第7話 ご主人様と犬 その弐

「ご主人様!」

 ガッと肩を掴まれる。

 ここまで陸を完全に無視して帰ってきた。

 黙って歩き、黙って電車に乗り、一回も振り返らなかった。

「ご主人様……おれの方を向いてください」

 篠宮は陸の手を振り払って再び歩き出す。

 あの場で顔にこそ出さなかったが、篠宮は酷くイラついていた。

 陸が来なければ、篠宮は大木を取り込んで彼が黙り込んでいる情報を聞きだした上に、二度と篠宮の情報を売るような余計な真似をしないように仕込めた。上手くやれば、向こうに偽情報を流して攪乱することもできたかもしれない。

 それが、陸が割り込んだせいですべてダメになった。

 大木は警戒してもう二度と篠宮に接触しないだろう。新しい情報が追加で向こうに流れるとは思えないが、こちらからの取っ掛かりも失われた。

 イライラと爪を噛みたくなるような気分に苛まれながら、後ろから追ってくる足音と声を無視する。

(……いや、無視したいのは自分だ)

 後ろから来る足音の主に気持ちを向けて、敢えてそれを知らんぷりする行動に集中することで本当に忘れたいイラつきを見ないようにしている。

「ご主人様……」

「うるさいっ!」

 怒鳴りながら振り向くと、陸はぱっと明るい顔になる。

 振り向いてくれただけでどれだけ嬉しいのか。

 陸にとっては怒鳴られるより怒られるより、不要だと無視されることの方がはるかに苦しいのだろう。

「お前のせいで何もかも台無しだ」

 八つ当たりだと分かっている。

 陸が悪いわけじゃない。陸には何も話していないし、篠宮が動いたことに陸は不安でついてきただけだ。

 そして、身体を使って大木を陥落しようとしているのを見られた。

 篠宮は自分が少し綺麗な顔をしていて、背こそ高いものの、細身な体躯がある種の魅力を持っている事を知っている。暴力性を持って生きてる連中には性モラルが低い連中も多く、そう言った連中には十分使えるものであることを知っていた。

 使えるものを使わない手はない。それだけだった。

 関係さえ生まなければ、快楽で清算することは何の障害もない。

 なのに。

「ごめんなさいっ」

 篠宮は再び陸に抱きしめられた。

「ごめんなさい……ご主人様……」

 その身体を外界から隠すようにすっぽりと胸に収めて、慰めるように髪を撫でつけてくる。

「悪いと思ってんなら放せ」

「ダメです」

「お前なっ」

「こんな辛そうなご主人様、放せません……」

 繁華街の裏道、人通りの少ない路地裏とはいえ、陸は躊躇いもなく糖度の高い行為を続けた。

 篠宮の髪に唇を寄せ直接言葉を吹き込むように囁き、抱きしめる腕は包み込むように背を覆っている。

「放せ」

「ご主人様……」

 まるで泣いているような震える声。

(泣きたいのはこっちだよ)

 篠宮は胸の内で悪態をつく。

 鈍感そうに見えて意外と機微を読む陸が、大木に擦り寄って誘いかけている篠宮を見てどう思っただろう。

 あんな風に自分を餌に取引を持ちかける姿を。

(俺は傷ついてなどいない)

 調子が狂う。こんな風に考えること自体おかしい。

 1人だったときは何にも躊躇うことはなかった。

(もし傷ついたとしたら)


