第11話 凍てつく鏡 その参
車でたどり着いたのは威が逃げてきた田舎のような場所だった。
ただ、周囲に民家のない別荘地のようで、当りには無人の別荘が点在している。
その別荘地のさらに奥、すでに隣家からもかなり離れた場所に浩然は車を止めた。
「ここが別荘?」
想像していたのと随分と違った。
ここへ来るまでに見かけたようなログハウス風の一軒家ではなく、別荘というよりはお屋敷という方がふさわしそうな立派な石造りの洋館だった。
庭は良く手入れされていて、昼に見たらさぞ立派な庭園だろう。
「中へ入れ」
鍵を開けた浩然がドアの前で声をかける。
威は石の階段を上がって広い玄関へ向かった。
「日本じゃないみたい……」
エントランスは二階までの吹き抜けで、エントランスホールからは左右から中二階へ上がる階段がある。エントランスホールには美しい刺繍の施された絨毯が敷かれ、その模様はどこか中国的で不思議な雰囲気を醸し出している。
そしてこの屋敷も内装は白を基調にして、今までいた部屋のような現代風のシステマチックさはないが、シノワズリ趣味の美しい空間が出来上がっている。
浩然は何も言わずに上着を脱ぐと、無造作にソファの背にかける。
いつもならそれを結城が取り上げハンガーにかけるが、今日は結城は居ない。
「結城さん、大丈夫かな……」
最後に見た時、浩然の後ろで結城は廊下の壁に縋るようにして立っていた。歩けるようだったが、あの後一人になってしまって無事だろうか。
「結城は無事だ。明日には向こうの始末を終えてこちらに来る」
「ホント!?」
「ああ」
「良かった……」
威は心から安堵して、笑顔になる。
浩然と共に逃げ出して、興奮がおさまれば不安なことだらけだった。
車の中でもどうしていいのかわからず、ずっと黙ったままだったが、浩然が隣に居なかったらどうなっていたか。
「今日はもう休め、二階に寝室がある。好きな方を使っていい」
「浩然は?」
「まだやることがある」
「手伝おうか?」
「大丈夫だ。先に寝ろ」
そう言うと浩然はソファに座りスマホを取り出す。
どこかに連絡を取るのだろう。それを邪魔しないように威はそっと階段を上がった。
二階にはエントランスを見下ろす様に左右に廊下があり、それぞれ扉が一つずつ。威はとりあえず上がった階段のすぐそばにあった扉を開けてみた。
「わ、広い」
扉を開けたまま中に入り明かりをつける。
中は広く20畳くらいありそうな部屋に手前にソファセットとテーブル、奥にはキングサイズのベッドが置かれている。
ベッドの横には別の扉があり、開けてみるとバスルームとトイレがあった。
扉があるのとは別の壁は一面をカーテンが覆っていたが、多分窓があるのだろう。
ベッドは綺麗にメイクされ、淡く涼しげな良い香りがする。
好きな方を使っていいと言われたので、とりあえずこっちの部屋を使わせてもらうことにして、開きっぱなしだった扉を締めに行く。
(浩然……)
ソファに深く腰掛けて電話で誰かと話している浩然の姿を目に焼き付けるように眺めた後、威はそっと寝室の扉を閉じた。
不審者の襲撃から逃れ、威を連れ出して以来、浩然はずっと威の視線を感じていた。
それは今までになく甘く、浩然の気持ちを掻き乱すような視線だった。
威が寝室の扉を閉めたのを目の端に確認して、浩然はやっと肩の力を抜いた。
『お疲れでございますね、浩然様』
「大丈夫だ、問題はない」
そうは言ったが問題だらけだ。
浩然の脱出後、結城は駆けつけたセキュリティと共に侵入者を制圧し警察に引き渡した。
しかし、彼らは強盗に入ったの一点張りで明らかに威を狙ったことなどは黙秘している。
浩然の部屋を知る者は少ない、更に複数個所の部屋を持っている。なのにあのビルと定めたのは何故か。
誰かが教えない限り、嗅ぎつけられるには早すぎる。
「……まあ、ここならば、何とでもなる」
