闇への供物 Ⅹ


     Ⅹ


 拓也たちは、設備室を東西に貫く無人の通路を、上水道の揚水管に添って第四貯水槽室に向かった。

 屋上のヘリポートから設備室に入る東側の扉や、下の階から上る西側の階段の扉は、パスワード入力式キーと専用のカードキーで内外双方からロックされているし、外部には防犯カメラも設置されている。

 しかし設備室内部の空調室外機エリアやエレベーター上部機構エリアなど、各エリアの扉には通常のシリンダー錠があるだけで、防犯カメラ等は設置されていなかった。代わりに設けてある赤外線方式の人体検知装置も、商業施設の終了後に作動するよう設定されている。

 メカニズム上のエラーは地下の警備室で常時検知できるし、まさか真っ昼間にマンション部の天井から江戸川乱歩好みのが侵入するとは、誰も想定しなかったのだろう。


 貯水槽エリアには扉さえなく、コンクリートの壁で区分けされただけの空間に、揚水管がそのまま引きこまれていた。

 犬木茉莉まりは貯水槽を見上げ、拍子抜けしたように言った。

「こんだけのビルなのに、こんなにちっこいタンクなの? ふつうのマンションの屋上にあるのと、大して変わんないじゃん」

 確かに、各種のパイプが繋がる高さ4メートルほどの貯水槽は、中層マンションの給水タンクと大差ない外見である。

 拓也はその理由を説明できるが、今は先にやるべき仕事があった。

 拓也は、ちょっと待って、と茉莉を制し、床に腹這いになって、貯水槽の下を覗きこんだ。貯水槽は底部の定期点検も必須なので、床との間に必ず作業用の空間が設けられている。

 拓也は用意してきたLEDライトで、貯水槽の下の床を漏れなくチェックした。

 佐伯さえき康成やすなりのメールによれば、安田課長がたどり着こうとしていた縦穴の出口が、そのあたりにあるはずだった。縦穴の下から見ると、天井の一角――例の非常梯子ばしごの上端部分に、数十センチ四方の金属ぶたがあるという。おそらくその四方が、教育長室の隠し扉と同じように、外側から護符で封印されているのだ。

 トビメは荷物を置いて元のオコジョに戻り、拓也の横に控えている。

 茉莉がしゃがみこんで、拓也に話しかけた。

「前にテレビで見たんだけどさ、なんか古臭いパニック映画で、超高層ビルが大火事になるのね。で、一番上の階にある貯水タンクを爆発させて、その水で火を消すわけ。その映画だと、上の階にでっかいタンクがずらずら並んでて、そのタンク全部爆発させて、ビルん中を丸々滝みたいにして――」

 相手が仕事中でも、自分がしゃべりたいことは、とりあえず口にしないと気の済まないたちらしい。

 それは、すでに拓也も心得ているので、

「ごめん、もうちょっと待って」

「うん、待ってる」

 あくまで口を閉じる気はないらしい。

 拓也が目を凝らし続けると、コンクリート床の中央付近に、僅かな窪みがあるように見えた。LEDの直線的な光でなければ気付けない程度の曖昧あいまいな窪みだが、どうやらメモにあった大きさの正方形らしい。

 拓也はトビメに言った。

「君なら匂いで判るかな。あのあたりの床下に、護符で封印した蓋があるはずなんだ」

「きゅん!」

 トビメは張り切ってうなずいた。

 言われたあたりに駆けて行き、くんくんと床を嗅ぎ回る。

 拓也はトビメを見守りながら、横の茉莉に言った。

「――その映画って『タワーリング・インフェルノ』?」

「タイトルは覚えてない」

「たぶん、あの映画だと思う。もう何十年も昔の映画だから、当時はそんな貯水設備だったのかもしれないけど、今は違うんだ」

「そうなの?」

「うん。一定以上の超高層ビルになると、途中の階にも貯水槽がある。このタワービルだと、まず外の水道管から水を溜める受水槽が地下一階にあって、そこからポンプで十階の第一貯水槽に水を送る。その貯水槽から、またポンプで二十階の第二貯水槽にも水を送る。そんな感じの順送りで、この第四貯水槽まで水が届くんだ」

