死者の底流 Ⅸ(後編)


     Ⅸ(後編)


 横島と兵藤は、かろうじて空いていた個別席に通された。

 並んだ二人を間にして、横島の隣に御指名のエミちゃんとやら、指名のない兵藤には手隙てすきのホステスがはべる。

「へえ、そちらの兵藤さんって、ほんとに一流誌のヒトなんだ」

 エミのくだけた口調に、横島も軽いノリで、

「ああ。もう社会部バリバリのエース、前途有望なエリートだぞ」

「ちょっと、席、代ろうかな。次は私を指名してもらおう」

「君は硬派向きじゃないだろ。俺みたいな軟派がぴったりだ」

「でもヨコちゃんだって、昔は社会部の硬派だったんでしょ」

「ああ。あんまりハードボイルドに生きすぎて、嫁に逃げられた。これからは一生、軟派として生きる。次の嫁はエミちゃんがいいな」

「触るな。ここはセクキャバじゃない。出禁にするぞ」

 横島たちの、それこそキャバクラじみた交歓に、兵藤と隣のホステスは、苦笑するしかなかった。

 兵藤に付いたホステスはエミと同年配だが、サクラという源氏名にふさわしく、しっとりとした風情で声も小さい。こうした遊びに慣れない兵藤には、かえってありがたかった。

 横島が兵藤に言った。

「こんな軽い娘もいるところが、高級クラブと言いきれない由縁です」

 おい、とエミが横島の脇腹を突いた。

 横島は笑って「やめろよ」と流し、続けて兵藤に、

「マジな高級クラブだと、俺みたいな貧乏人も、知性と教養を備えた美女たちに囲まれて飲める。でも一晩で破産しちまう。だから俺みたいな野良犬は、ここでエミちゃん一人を相手に、我慢するしかないわけです」

「はい、ヨコちゃん出禁決定」

「だったら、あっちの連中も出禁にしろよ」

 横島は、長椅子から響いてくる歓声を、顎でしゃくって言った。

 するとエミは、

「ヨコちゃんは、あっちに合わせちゃダメ。あっちの若い人たちは、今晩きりの一見いちげんさんだから」

「この店に、一見の集団とか入れた?」

「田島さんに頼まれたのよ。新入社員の有望株に、一晩だけ社会見学させてやってくれって」

「田島さん?」

「ママがついてる、あの社長さん。あの人も、ヨコちゃんの記事でママを見初めた会員さんなの」

 なるほど、とうなずく兵藤に、隣のサクラが言った。

「ごめんなさいね、今夜は騒々しくて」

「いや、横島君も充分やかましいから」

 横島は、その社長の様子を窺い、

「見るからに偉そうだけど、太客かい?」

「うん。ボトルはいつも、ヘネシーのエリプスだし。今晩なんか、若手社員用に五本用意したって」

 数あるヘネシーの中でも、確か一本百万以上の酒である。

「うわ、どこの大富豪だよ」

 兵藤も、エミが大げさに言ってるのではないかと、隣のサクラに目顔で訊ねた。

 するとサクラは、しごく真面目な顔でこくりとうなずき、

「いつもはお友達の社長さんと、そのヘネシーを召しあがるんですけど、先月、元都知事の方といらした時は、レミーマルタンのブラックパールを」

「……あのルイ十三世のブラックパール?」

「はい」

 さすがに兵藤も絶句した。最近、超高級酒の特集記事で読んだ記憶がある。

 横島が兵藤に訊ねた。

「えーと、それって、あそこの棚でキープされてる、ルイ十三世とは違うんですか?」

「役者が違う。出た当初は定価百万だったらしいが、あっという間に希少価値でけたが増えた。去年、どこぞの大商社の会長が北新地でボトルを開けたら、三千何百万とられたとか」

「……舐めるだけで破産しそうだ」

 エミが苦笑して、

「うちはそんなに高級店じゃないから、二千万でお釣りが出るよ」

 いや、やはり大した店なのだ、と兵藤は思った。日本中を探しても、すでに数十本しか残存していない稀酒と聞く。


 奥の長椅子前の席で、その金満家に貼りついていたママが、ようやく席を外し、こちらに挨拶してきた。

「ごめんなさいね、横島さん。大恩人なのに、ちっともお相手できなくて」

「いえ、僕の記事が役に立って本望です。あちらの方を、くれぐれも大事にしてください」

 兵藤もママに軽く挨拶し、名刺を交換した。

 横島の記事に『洋子ママ』とだけ記されていた彼女は、現在、須田洋子と名乗っているらしい。髪型は写真と違っているが、和装に合わせて後ろに結い上げているので、なんとか耳全体が窺える。

 兵藤は困惑した。

 写真では確かに独特の形だった耳が、今はぎりぎり普通に見える。

「あら、兵藤さんは、あの近代社にお勤めですのね。今日じゃなかったら、ゆっくりお相手してさしあげたいんですけれど――」

 兵藤は、努めてさりげなく応じた。

「いえ、私は横島君に、たまたま案内してもらっただけですから」

「ほんとうにごめんなさいね。――じゃあ、エミちゃん、サクラちゃん、こちらのお二人をよろしくね」

 二人とも、はい、と殊勝にうなずいた。


 ママが元の席に戻って行くと、エミは冗談口調で、

「ヨコちゃんのボトル、そろそろ空くよ。噂のエリプスでも開ける?」

 横島は力なく、

「いや、次もジョニ黒でお願い」

 あちらの席の桁違いな羽振りの良さに、萎縮してしまったらしい。

 そんな横島の肩を、エミは力づけるように叩いて言った。

「実はあたしも、そっちのほうが好きだったりして」

 本音とは限らないが、兵藤が見る限り、少なくとも大衆向けの酒を憐れむ顔ではない。彼女の飾らない言動からして、たとえ月に一度でも、横島ほど心を開ける男は他に来ないのだろう。

