第9話 ご主人様と犬 その肆
「お前のせいで出遅れたじゃねーか」
転がり込んだラブホテルを出たのは翌朝。
それから量販店で取り急ぎ必要なPCやタブレットを買い揃え、ついでに付き合いのあるチンピラから足のつかないSIMカードとスマホを入手してから、篠宮と陸は当初の予定通りのホテルにチェックインした。
都心のど真ん中にあるハイクラスホテルのスイート。部屋は広く、元居たホテルより居住性は格段に良い。しかもコンシェルジュが24時間待機している。
篠宮は部屋に入るなりコンシェルジュに適当な服の購入と軽食の手配を頼んだ。
そして、ブーブー文句を言いながら、今は購入したばかりのノートPCのセットアップをしている。
「人んちのホテルに火ィつけやがった奴に逃げられたらどうすんだよ」
「火をつけた奴はわかってます」
陸は篠宮の隣でセットアップしたPCで高速早送り状態の動画を見続けている。
「……防犯カメラか」
「はい。入れるところを複数確認しましたが、実行犯はほぼ確定しました」
実行犯。
陸はあえて単純に犯人とは言わなかった。
「依頼主まで辿れるか?」
「……辿る必要がありますか?」
遠まわしな会話。多分、篠宮と陸の頭の中には襲撃された時から多分同じビジュアルが浮かんでいる。
ただ、それを言葉にしないのは、篠宮の躊躇いとそれを知る陸の気遣いだった。
「確証が欲しい」
「……分かりました」
陸が証拠を掴むのにそう時間はかからないだろう。
それを持って篠宮の命を狙う依頼主に止めを刺すこともできるだろう。
しかし、そんなことをしても篠宮の失ったものは何も蘇らない。
依頼主を取り囲む人間たちはより一層強く篠宮を憎むようになるだけかもしれない。
「ご主人様」
鬱々と考え込んで手が止まっていたせいか、顔を上げると陸が不安げにこちらを見ている。
「そんな面してるヒマがあったら探せ。人んちのホテル焼いたツケは絶対に払わせる」
追い出された楽園に未練はない。
篠宮には今があって、その今に楽園から追手が来るなら、それは追い払わなくてはならない。
そう言って二人が再びそれぞれのモニターに向き直ると、部屋のドアが慎ましくノックされた。
「おい、出ろ」
多分、コンシェルジュが頼んでおいた服を持ってきたのだろう。
このフロアには篠宮たちの部屋しかなく、フロントには部屋への取り次ぎは一切無用と言ってある。
しかし、出ろと言われた陸はドアの方を見て何か躊躇っている。
「どうした? コンシェルジュだろ?」
「あっ! ご主人様っ」
中々ドアを開けない陸にしびれを切らし、陸が立ちあがってドアを開く。
「こんにちは」
ドアの外に立っている人物を見て、篠宮は目を瞠った。
コンシェルジュではなかった。ホテルのスタッフでもない。
篠宮も知らない人物だったが、驚くほどの美人だった。
声を聞いて辛うじて男だと分かったが、黙ってにこやかにほほ笑まれたら男か女かもわからないくらい中性的で完璧な美人。
「お前、誰だ?」
やっとそれだけ絞り出した。
「
完璧な美人は愛想良く微笑むと、篠宮の手を無理やり握って握手をした。
「何しに来たんだよ、新」
無理やり部屋の中へ入り込んだ矢野原は勝手に応接セットのソファに腰かける。
「キミが危険な目に会っているみたいだったから様子を見に来たんだよ」
「おれ、呼んでないじゃん!」
「もしかしたら、呼べないほどの目に会っているかもしないだろ?」
何を言われても矢野原は笑顔を崩さず打ち返してくる。
この会話の様子を見ているだけでも、とてもじゃないが陸の敵う相手ではなさそうだ。
それに、篠宮も対処に悩んでじっと二人の様子を見ていた。
陸が呼び寄せたわけでもないのに、陸の危険を感じ取って駆け付けることができるなんてのは尋常な話ではない。
「ま、冗談はこの辺にしておいてあげる。僕は篠宮さんに用があってきたんだから」
「俺に?」
初対面、陸が絡まなければ関わることもなかっただろう相手。
矢野原は篠宮の方をしっかりと向いて、目を通して腹の中まで覗き込もうとするようにまっすぐ見つめてくる。