―― 陸がいるからだ。


 陸は決して篠宮を罵ったりしない。厭いもしないし、侮蔑もしない。

 ただ、無邪気な目で、篠宮が捨てざるを得なくて切り捨てた過去のような顔で、男に股を開いて嗤って切り売りしている篠宮を無言で追い詰めてくる。

 綺麗なものを見ていたら、自分がどれだけ泥だらけか思い知った。

 泥の中に居る時は泥だらけなのは当たり前だった。

 周囲には泥をかぶった連中しかいなくて、頭の中が麻痺していた。

 綺麗なものを見て、泥だらけの自分を恥じる自分すら厭わしい。

 丘の上にも、泥の中にもいられない半端者だと思い知らされるようで。

「火事だっ!」

 その声にハッと我に返った。

 抱き合った二人の背後から声が響く。

 雑居ビルから人が飛び出してきて、通りの向こうへ目をやっている。

 篠宮が身を捩ると今度は陸も手放した。

 二人して振り返ると夕暮れ前の薄暗い空にもはっきりわかる黒煙が上がっている。

「ホテル街の方だな」

「爆発音がしたって」

 次々と姿を現すやじ馬たちが、ポツリポツリと情報をもたらす。

「ご主人様」

 篠宮の肩に触れていた陸の手に無意識に力が入る。

「ああ」

 嫌な予感がする。

 二人は黒煙の立ち上る方へと足を進めた。


 燃えていたのは篠宮のホテルだった。

 二人が駆け付けた時には全焼は間違いない火の勢いで、やじ馬をかき分けて飛び出していこうとする陸を篠宮は押えつけた。

「ご主人様?」

 そのまま腕を引いてきた道を戻り始める。

「ご主人様っ、ホテルが……」

「大丈夫だ。飯島が警察と話をしているのが見えたし、今の時間ではまだ客は入る前だろう」

 飯島は篠宮の雇っているホテル管理のチーフだ。元ヤクザで人の扱いと金の管理に強く、篠宮にも必要以上に干渉しないで上手く回してくれる信用のおける男だった。

 その飯島が落ち着いて警察と話をしているという事は、火事以外の被害、けが人や不明者などは多分ないと思われる。

 こうなると火の勢いが強いのは逆にありがたい。あの火力ならPCもデータも復元不可能なほど燃えることだろう。炭になってくれれば始末の手間が省ける。

「しばらく、居場所を移すぞ」

 不安げに後ろを振り返りながら後ろをついてくる陸に声をかける。

「どこに」

 篠宮のシャツの裾を掴んだまま、陸は瞳を揺らしている。

「とりあえずは寝床の確保だ」

 歩きながらスマホで電話をかけて、外資のハイクラスホテルの予約を取る。

 国内資本のホテルだと大手商社の縁故で大島に嗅ぎつけられる可能性がある。

 外資だから大丈夫とは言えないが、少なくとも「お得意様」である可能性は低くなる。

 部屋はすぐに押えられた。とりあえず1週間。様子を見てから、ホテル以外にもっている物件へ移動するかどうかを決めればいい。

 隠れ家はなにもあのホテルだけが全てじゃない。

 ラブホテルは収入もあるいい隠れ家ではあったが、他にもマンションや戸建ての家などいくつかの物件がある。ただ、どれも安全である確認が取れる前に安易に移動すればホテルの二の舞になりかねない。

 メールをチェックすると飯島からメールが入っていた。

 火事はやはり放火らしい。ホテル地下の駐車場から出火、爆発音もあり、従業員が全員外へ逃げるのでやっとだったようだ。当時客はなく、地下に止まっていた車もなかった。

 カメラの映像が残っていれば何か掴めたかもしれないが、そう言ったものも全て燃えてしまった。

 飯島にしばらく警察の対応を頼むと、篠宮は持っていたスマートホンを初期化しSIMカードを取り出して圧し折った。残ったスマホも圧し折って、通りすがりのコンビニのごみ箱に捨てた。おまじない程度だとは思っているが、メインで使っている連絡先は全て絶つ。

 端末アドレスなんかすぐに別のものが用意できる。

「お前のも寄越せ」

「え?」

「スマホ、買ってやったのがあるだろ。新しいの用意するからそれ捨てろ」

「あ……分かりました」

 陸は取り出したスマホを同じようにSIMカードを圧し折り本体もこわして捨てた。

「とりあえず、買い物してから今日の宿だ。お前もいるものがあれば言え」

 二人ともほとんど着の身着のままで焼け出された。

 バッグにタブレットなどは持っているが、これもヤバそうならば破棄して新しいモノを用意しなくてはならない。

 生活品は一切ない。買い物をしなくては靴下一足の替えもない。

 金の心配などは一切ないのだが、その手間が煩わしい。

 陸がその煩わしさにため息をついていると、陸が恐る恐る声をかけて来た。

「ご主人様……」

 大木と会っていた時の勢いはすっかり抜け落ちて、オロオロしながら篠宮の後を忠実についてくる。

「どうして……」

「こんな仕事をしてれば、こんな事があるのは覚悟してた。ホテルは保険がかかってるし、全焼してくれりゃデータは完全に失われる。隣のヤクザ事務所に延焼してクレームが来ても対処するだけの金もある。何も問題はない」

「そんなのっ……外出してたから助かったけど、そうじゃなかったら……」

「死んでたって? そんなのも覚悟の上だ」

「でもっ! 命、狙われたんですよ?」

 陸だってバカじゃない。今回の火事がホテルの火事が目的ではなくて、篠宮を狙ったものだという事くらい感づいたのだろう。

「だから何だ?」

 篠宮は陸に向き直って唇を歪めるようにして嗤う。

 半分は自嘲、半分は物知らずのガキに対する当てつけだ。

「さっきの店でも見ただろう。俺は別にそんなことはどうでも良いんだ。男に掘られて欲しいもんが手に入るならそれでいいし、どうしようもない時に絶対生き抜きたいなんて思わないんだよ」

 その言葉に陸が目を見開く。

 驚き、恐れ、悲しみ。そんなのが混ざったような辛い色が浮かぶ。

 陸は何か言葉を発しようとして、声が出なくて飲み込み、でも何か言いたい。そんな様子で唇を震わせたが、最後にはぎゅっとその唇をかみしめた。

「お前とは……」

 違うんだよ。

 そう言い捨てるはずの口を陸に塞がれる。

「っ!」

 陸は篠宮を強引に抱き寄せ、その顔を胸に押しつけて隠すようにして言った。

「ご主人様がいらないなら、おれに、ください」

 抱きしめる腕は有無を言わせぬ力強さがある。大木と会っていた時に割って入ったよりももっと強く篠宮を抱きしめる。

「何をっ、こんな所で……」

「いらないなら、おれにっ」

 陸は篠宮の顎を掴んで上向かせると、強引に唇を合わせた。



―― 続


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