「なんで? わざわざめんどくさくない?」

「地下からここまで一気に水を上げるポンプって、どれだけパワーがいると思う?」

「――そっか」

「それに、全部の階に必要な水を最上階だけに溜めたら、下の階では水圧が上がりすぎて危険になる。蛇口が破裂するかもしれない」

「タクヤって、ほんとになんでも知ってるんだね」

「ざっと説明しただけだ。詳しく説明したら一時間以上かかる」

「……パス」

 話している間に、トビメが拓也の前に戻ってきた。

「きゅん、きゅん」

 奥を見て下さい――そんな手振りをしている。

 拓也が覗きこんでライトを当てると、白いチョークで軽くなぞったような、線画が浮かび上がった。やはり数十センチ四方の正方形で、各辺に護符らしい小さな長方形が重なっている。

 トビメは口元に付着したコンクリートの粉を、前足でちょこちょことぬぐっていた。

「床をかじって書いてくれたのか?」

「きゅん!」

 拓也が指で頭を撫でてやると、トビメはご満悦で目を細めた。

 拓也は山室やまむろ老人の言葉を思い出していた。

『トビメなら鉄筋コンクリートの壁くらい簡単に食い破れる』――。

 元々出入口があったなら、その上をコンクリートで塗り固めたとしても、それほど深くはないはずだ。浅いからこそ、乾燥した後に周囲の床と段差が生じたのである。

「君にもう一つ、お願いしていいかな」

「きゅん?」

「大変だろうけど、あの大きな四角をなぞって、床をくり抜いてほしいんだ 下に金属板が出てきたら、そこまででいい。護符は破れてもかまわない」

「きゅん!」

 それくらいお安いご用です――。

 トビメは勇んで貯水槽の下に消えた。


 トビメが本格的にコンクリートを噛み砕く音を聞きながら、拓也は念のためバックパックの中身をチェックした。バッテリー関係以外にも、マウスやバックアップ用の外部SSD、クリップ式のWEBカメラ等、一通りの小物を持参している。

 地下に残してきたノートパソコンは、あくまで外使い用だったので付属品がない。佐伯康成の行動理念がどうであれ、今後もコミュニケーションが必要な以上、康成側のデジタル環境も整えておきたかった。

 犬木茉莉は父親の生首しか保冷バックに入れていないので、わざわざあらためるまでもない。手持ち無沙汰の茉莉は、チェック中の拓也に、あれこれ話しかけてきた。拓也もなるべく小まめに答えた。おしゃべりな女子に沈黙で対抗したところで、勝てるはずがない。


 トビメは十五分程度で、貯水槽の下から戻って来た。

「きゅん!」

 おおせのとおり、抜かりなく――。

「ずいぶん早かったね、ご苦労様」

 トキメの頭を撫でてねぎらうと、拓也はバックパックを引きずって、貯水槽の下に潜りこんだ。

 トビメが後に続き、茉莉も保冷バックを手に後を追う。

 先刻の四角い目印に添って、コンクリートが綺麗に囓り取られ、鉄枠に囲まれた蓋が覗いていた。周囲にコンクリートの砕片や粉塵は見当たらない。全てトビメが飲みこんでしまったのだろう。

 自分の体の何倍もあるコンクリートをどうやって消化するのか、拓也には全く理解できないが、昨日、管生くだしょうとトビメだけで安田課長の死骸を平らげてしまった事実を思えば、それが可能なのは確かである。そもそも自在に体形や体長を変えられる時点で、超自然の存在だからと納得するしかない。