「陸をどうするつもり?」
「……どうするとは?」
篠宮は平静を装う。
「変な呼び方で俺を呼んではいるが、コイツはただの従業員だ」
「ふぅん? それにしては随分と親密な匂いがするけど」
今まで愛想良く笑っていた矢野原の表情がすうっと消える。
途端にゾワリと悪寒が走った。
思わず表情を強張らせた篠宮を見て、矢野原は満足そうに微笑んだ。
「バカではないみたいだね。少し安心した」
そう言って、少し声を潜めて篠宮にだけ聞こえるように言った。
「陸に何かあったら、僕が始末しに来るからね」
完全な脅迫だった。
背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
ヤクザどもに恫喝されてもこんなに肝が冷えることはなかった。
「忠告は聞いとくよ」
咥えていた煙草を灰皿にひねりつぶす。
素っ気なく返すのが精いっぱいだ。
「ありがとう」
そんな虚勢は矢野原にはお見通しだったらしい。
自分の恫喝が功をなしたのを確認したかのように、満足げににっこり微笑むとソファから立ち上がった。
「二度とお会いしないで済むことを祈るよ」
目は笑わず、唇だけの笑み。
そして、矢野原は立ち尽くしていた陸に一言二言声をかけると、優雅にドアから出て行った。
ドアが閉まった瞬間、篠宮は深いため息と共にソファに深く身を沈めて目を閉じた。
時間にしてホンの三十分ほど。
こんなに長い三十分は久しぶりだ。
「ご主人様……すみません」
「あいつは何だ?」
「……俺の友達なんですけど、ちょっと変わってて……」
「あれで、ちょっとかよ……」
閉じた目を開く元気もない。
「悪気はないんです。ちょっと過保護で。多分、ホテルの火事に気が付いて、心配して来ちゃったんだと思います」
「ああ、そんなこと言ってたな。お前から連絡しなくても嗅ぎつけてくるのか?」
「新は人脈が広いから……」
人脈が広いで、篠宮が用心して手配したホテルを嗅ぎつけるのか。
陸に何かあったら、どこに居ても駆けつけてきそうだ。
「ホラー映画並みだな」
「すみません」
しゅんと凹んだ陸が申し訳なさそうに言う。
「……奴らとは関係ないんだろうな?」
「あ、それは大丈夫です。新は人嫌いで、友達も凄い少ないんで!」
「友達少ねぇのか」
「はい。あんな性格なんで。信者は沢山いるんですけど」
「信者?」
宗教関係者か?
確かにそういう連中は異様に人脈があったりするが……。
教祖にとかに居そうなタイプではある。人離れしたあの綺麗な顔ならさぞかしカリスマ性も輝くことだろう。
「まあ、なんでもいい。ここも仮の宿だ。放火犯の尻尾掴んだらもう少し長期で居られるところに移動するからな」
「はい」
「分かってるだろうが、身内でも居場所を教えるなよ。必要ならお前から行け。今回みたいなのはこれが最後だ」
「わかりました」
陸は別に篠宮が怒っていないのをわかると、途端にいつものワンコスマイルに戻って作業に戻った。
コンシェルジュが服を手配して戻ってきたのはそのすぐ後だった。
セットアップ作業が一段落して、篠宮は飯島に連絡を入れた。
『消防は漏電の可能性は捨てて、放火という事で警察が動きだしました』
ホテルの火事に関する報告で、出火元は地下の駐車場、発火当時停まっていた車はなく、もちろん客用駐車場に余計な荷物は何もない。その上現場からは発火装置のようなものの残骸が発見され、警察は事件を視野に入れて動き始めたとのことだ。
「保険屋が来たら建物の取り壊しはお前に任せる。取り壊したら土地は売却しろ。その金を持ってお前はしばらく海外にでも飛んでおけ、また新しいホテルが出来たら連絡する」
篠宮はホテルの後始末を飯島に託した。
場末のラブホテルだったが、本業の収入もあり金には困っていない。
ハイクラスホテルを泊まり歩くのも可能だったが、やはり安定した安全な拠点は必要だ。
ほとぼりが冷めたらまた新しい物件を手に入れてホテル業を再開する。
清濁の中間にあるラブホテル業は篠宮にとって居心地のいい場所でもあったのだ。