浩然はぼそりと呟く。
襲われたというのに、以前のビルよりセキュリティの弱い別荘に入ったのにはわけがある。
人間ではない浩然には人間の目の無い方がどうにでもなるのだ。
言葉少なになった浩然に疲れた様子を感じ取ったのだろう、結城は案ずる言葉を述べて早々に電話を切った。
『ご無理はなさいませんよう。明日の朝にはそちらに参ります。それまでゆっくりお休みくださいませ』
「ああ」
通話の終ったスマホをローテーブルの上に置くと、浩然は深くソファに身を沈めた。
深くため息をついて、威の眠る部屋の扉の方を見る。
威がまだ起きているのは気配でわかる。
きっと、浩然がいつもの様に部屋に来てくれないかとベッドで丸まって待っているのだろう。
今までなら、迷わず隣で眠っていた。
美しい観賞用の白い蛇たちと眠る様に。
しかし、今はそれが怖い。
こんなにも胸に抱いて眠りたいのに触れるのが怖い。
(威……)
威は浩然が人間ではないと知らない。
浩然の正体は黒くぬめる触手の塊だ。その本質は地球上に存在する生命体の枠から完全に外れている。
それを受け入れられる人間は少ない。
むしろ生理的嫌悪を感じ拒絶する人間の方が多いだろう。
かつて、浩然の母がそうであったように。
愛する夫の分身ですら受け入れられず、死に追いやるほど拒絶したように。
母に怒りが無いかと言ったらウソになる。当然それなりに姉を死に追いやり浩然を拒否し続けた母に恨みはある。
しかし、怒りよりも強く浩然の心を締めているのは絶望だ。
姉が自死に至ったのは母に拒否されたからではない。姉が母を愛していたからだ。
愛しても、どんなに愛しても、それが必ずしも受け入れられるわけではない。
姉は最後まで誰にも言えずに、母を愛し、母の愛を求めて、絶望して死んでいった。
今それが浩然に重くのしかかってくる。
「威……」
こんなにも人間が怖い。
「浩然……?」
浩然に名を呼ばれたような気がして目が覚めた。
部屋は暗く、窓の外もまだ暗い。
眠ってからそんなに時間は立っていないようだが、威はベッドで一人で眠っていた。
(別の部屋で寝てるのかな……)
寝室は幾つかあるようなことを言っていた。
部屋があるのに同じ部屋で眠る理由はない。
(さみしい……)
威はベッドから降りるとエントランスに続く扉を開ける。
もしかしたら浩然はまだソファに居るかもしれない。
扉を開けると家の中はすでに暗く明かりが消えていた。
(やっぱり別の部屋かな)
そう思って部屋に戻ろうとしたが、暗い中に目が慣れるとソファに誰かが居るのが見える。
「浩然?」
二階の廊下から下を見ると暗い中でスーツ姿のままソファに浩然が横たわっているのが見える。
どうやらあのまま眠ってしまっている様だ。
威は急いで寝室へ引き返し、ベッドから毛布を引き剥ぐと一階へ降りた。
浩然の眠っているソファに近付くと毛布を掛ける。
(風邪ひく……)
普段裸で寝ているから服を着ているだけでも違うとは思うが、この別荘はいつもの部屋より寒かった。
起こさないように、そうっと浩然の上に屈みこんだとき、不意に身体が抱き寄せられた。
「えっ、ちょ、ちょっと、何っ」
もごもごしているうちに毛布の中に引きずり込まれ、浩然の上に覆いかぶさるように引き上げられる。
「威……」
肩と腰をしっかりと抱きしめられ、顔を胸に押し当てた状態で毛布の中に居る威には浩然の顔が見えない。
声と一緒に柔らかなものが威の額に押し当てられる。
それは声と一緒に甘く震え、威の中に温かいものを満たして行く。
「怖くないのか?」
「どうして?」
「……」
浩然は言葉に詰まる。
「浩然?」
威が毛布の中でもがいて、何とか顔を上げた。
毛布の隙間から、浩然の顔が見える。
いつだったかもこんな風に浩然を見た。
目の合った浩然は「寝ろ」と言って威の目を塞いだのだ。
(また、寝ろって言うのか?)