 鉄蓋の四方には、やはり護符が半分ほど露出しており、すでにトビメの牙で噛み裂かれていた。

 鉄蓋の端近くに埋めこまれていた開閉用の金具を、拓也はバールを使って引き上げた。

 蓋が開いても、異臭は感じなかった。

 あの非常階段の先端が、すぐ下にある。

 昨日、拓也の暑さを和らげてくれた鬼火たちが、あわてて逃げるのが見えた。

 しかし三つほどの鬼火は、またゆらゆらと昇ってきた。まるで拓也の顔を覚えていたようなそぶりである。やはり鬼火たちは、記憶や感情を持ち合わせているらしい。

 拓也は鬼火たちに言った。

「やあ、また会ったね」

 鬼火たちは物怖じもせず穴から浮かび上がり、拓也の顔の周囲を漂い始めた。

 トビメは疑わしげに鬼火たちの様子を窺っていたが、無害と判断したらしく、すぐに警戒を解いた。

 隣の茉莉が言った。

「タクヤって、ほんと妖怪系に好かれるよね。人間離れしてるからかな」

 その時、拓也のスマホが震動した。ビデオ通話の着信である。送信元は拓也自身だった。

 すぐにアプリを立ち上げると、昨日地下に残してきたノートパソコンから、佐伯康成がアクセスしていた。

 スマホの画面に、自宅の居間でくつろぐ康成の姿が浮かぶ。

『もう開けてくれたのかい?。そんなに急がなくてもよかったのに』

ですから」

『それは皮肉かな?』

 康成は苦笑して、

『なんにせよ、ありがたいことだ。今、上が開く気配を感じて、半信半疑でパソコンを起動してみたんだ。これでしばらくは、電池切れを心配せずに使える』

「専用バッテリーは一つしか用意してませんが、もっといい物を持ってきました。標準コンセント付の大型蓄電池とACアダプターです。そのパソコンなら、半月は動かせると思います」

『ほう、それはますますありがたい。――いや、待てよ』

 康成は自問して、それから拓也に訊ねた。

『すると、ここにある坂本記者のパソコンも使えるわけか』

「ACアダプターが合えばですが」

『ネットで調べてみよう。あちらのデータが使えれば、利用価値は無限だ』

「電池が切れそうになったら、また連絡してください」

『それには及ばない。いつでもお出入り自由の扉が開いたんだからね。教育長室と違って、人目にもつかない。そこにいる茉莉君にでも、またお使いに出てもらえばいい』

 横に離れてカメラの画角をのがれていた茉莉が、うへえ、と言うような顔をした。

 拓也は康成に訊ねた。

「ここに犬木さんがいるって、下からでもわかるんですか?」

『無断外泊するようなじゃじゃ馬娘でも、すでに私の眷属けんぞく、いわば家族だからね。家と外を隔てる封印さえ解ければ、どこにいても私にはわかるさ』

 茉莉は拓也に、カメラを自分に向けるよう、手ぶりで頼んだ。

 拓也が応じると、茉莉は康成にぺこりと頭を下げ、持参の保冷バッグを前にかかげた。

 ずるり、と父親の生首を引き出して、カメラに近づける。

 康成は、さすがに驚いて口をつぐんだが、一転、呵々大笑した。

 大笑は、ほどなくくすくす笑いに変わり、

『――なるほど、そうきたか。外泊の言い訳はおいおい聞くとして、そのお土産は喜んで受け取ろう』

 茉莉は拓也に、指でOKサインを出して見せた。

 茉莉の手首は、死体の色から元の肌色に戻っていた。封印を解かれたはくがさっそく外に漏れ、茉莉の力となっているのだろう。トビメもはくを察知したらしく、くんくんと鼻をひくつかせている。

 その時、上機嫌だった康成が、ふと表情を曇らせた。

『――拓也君、君はすぐにそこを離れたまえ』

「はい?」

いやな連中が、このビルに近づいている』

 ヘリポートのある方角から、微かな爆音が響いてきた。

 茉莉は顔色を変えて、父親の首をカメラに近づけた。

「こいつの手下とか?」

 康成はかぶりを振った。

『ヤクザはヘリで殴り込まないだろう。もっとたちの悪い相手だ』

 拓也は訊ねた。

「蔦沼警察でしょうか」

『それも有りうるね』

 爆音を聞く限り、ヘリコプターは驚くほど速やかに下降して来ている。

「すみません、ちょっと通話を切り換えます」

 拓也は康成にそう告げて、兵藤記者のスマホにアクセスした。

 兵藤記者は、午前中に空路で東京に向かっている。

 兵藤の調査によれば、佐伯康成が七年前に駆け落ちしたと噂される相手は、蔦沼の場末で働くホステスだった。当然、彼女も康成と共に失踪している。しかし、当時彼女と親しくしていた同僚のホステスが、今は蒲田かまたでスナックを経営していると判明し、その聞きこみに向かったのである。

