闇への供物 Ⅸ
Ⅸ
「――いきなり、ずいぶん跳んでしまったな」
慎太郎の額で、
「本当に、ここが二番目なのか? もう予定のドン詰まりではないか」
慎太郎と管生は、
外来者向けの大型液晶時計は、現在、2018年3月31日午後4時55分――。
「ああ、ここで間違いない。さっきの書斎より前に、教育長があの扉を見たのは、この日だけだ」
「ならば良し。思ったより早く、
新年度を明日に控え、市政関係階のほとんどが、旧市役所庁舎からの移転作業を終えている。
昭和以来の長い好景気が続く中、蔦沼タワービルは余裕を持って月初めに竣工式を終え、商業階もマンション階も市政関係階も準備万端整って、明日のオープニング・セレモニーを待つばかりである。明日から始まるであろう大車輪はともかく、この日に残業する関係者はほとんどいない。組合の強い地方公務員ならなおのこと、皆が定時退勤を原則として動いている。
ただし、一部の管理職は別である。
三日がかりで市内の公立校の校長と明日の打ち合わせを済ませ、その首尾を市長に報告した島崎教育長は、終業時刻ぎりぎりに、二十階の市長室から市教フロアに戻ってきた。
坂上部長と安田課長が島崎教育長に歩み寄り、深々と頭を下げた。
「御苦労様です、教育長。こちらのフロアは始業準備を完了しました」
そう報告する坂上部長に、島崎教育長は
「こちらこそ御苦労様。一日中現場を任せっきりで悪かったね」
「いえ、滅相もありません」
島崎教育長は、次に安田課長を見やり、
「ラーニングルームの設備搬入も終わったかな? 業者の都合で、昨日の深夜になるはずだったろう」
「はい。予定通り午後十一時に搬入開始、設備調整にやや手間取り、午前三時過ぎに設置完了しました。立ち会いは私が」
「なんと夜中の三時まで? それは気の毒だったね、安田君。いくら君が職住隣接だって、飯を食って風呂にでも入ったら、もう夜明けじゃないか。今日は定時で上がりたまえ。明日の業務開始まで、せいぜい体を休めておかないと」
「恐れ入ります」
島崎教育長は、坂上部長にも、
「君も遅くまで残業続きだったろう、坂上君」
「安田課長ほどではありません。昨夜は早めに、十時で上がらせていただきました」
「それだってへとへとのはずだ。君も、今日は定時で上がりなさい」
「教育長は?」
「市長との話を日誌にまとめてから帰る。遅くとも六時には上がるよ」
「それでは私たちも――」
「いや、君たちは遠慮なく先に上がってくれ。上司に合わせてわざわざ残業するなんて、今時、若い者に馬鹿にされるだけだ」
「それでは、お言葉に甘えて――」
話をしている内に、もう定時である。
一般職員や他の役職者たちの退勤を、島崎教育長は笑顔で見送った。
それから教育長室に向かう時も、教育長は上機嫌の顔だった。
後を追う慎太郎の額で、管生が言った。
「こうして見ても、さほど悪い男ではなさそうなんだがな」
「中間管理職にぴったりのタイプだ」
「市教の
「いや、県の教育委員会、国の文部科学省、いくらでも上がいる」
「なるほど、お役人様も楽ではないな」
島崎教育長は、先刻、いや五年後よりも整然とした教育長室を素通りして、奥のラーニングルームに入った。
そちらは五年後と
教育長は扉近くの椅子からデスクに上り、天井付近の通気口に手を伸ばした。
網状のカバーの四隅には、埋め込みのネジやボルトではなく、プラスチック加工のボルトキャップが突出しており、指でも回せるし、緩めても落下しない。
カバーの奥に隠されていた小型監視機器を丸ごと取り出し、教育長室のデスクに運ぶ。
重役なみの贅沢な椅子に腰を落ち着け、教育長は監視機器の本体から、記録メディアを抜き出した。そのカードは古いスマートメディアで、機器自体がかなりの旧型である。元の職場から、そのまま持ちこんだのかもしれない。
椅子の横に立ち、教育長の挙動を見守っていた慎太郎が、管生に言った。
「さっきの書斎に隠してあった、もう一枚のカードだ」
管生は、すでに慎太郎の頭から抜け出て、教育長の手元をうろついている。
「俺にはよくわからぬが、さっき見たよりは少し大きいようだな」
すでに卓上にある仕事用パソコンは、かなり古いデスクトップだった。IT関連では万事に旧弊な地方の市役所のこと、正面のCDドライブの横には、未だにフロッピードライブが目立つ。それでもさすがにオンライン化されているらしく、教育長はあえて電源を入れず、デスクの施錠された引き出しから、ノートパソコンを取り出した。先刻、いや五年後の夜に書斎で使っていた、例のWindows・NTマシンである。