それは嫌だと思った。
このまま誤魔化されたくなかった。
浩然が威をどう思っているのかは知らない。
でも、威が浩然をどう思っているのかは知ってほしい。
「浩然……」
威は肩も腰も抱かれたままだったが、何とか伸び上って浩然の首筋に頬を摺り寄せた。
すりすりと摺り寄せて、喉に唇を当てる。
浩然の喉がゴクッと鳴った。
「浩然っ」
威はぎゅっと浩然に抱き着く。
足を絡め、少しでも二人の隙間が埋まる様に、ぎゅっと寄せ合って擦り寄った。
幾度もネクタイが外され襟元の緩められた首筋を探る様に唇を這わせ、素肌のぬくもりを求める。
浩然の胸はもっと熱くて、腕の中はもっと窮屈で、そこは威にとって幸せな場所。
「威、やめ……」
絞り出すように制止の言葉を紡ぐが、浩然の腕は威の身体を離さない。
威は腕に抱かれたまま、浩然の身体を跨ぐようにして膝で身体をずりあげると唇に触れた。
「好き……浩然、好き」
浩然に与えられたキスがもう一度欲しくて、閉ざしたままの浩然の唇に唇を重ねる。
あの時はどうしてキスするのかわからなかったが、今ならわかる。
浩然とキスしたい。浩然のキスが欲しい。浩然の気持ちが欲しい。
「ぅう……」
浩然は苦しげに眉を寄せ、獣が威嚇するように唸るが、威は甘えるのを止めない。
そんなのは怖くない。浩然は怖くない。浩然なら良いから。
「お願い、浩然……」
胸の中であふれる思いが、唇から言葉になってこぼれる。
それを飲み込んでほしくて、威は必死に唇を合わせた。
必死ににじり、浩然の唇に夢中になる威の身体は既に熱く滾り、浩然の下肢に固いものがぐりぐりと押し当てられる。
それが気持ち良いとも気がついていないのだろう。
お願い、お願いと繰り返しながら、眦に涙を浮かべ、必死に縋りついて来る威に浩然はついに折れた。
「っ!」
閉ざされていた唇が噛みつくように開かれ威の唇を覆う。
「ぁんっ、ん……」
浩然の唇を舐めていた威の薄い舌は、肉厚な舌に掬い上げられ吸われ、苦しくなるほど絡められる。
息が苦しい、思い切り吸われている舌は痛みすら感じるし、唇の端からたらたらと唾液がこぼれる。
それでも、嬉しい。
痛くて苦しいほど求められていると感じる。
ずっとずっと要らない子だった威が、こんなにもこんなにも。
「はお、ら……」
手を伸ばして背中に縋る。
威の頬に涙がぽろぽろとこぼれるのを、浩然がキスの合間に舐めとり、また唇を合わせる。
獣が毛繕いするような荒々しい仕草だが、その行為を促している気持ちが嬉しくて暖かい。
好き、好き、好き。気持ちが溢れて仕方がない。
「何を、泣く」
浩然が涙の止まらない威を気遣って問う。
「う、うれし、くて……」
濡れた頬を摺り寄せながら、精いっぱいの笑顔で言った。
浩然は威を抱いていた手を解き、威の両頬を押さえて、再びキスする。
今度は優しく、幾度も啄まれ、ゆっくりと深く合わせられる。
威はしばし、恋人同士のキスに酔いしれた。
―― 続
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