなかった。
最後に見た浩然がどんな顔をしていたかもわからずに。
―― 続
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