 幸い兵藤記者は、すぐにビデオ通話に応じた。

『やあ、拓也君。そちらの進展はどうかな? こちらはご覧の通り、タクシーの中だ。今、蒲田に向かってる』

 兵藤は昨日の軽装ではなく、改まった取材用らしいスーツ姿だった。

 拓也は端的に状況を伝えた。

「例の扉は見つけたんですが、今、ちょっと非常事態なんです。屋上のヘリポートに、ヘリコプターが下りてきてるんです」

『何だって?』

 兵藤記者は血相を変えた。

『すまん。一旦、切らせてもらう。五分以内に必ず連絡する』

「お願いします。念のため、続きはコメントだけで」

 その五分の内に、音声を出せない事態が生じるかもしれない。

 話し終えた拓也の腕を、茉莉がつかんだ。

「こんなことしてる場合じゃないよ。タクヤ、早く逃げないと」

「でも――」

「荷物はサヤの親父さんにまかせりゃいいじゃん」

「――そうだな」

 拓也はバックパックをその場に残して、即時撤退することに決めた。

「じゃあ、後はよろしく」


 トビメと共に貯水槽の下から這いだし、元の上下水道本管シャフトに向かう。

 ふと気づくと、なぜか茉莉も後についてきていた。

「どうして?」

「ちゃんと逃げられるか確かめないと」

 ヘリコプターのローター音が、徐々に静まろうとしていた。

 ヘリポートから設備室に入る東の扉は、上下水道本管シャフトの先にある。

 拓也がまだ数メートルも進まない内、通路の奥からロック解除のビープ音が響いた。

「こっち!」

 茉莉は拓也の腕を取り、手近な物陰に引きこんだ。

 そこは作業員や警備員が事務的な付帯業務に使用する一角らしく、折り畳み式の椅子や長机が、ホワイトボードを背に設置されていた。身を潜められそうな物陰は、他に見当たらない。

 茉莉は長机の下に拓也を押し倒し、いきなり自分の制服の胸を開くと、拓也のズボンのジッパーを引き下げた。

「お、おい」

 戸惑う拓也の耳元で、茉莉がささやいた。

「学生バカップルが忍びこんで不純異性交遊中」

 茉莉の生前のテリトリーでは、雑居ビルの非常階段あたりで、珍しくもない光景だった。大人に見つかれば面倒なことになるが、最悪でも素行不良で補導されるのが関の山である。

 トビメはそんな二人に目を丸くしていたが、ヘリポートの扉から人影が現れると、背中の毛を逆立てて牙を剥いた。只者ではない気配を察したらしい。

 茉莉がブラジャーを外した時、拓也のスマホが震動した。

 兵藤からのラインメッセージである。

『情報が遅れてすまない。災害時を想定した緊急ヘリポート使用訓練。抜き打ちで、警備会社も直前に連絡を受けた』

 拓也は即座に返信した。

『レスキューのヘリですか?』

『いや、陸上自衛隊だ。所属は未確認』

 拓也はこちらに向かってくる人影を検めた。

 男が六人、特に警戒する様子もなく、こちらに進んでくる。自衛隊らしい軍装ではなく、ダークグレーの作業着姿である。

 先の二人は、電動ドリルらしい工具を肩から下げている。

 次の二人は、それぞれ背後にハンドフォークを引いている。フォークには何か一メートル四方ほどの分厚い金属板と、同じ大きさの金属枠を乗せているが、よほどの重量物らしく、慎重な足運びである。

 後の二人はフォーク要員の予備なのか、特に目立つ荷物は手にしていない。

 ただ、全員が腰のベルトに下げている布製の袋は、一見ただの工具入れに見えるが、その上端から覗いている器具の形と光沢は、何か銃器の一部のようにも思え、拓也はいぶかしんだ。