ホテルが燃えてから今の今までいろいろあった。
今はやや興奮状態にあるために疲れも大して感じないが、ことが終わればどっと来るかもしれない。
そうなった時、心も体も休まる
その為にも飯島まで巻き込むわけにはいかない。飯島は篠宮の塒の管理人なのだから。
何かあったらまた連絡を取り合うという事を確認して、篠宮は電話を切った。
「……」
「……」
犬と目が合った。
その電話の間、ずっと足元に犬が座ってこちらを見上げていた。
いい子で待ってるアピール満々で、目を輝かせながら。
篠宮は手にしていたスマホをテーブルに置いて、煙草に火をつけた。
確かに、今日の陸は良く働いた。
セットアップの終ったあとはホテルの管理システムに侵入して顧客名簿上に篠宮に関わりある人間がいないことを確認したり、監視カメラを乗っ取ってホテル内の動向が部屋に居ながらにしてわかるようにしたりした。
それ以外にも、コンシェルジュに頼めばいいようなことまで、あらゆるお使いを引き受けて篠宮の為に懸命に働いた。
だから、こんなに目を輝かせて待っている。
「ごしゅじんさま?」
呼ぶ声もどこか甘いというか……期待に満ちているというか……とにかく何も疑いもせずに篠宮の次の行動を待ち構えている。
「……矢野原って奴がここに来たのはお前のミスにカウントされるんじゃねぇのか?」
「ふぇっ?」
まさかマイナスを持ち出されるとは微塵も思ってなかった陸は変な悲鳴を上げた。
「そ、それはおれのせいじゃないです! 新が勝手に来たんです!」
「そーか。じゃあ、ジャグジーにボディソープぶっこんで風呂場泡まみれにして部屋まで溢れさせたのはミスカウントじゃねぇのか?」
「そそそそそそれはっ」
陸はあわあわと顔色を青くして目を泳がせた後、五体投地のような土下座にシフトした。
「泡のお風呂がやってみたかったんですっ!」
「アホ」
足元にひれ伏す陸を、篠宮は素足でぐりぐりと踏みつけた。
「ぁっ」
「喜んでんじゃねぇよ」
「ごめんなさいっ」
とは言うものの、陸は今日は良く働いた。
昨日はあんな際どい事があったが、基本的には陸は篠宮のお気に入りの犬だと言ってもいい。
何も隠さず裏のない、めいっぱい忠誠を尽くす犬。
煙草を灰皿に押しつぶしから、足元にひれ伏しているワンコに声をかけた。
「ま、今日は許してやるか」
「ありがとうございますっ!」
その言葉に喜んで上げた陸の顔を篠宮は両手で包み込んで引き寄せた。
「えっ」
陸は為すがままに引き寄せられ、篠宮は引き寄せた顔にそっと唇を合わせた。
「ん……」
ぎゅっと目を瞑っている陸を見てほくそ笑むと、篠宮は舌で陸の唇を舐める。
ぺろぺろと舐めているうちに、強張っていた唇が緩み始め、おずおずと開かれた。
開かれた唇に舌を差し入れ、ゆっくりと舌を絡ませると陸の身体がビクンと震えた。
(こいつ、人間でも触手でも同じ反応なんだな)
改めてあの触手が目の前の男なのだと認識する。
一頻り舌を絡ませ、こぼれる唾液を啜り上げてやると、陸は可哀想なくらいぴくぴくと震える。
そんな様子に満足した篠宮は「ご褒美」を切り上げた。
「は、ぁ……」
唇を離すと、陸の唇から甘い吐息がこぼれる。
「ごしゅじんさま……」
キス一つでメロメロな様子の陸を見るとさらに満足げに笑う。
「よし、ご褒美は終わりだ。とっとと寝ろ、駄犬」
「え……えっ、ええっ!?」
足元に蹲り股間を押さえているのは、ご褒美より先を求めている証拠だったが篠宮はすっぱり無視して立ちあがった。
「ご主人様ぁ……」
陸は情けない声で篠宮を呼ぶが、そんなものも完全無視だ。
犬のしつけは最初が肝心。
誰が主かをしっかり分からせないとならない。
「お前はそっちの寝室を使えよ。じゃあな」
広いスイートには寝室が2つある。
陸がもじもじとしている間に、篠宮の寝室のドアはバタンと無情にも閉められたのであった。
―― 続
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