第10話 凍てつく鏡 その弐
威から咄嗟に目をそらしたその訳を、浩然は深く考えなかった。
いや、考えることをしなかった。
水槽にいる蛇たちのように、美しいままそこに威がいれば良いと考えていた。
そして時折、彼の体から少し組織を提供してもらえば、あとは威を守り生かしてやることができる。
威は先天性白皮症いう病気のせいでこのままでは長命は望めない。家系的にも強い家系ではない。実際に先天性白皮症ではない彼の実弟にも先天性の内臓疾患がある。
弟のドナーになれば、威は間違いなく死ぬ。健常者には耐えうる移植も、威の体ではすぐに限界が来てしまうだろう。
だが、ドナーにならずとも近いうちに死は確実にやってくる。
浩然が監禁している生活は、威を延命する上では理想的な生活だった。
紫外線にあたらぬために対策が取られた部屋で健康に十分気を付けた生活は威にとって唯一の延命方法であるともいえる。
(いや、それは言い訳でしかない……)
威が長く生きる為だけならば、別に浩然の手の中でなくてもいいのだ。
元居た田舎の奥座敷もさしてここと変わらない。
それに、浩然が側にいる必要はない。
威には浩然の側に居る理由が無い。
浩然が手放したくないだけだ。
関係の成立しない相手を無理に引き留めている。
それがどれだけ歪かはわかっている。
(それでも……)
威を手放したくない。
手元に置きたい。
夜眠る時に腕に抱き、朝目覚めた時にその温もりを感じたい。
(こんなのはおかしい)
自分が自分でないようだ。
自分が欲しているというのに、その理由がわからない。
考えても答えが出ない。
だが、いつか決断はしなくてはならない。
「少し、外出する」
浩然は仕事を切り上げて外出する旨を結城に伝えた。
「はい、ではお車の準備をいたします」
外出の時はいつも同伴する結城が、地下の駐車場へ向うため席を立つと、浩然が「一人で行く」とそれ止めた。
「は?」
思わず声が出た。
浩然も子供ではない。一人で外出することももちろんできるが、結城を伴わないことなど今まで一度もなかった。
「なんだ?」
「あ、いえ。ではハイヤーをお呼びしましょうか?」
「それもいらん。お前は威を頼む」
「……畏まりました」
結城はそれ以上口は挟まず、外出用にジャケットと鞄を用意すると主人を黙って見送った。
結城の給仕で昼食を終えると、威のスマホがメールの着信を知らせる。
多分、結城にも浩然にも威が外部と連絡を取っているのはバレているだろう。
それでも威に何も言わないのは、威を信じているからか? もしくは威などどうにでもできると思っているからか。
(多分、後者だ)
浩然は政治家である自分の実の父親すら従わせることができる実力者で、威のような世間知らずが刃向ったところでどうにでもなるだろう。
実際、浩然の住まいに監禁され、父親も玲も威を探すことを止めてしまった。
その動向を知らせてくれているのが、このメールの主、威の実の弟である摂だ。
摂はあれから度々メールを送ってくる。
兄である威の身を案じ、居場所を教えてくれれば助けに行くと言っている。
威はそれに返事を返していない。
それでも摂はメールを送ってくる。
威をドナーとするつもりはない。
自分の病気は自分で受け入れ死んで行く。
でも、最後に一目、実の兄に会いたい。
そう締めくくられるメールを威は読んでも返信せずに消している。
このメールの主が本当に摂なのかはわからない。
でも、自分を心配している存在に心が揺れる。
どこにも行き場が無いのだと思っていた外にも、もしかしたら威を受け入れてくれる場所があるのかもしれないと思う。
同時に、これは何かの罠で、この「摂」なる人物も威を利用すべく狙っているのかもしれないと思う。
居場所を知らせたら、威は連れ戻されて、ドナーとして利用されるのかもしれない。
そんな不安に揺らぎながら、数日を過ごしてしまった。
実際、威は自分がいるここが何処かはわからない。だから居場所を知らせようもないのだが、このままメールを消し続けているのも裏切っているようで心が落ち着かない。
(誰を裏切ってるんだろう……)
今届いたメールに目を通して、いつも通り消そうとして手を止めた。
こうして心配している弟を裏切っているのか?