 いずれにせよ、間もなく彼らが自分たちの横を行き過ぎるのは確実である。

『臨機応変に対処します。また後で』

『君のことだ。きっとうまくやれる』

 拓也は一旦、兵藤とのラインを閉じた。

 目の前には、男たちを窺う茉莉の乳房がある。

 顔の横には、毛を逆立てたトビメの背中がある。

 とりあえず茉莉のアイデアに従うのが順当だろう、と拓也は判断した。いざとなったらトビメに制圧してもらう手もある。

 六人の男の内、先頭の二人は、

「先に現場を確認する。貴様らはゆっくり来い」

 そう後続に告げ、貯水槽エリアに向かって足早に行き過ぎた。

 しかしハンドフォークを引く二人は、通路の左右に気を配りながら、慎重に進んで来る。

 先の男が、視界に茉莉の背中を捉え、足を止めた。

「――誰だ。なぜここにいる」

 一目で女子高生と判るからか、さほど厳しい声ではない。

 茉莉は慌てた様子で半身を起こし、拓也に向かって不機嫌に言い放った。

「なによシンジ、ここなら誰も来ないっていったじゃん」

 それから露わな胸を隠しもせず、相手の男に、両手を合わせて頼みこんだ。

「ごめーん。すぐ出てくからさ。オジサマ、ここは見逃して」

 いかにも甘ったるい、舌足らずな声だった。

 しかし次の瞬間、男は無表情のまま、拳銃のような武器を茉莉に向け、躊躇ちゅうちょなくトリガーを引いた。

 拓也は男の行動に目を疑った。

 射出されたのは、弾丸の類ではなかった。銀色に光る、釣り糸のような二本のワイヤーである。

 ワイヤーの先の電極針が、茉莉の裸の乳房と制服の腹部に、深々と突き刺さった。

 ――テーザーガン?

 スタンガンの一種であるその射出式兵器を、拓也は海外のネット動画で記憶していた。非致死性兵器のスタンガンと原理的には似ているが、テーザーガンはあくまで兵器である。電極針の刺さる部位や深さ、また相手の肉体的コンディションによって死亡する例も少なくない。

 間髪を入れず、次の男が拓也に向かってトリガーを引いた。

 しかし寸前、トビメが男に躍りかかった。

 跳躍と同時に人よりも大きく膨張し、射出されたワイヤーを吸いこみながら、男の両腕をテーザーガンごと肘の上まで食らいこむ。

 ばつん、といやな音が響き、男はほぼ真円に目を剥きながら、その場に立ちすくんだ。肩先で切断された両腕から、血潮が吹き出していた。

 ほぼ同時に、先に茉莉を撃った男が、ぐえ、と食用蛙のような声を漏らした。

 茉莉が胸と腹にワイヤーを垂らしたまま、男を二つ折りにしていた。男は自力では不可能な角度までのけぞり、その腰は腹を頂点とした逆Vの字を描いていた。

「――心配しないで、オジサマ。殺したりしないから」

 断末魔で痙攣している男に、茉莉は顔を寄せて言った。

「いいとこに連れてって、永遠にイジメてあげる」

 後方の男二人は、それらの惨劇を目前にすると、ヘリポートへの扉に向かって一散に逃げ出した。彼らも他の仲間同様に鍛えられたプロなのだろうが、トビメの姿が見えていないため、仲間の両腕が宙空で消えた理由が理解できない。茉莉の姿は見えているが、明らかに人間とは違う次元の怪物である。

 一方、先に通り過ぎた二人は、すでに貯水槽エリアに達しており、後方で起きた惨劇を目撃していなかった。

 一人が貯水槽エリアから顔を覗かせ、拓也に向かってテーザーガンのトリガーを引いた。

 予測していた拓也は、かろうじてワイヤーを交わした。

 一度発射したテーザーガンは、前方のカートリッジを交換しないと再発射できない。発射した直後にカートリッジが自動散開し、残った本体を接触式スタンガンとして転用できるタイプもあるが、男たちの装備品は違ったのだろう。

 男はテーザーガンを放棄して、体勢を崩した拓也の直前に迫った。

 文字通り跳ぶような瞬足であり、後ろにいるトビメや茉莉には、制止できないタイミングだった。

 なんとか姿勢を正して組手に備えた拓也は、武道家相手とは全く異質の、純然たる殺気を真正面から受けた。

 相手には明らかな殺意があった。

 殺し合うしかない、と拓也は悟った。

 ほんの一秒前まで、思いもしなかった成り行きである。

 無論、自分が死にたくないのと同じレベルで、他人を殺したくはない。しかし、殺傷能力が皆無ではないテーザーガンを、半裸の少女に迷わず使用した時点で、男たちは無差別殺人者の集団に他ならない。