 ボーイを呼ぶエミに、兵藤は言った。

「いや、ジョニ青を二本開けちゃおう。横島君と俺で一本ずつ」

 ジョニ黒でも荷が重い横島は、目を丸くして、

「マジですか?」

「ああ。――で、俺も、この店の会員になれるかな」

 洋子ママの正体に確信を得た以上、これからも出入りして、色々探らねばならない。

「お相手はサクラちゃんにお願いしたいんだけど」

 サクラは喜んで兵藤の腕を取った。彼女の性格だと、一流誌の真面目そうな記者である兵藤は、軽い横島よりも好ましいらしかった。


 それから小一時間ほど気兼ねなく飲んで、二人は店を出た。

 賑わう並木通りを銀座駅方向に戻りながら、横島は上機嫌で言った。

「ほんとにいいんですか? 丸々奢ってもらっちゃって」

 今夜の会計は、二人で三十万を超えている。

「大丈夫。取材上の接待は、経費で落とせるから」

「いいなあ、売れっ子の事件記者は」

「近頃は風俗系でも、取材費使い放題とか聞くぞ」

「フリーですもん、限界がありますよ。三割方は自腹です。それをネタの使いまわしで回収する。自転車操業って奴ですね」

「でも、七割引きで女遊びができるじゃないか」

「そりゃそうですが、依頼される記事の大半はソープですから」

「体がもたないってことか?」

「それ以上に、写真が難しいんです」

「ほう、そうなのか」

「世間の景気が良すぎて、いい女なら若きゃキャバクラ、年くっても熟女パブあたりでガッツリ稼げますからね。だから泡まで落ちるは、良くて十人並み、残りは人三化七にんさんばけしちです。そんなたちにも、俺の記事で客を呼んでやらなきゃならない。俺、わざわざメイクアップスクールで修業したんですよ。それでもカバーしきれないは、撮った後、俺がフォトショで細工します。プリクラやスマホアプリみたいなミエミエの加工じゃ、今時の男は騙されません。いかにも十人並みのっぽく、自然に加減してやるわけです」

「もはや技術職の世界だな」

「ええ、まったく」

 横島は、すれ違う社用族たちを一瞥し、

「――世間では永久バブルとか浮かれてますけど、そもそも浮かれすぎなんですよ。例の新型原発だって、いざ稼働したら、どんなリスクが出てくるか判ったもんじゃない。政府はいい事ばかり言ってますけどね」

 やっぱりこいつも、昔の尻腰しっこしをなくしていないな――。

 そう思いながら、兵藤は訊ねた。

「ところで、横島君は気づかなかったか?」

「気づくって、何を?」

「洋子ママの顔、記事の写真と変わってただろう」

「え? いや、どこが……。強いて言えば、去年取材した時より、ちょっと頬っぺたがふっくらしたくらいかな」

 兵藤は、蒲田のスナックで借りてきた古い週刊誌をバッグから取り出し、例の巻末グラビア特集を開いた。

「よく見てくれ」

「…………」

 横島は、撮影当時の記憶と今夜の記憶をじっくり比較し、

「――そうか! 今日のママは、顔が膨らんだわけじゃない。耳の感じが変わったんで、フェイスラインが変わって見えたんだ」

「そのとおり」

「よく気がつきましたね。言われなきゃ判らなかった。兵藤さん、女がらみの記事にも向いてるんじゃないですか?」

 横島は感心しきりだったが、ふと怪訝けげんの色を浮かべ、

「でも、やっぱりおかしいな……」

 そう独り言ちてから、

「兵藤さんは『エルフ耳』って知ってます?」

「エルフ? 童話に出てくる妖精のことかい?」

「はい」

 横島は、自分の耳を指でつまんで見せ、

「ファンタジーに出てくるエルフって、こんなふうに耳が尖って、横に突き出てますよね。で、去年の洋子ママは、そこまでじゃなかったけど、ちょっとそれっぽい耳だったでしょう?」

「ああ」

「今、中国あたりで流行ってる美容整形に、『エルフ耳』ってのがあるんです。あくまでSNS界隈の造語らしいですけど、要は普通の耳を整形して、こう横に立てる。そうすると頬や顎をいじらなくとも、顔全体が前より細面に見える。つまり手軽に小顔化できるわけです。でも洋子ママはその逆で、元々エルフっぽい耳を、わざわざ寝かせた――」

「ああ。形も少し変わってたよね」

「なんでわざわざ、逆にしたんでしょう。銀座のママらしく、顔に貫禄つけようとしたとか?」

 いや、これでいよいよ、片桐澄香とは別人になったのだ――。

 洋子ママが今年に入ってしばらく店を休んだ事は、エミやサクラから、さりげなく聞き出してある。おそらく横島の記事の写真から、自分の耳の不備に気づき、最後の梃入れを行ったのだ。今のママの写真なら、あの西崎美由紀さえ、かつての同僚とは気づかなかっただろう。

 そう確信しつつ、兵藤は横島にうそぶいた。

「ま、そんなところかな。でも、記事にはしないほうがいいね」

「しませんよ。どこぞのパトロンを怒らせたら、元も子もなくなる」





    〈第三章【死者の底流】 終了〉



         〈第四章【生と死の夜会】に続く〉






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