(そうじゃ、ない……)
浩然に悪いと思っている。
浩然は何も禁じてはいないけど、こうしてこそこそと連絡を取るようなことをしているのは浩然に悪いと感じている。
(だって……)
威の胸の奥がぎゅうっと掴まれるように痛む。
(浩然……)
何も言わずに、ただ隣にいるだけの男。
行き倒れた威を助けてはくれたが、自分の部屋に監禁して、蛇と一緒に愛玩しているような酷い男。
(でも、でも……)
黙って側に居るだけなのに、威は今までにない安心を感じていた。
本当に隣にいるだけ。でも、それだけで威の中にいっぱいあった隙間がすべて埋まってしまった。
(浩然が……好き)
これがそういう感情だと気付いてしまった。
どんなものか教えられなくても、すぐにわかってしまった。
腕に抱きしめられて安堵して、姿が無ければ寂しいと思う。そして、いつも浩然の事を考えて、彼の為に在りたいと願う。
たとえ、彼がアルビノマニアで威を手元にコレクションしようとしているのだとしても、自分がアルビノであって良かったと思ってしまうくらいには……浩然が好きだった。
(だからもう、メールは止めよう)
威は居場所を伝えることも出来ない、ドナーになることもできない。これ以上、メールを続けるのはお互いに酷だ。
だから、最後にしたくて威は1通だけ摂に返信した。
『役に立てずにごめんなさい』
そして、威はそのアドレスを着信拒否に設定した。
「何の騒ぎですか!」
閉じられたリビングの扉の向こうから結城の声が聞こえて目が覚めた。
摂にメールを送った後、そのままソファで眠ってしまったらしい。
窓を見ると日が傾き、もう少しで夜になろうという様子だった。
「誰の許可があって立ち入った!」
扉の向こうでは結城の声がまだ聞こえている。
威が何事かと思って扉に近付こうとすると、扉の向こうからガンッ! と大きな音がした。
「結城さんっ!?」
威は思わず結城が心配になって扉を開ける。
扉の向こうは明るく、エレベーターホールのところで人が揉み合っている。
「いたぞ!」
揉み合っている内の1人が威の顔を見るなり叫んだ。
「威様! 部屋へ……うぁっ!」
言葉も途中で結城が後ろから殴られ昏倒する。
「ひっ!」
倒れた結城が心配で駆け寄りたいと思ったが、覆面のようなもので顔を隠した男たちが威の姿を見てこちらへ詰め寄ってくる。
「や、いやだっ!」
慌てて扉を閉めて、奥の部屋へと逃げ込む。
しかし、扉に鍵をかけていないために、あっさりと威は追い詰められてしまった。
「大人しくついて来い」
男の1人が腕を掴み、床にしゃがみ込んでいる威を引き摺り立たせる。
威は必死に抵抗するが、威の抵抗などものともせずに部屋から連れ出そうとした。
「手を放せ」
男たちの怒声と威の悲鳴が飛び交う中で、喚く声の中に一際大きく声が響く。
「浩然っ!」
浩然は男たちが阻もうとするのも物ともせずに威へと腕を伸ばす。
威も腕を掴まれ、服を引かれるが、何とかして浩然の元へ行きたくて必死に腕を伸ばした。
「浩然! ハオラン! ハオランっ!!」
その伸ばした手が何かにつかまれて、ぐっと浩然の方へ引き摺られる。
威は男たちから引き離され、浩然の胸に飛び込んだ。
「浩然!」
その胸に腕を回し、力の限りギュッとしがみつく。
「目を閉じていろ」
浩然は威の身体を抱きとめる腕とは逆の手でそっと威の目を覆う。
「はい」
威も素直にそれに肯きぎゅっと目を閉じる。
途端に何か風を切るようなヒュンヒュンという音と、男たちの苦鳴、そしてどさっと倒れる音。
威はそんな音が聞こえてもじっと浩然を信じて目を閉じていた。
浩然の腕は揺るがぬ確かさで威を抱きしめている。
この腕の中こそが安心できる唯一の場所なのだと威は実感した。
「良いというまで目を閉じたままでいろ」
当りが静かになっても浩然は威の目を覆ったままで言った。
威は言われるままじっと目を閉じていると、身体がふわりと浮かび上がるような不思議な感覚がする。
「えっ……なに?」
「案ずるな。離しはしない」
「は、はいっ」
返事はしたものの、不思議な感じは続く。
何か布のようなもので頭をすっぽりと覆われて、足元は浮かび上がったまま。抱き上げられているにしては抱いている浩然の歩く振動が伝わらない。
そのうち足元を吹き上げるような風を感じて、お腹の中がひっくり返りそうな違和感を感じた。
「は、浩然っ! なにっ! 怖い!」
ギュッとしがみついたままで叫ぶが、風の音が大きすぎて浩然の声が聞こえない。
そのまま数秒。
風の音は唐突に止み、「もう大丈夫だ」という声と共に抱き上げられた。
しかし、目を開いても布をかぶせられたままなので真っ暗だった。
「浩然……」
不安げに名を呼ぶと、布越しにぎゅっと何かが頬に押し当てられる。
「もう少しだけ我慢しろ、日没までまだ間がある」
その声が押し当てられたものから響くように聞こえ、顔を押し当てられているのだとわかった。
「わかった」
威はそう答えて、布越しに押し当てられている顔に唇を寄せキスをした。
しばらくして威の身体は革張りのソファのようなところに降ろされて、顔を覆っていた布は取り外された。
見ればそこは車の中で、顔を覆っていた布はどうやら浩然の上着だったようだ。
浩然は威を後部座席に座らせると、上着を羽織り、運転席に座った。
「運転できるの?」
「免許は持っている」
ポケットから取り出したキーを挿し、軽くエンジンをかける。
免許のない威でもわかるくらい手慣れた様子に、威はほっと息を吐き助手席の背もたれに後ろからしがみつくようにして身を乗り出した。
「どこへ行くの?」
「別荘だ」
「別荘?」
その問いに答えはなかった。
どこかのビルの地下らしい駐車場から、車が夕暮れの街に走り出る。
前に乗った車とは別の車だったが、窓には紫外線防止のスクリーンが貼られていて、赤い夕焼けが紫がかって見える。
なんだか不思議な光景だった。
「ねぇ、日が沈んだら、助手席に移ってもいい?」
「なにも面白いものは見えないぞ」
車は高速に乗り、単調な四角いビルの間を走り続けている。
「だめ?」
「……次のインターで止まったらな」
「うん」
威はそのまま助手席に凭れるようにして、フロントガラスの向こうに見える景色を見ている。
怖い思いをしたのに、そんなことはどうでも良いくらい気持ちが踊っていた。
浩然が助けに来てくれた。それだけで何もかも引き換えて良いと思うくらい嬉しかった。
襲ってきた男たちが何者なのかわからない。威を探していたようだが、どうして威の居場所がわかったのかもわからない。
怖い事はまだ続いていて、安心するには早いと思っていても、側に浩然がいるだけで威は良かった。
浩然に抱きしめられていた感触がまだ残る腕をそっとなぞるように触れてから、フロントガラスに映る浩然の顔をずっと見つめていた。
―― 続
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