 男は一瞬で間合いを計ると、拓也の首を狙って回し蹴りを発した。

 腕で払いきれないと判断した拓也は、斜め後ろにって蹴りを逃れざま、横手に身をひるがして跳躍し、後ろ回し蹴りを相手の後頭部に叩きこんだ。

 当然、相手は腕で防ごうとしたが、腕に力がこもる寸前、拓也の足が頸椎けいついを直撃した。

 蹴った拓也本人が、まさか、と思った。

 拓也としては、時間稼ぎを狙っただけの、防がれるべき蹴りだった。相手ほどの実力者なら、楽に腕で払えたはずである。鍛えた首の筋肉に力をこめるだけでも、ある程度、威力はげる。

 その意に反し、拓也は他人の頸椎を蹴り砕く感触を、生まれて初めて知った。

 男にはおごりがあったのである。相手の少年が空手有段者であることは一目で察していたが、体格差と年齢差に囚われ、無意識に過小評価していた。

 おごりはすきに直結する。

 瞬時に中枢神経を絶たれた男は、苦しむ間もなく息絶え、がくりと膝を折った。

 刹那せつな、男の背後から破裂音が響いた。

 アクション映画などで聴き慣れた、消音器付小型拳銃の発砲音だった。

 残った最後の男が、実銃を使ったのである。

 拓也は腹部への衝撃で背後に倒れた。

 同時に設備室の全ての照明が消えた。

 暗闇の中、宙を舞った茉莉が拓也の前に着地し、その胸にすがる。

「タクヤ!」

 茉莉はけして出遅れたわけではない。自分を撃った男を二つ折りにした時点から、ここまで僅か二秒程度しか経過していないのである。

 すでにトビメも、二人を庇う体勢で着地している。

 腹の痛みをこらえながら、拓也は言った。

「……大丈夫」

「きゅん!」

 トビメが拓也の頬に鼻をこすりつけた。

 拓也はトビメと茉莉に介助されて、半身を起こした。

 腹に手を当てると、確かに血や粘液の感触がある。しかし、自身の腹が破れた感触はない。その理由は、下腹の重みに触れてすぐに判った。先に倒した男が俯せに横たわり、拓也の股間に顔を伏せている。おそらく男の頭部が銃弾の盾となり、拓也の腹にぶつかったのだろう。

 しかし、なぜ次の発砲がないのか不思議でならない。たとえ暗闇の中でも、拓也の位置はすでに相手に知られている。一発で仕留めた自信があるにしろ、あえてとどめを刺さないほど甘い相手とも思えない。

 拓也が暗闇の奥の気配を探っていると、貯水槽の方角に、青い光が揺れているのが見えた。

 あの三つの鬼火がゆらゆらと飛び交い、黒い人影を闇に浮かばせている。

 どうやら、あの最後の男らしい。

 目を凝らすと、男の首は横に折れ曲がり、肩からちぎれかけていた。それだけではない。その首の重さが、肩から胸にかけて袈裟けさがけに裂断された上体を、さらにじりじりと腑分ふわけしてゆく。

 男は腹近くまで裂けた後、朽ち木のようにくずおれた。

 男の背後に、別の人影があった。

 佐伯沙耶さやだった。

 長い黒髪と仄白ほのじろい顔と、純白の制服をあけに染め、片手には拓也が残してきたバールを握っている。

 バールの先にこびりついた肉片が、血と粘液を引きながら床にこぼれた。

 茉莉が、恍惚とつぶやいた。

「サヤ……」

 茉莉には、沙耶の顔が般若はんにゃに見えたのだろう。

 しかし拓也には、能面の小面こおもてのような少女が、あえて痩せ女やせおんなの面をかぶり、黄泉よみの国から戻ったように見えた。

 




  第二章 【闇への供物くもつ】〈終了〉


            〈第三章【死者の底流】に続く〉


 

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