立ち上げた動画再生ソフトも、全く同じシンプルなデザインだった。
動画の記録開始時刻は、2018年3月30日22時30分。あらかじめ早めに録画開始するようセットしておいたのだろう、動画ウインドーには暗闇だけが映っている。
教育長はノイズ混じりの暗闇を早送りした。
22時52分、照明が点灯し、ラーニングルームが浮かび上がった。
扉近くの椅子やデスク類はすでに搬入されているが、部屋の両側にまとめて並べられ、中央に広い余地がある。その奥の床はリノリウムのままで、奥の壁はしっかりと壁紙が貼られ、あの扉は影も形もない。
直後、業者の機材搬入が始まった。
先導してきた安田課長はすぐに教育長室に下がり、作業服の男たちが数人、台車やカゴ車に大小の段ボールを積んで現れ、例のゴルフ練習システム機器を設置し始める。本体と付属機器、人工芝、投影用スクリーン、それぞれをてきぱきと図面に合わせて整える様は、間違いなく専門業者の手際である。奥の壁にも手を触れようとしない。
やがてゴルフ練習システムの作動テストを終えた時、動画の時刻は3月31日1時25分。
さらに微調整が続くのかと思いきや、業者たちは、そのまま教育長室に下がってゆく。
「もう終わりか?」
管生が言った。
「確か三時までかかったと、あの課長が言っておったぞ」
慎太郎も
デスクで動画を見守っていた教育長も同じ疑問を抱いたらしく、目を細めて画面を注視し、小刻みに早送りする。
動画内の照明は消えないまま、数分ほど早送りした頃、また画面内に動きがあった。
同じ作業服の男が数人、それぞれ台車を押して現れた。先ほどの荷物とは違い、青いプラスチック製の運搬用保冷箱のようなケースを、二段重ねに乗せている。大きさは、どれも一メートル四方を超えているようだ。安田課長は教育長室に留まっているらしく、姿を現さない。
慎太郎が言った。
「……さっきとは別の顔だな、六人とも」
「おうよ。顔も違うが、身のこなしが違う。
「ああ。もしかしたら、吉田さんが言ってた――」
先刻、外の峠道で聞いたばかりの特殊な組織名を、慎太郎は思い出せなかった。
男たちは台車を人工芝の上に止めると、それぞれマスクを着け始めた。コロナ全盛期に医師が使っていた医療用マスクよりも、さらに物々しい高機能マスクである。
慎太郎は、最近テレビで見たドキュメンタリー番組を思い出した。あの孤独死をテーマとした番組で、特殊清掃員が着用していたマスクに似ている。つまり防塵や抗ウイルスだけでなく、防臭まで対応した簡易ガスマスク――。
男たちの半数が、投影用スクリーンを巻き上げ、工業用カッターを手にして、壁に切れ目を入れ始めた。あらかじめ奥の扉の存在を知っているらしく、その枠に合わせて、正確に壁紙とベニヤ板を切り抜く。
残り半数は、台車に乗せていた計十二箱のケースを壁の前に並べ、次々と開いていった。
それぞれの蓋は、やはり保冷ボックスのような構造で、密閉用のパッキンが目立つ。
男の一人が、大げさに顔をそむけた。
ケースの中から、二三匹の蝿が飛び立った。
『くそ、これは誰が準備した。シーリングが甘いぞ』
蝿だけでなく、そのマスクでは防ぎきれないほどの臭気を感じたらしい。
隣の仲間は涼しい顔で、
『ハズレを引いたな。急に仕事を横取りされて、
――科警研?
デスク横の慎太郎のみならず、椅子に座って動画を凝視している島崎教育長も、同時に首をかしげた。
教育長はわざわざ動画を逆再生し、ボリュームを上げて『科警研』の発音を再確認した。
モニターの横から、管生が慎太郎に訊ねた。
「カケイケン?」
「たぶん、科学警察研究所のことだと思う」
「
管生は『科捜研の女』のファンなのである。
「科捜研は日本中の警察本部にあるけど、科警研は警察庁、つまり日本に一つしかない」
「思い出した。あのテレビでも、たまに出てきたな。妙に偉そうな所であった」
「ああ」
それ以上の知識は、慎太郎にはなかった。ミステリー物でしか知らない世界である。ただ、吉田が言っていた妙な組織と同様、国家規模の組織であることは間違いない。
嫌な予感を覚えながら、男たちの作業を見守る。
ボックスの中から、重量感のある大きな袋が抱え上げられた。表面は一見ビニール地だが、その
慎太郎は、その袋にも見覚えがあった。確か、リアル志向の本格ミステリー映画で――。
「……死体袋?」
しかも使用中の厚みがある。
合計一ダースの保冷ボックスには、うずくまる形で三つ折りとなった死体が、それぞれ収められていたのである。
一方、奥の壁も中央が剥がされ、隠し扉が露わになった。
「まだ封印されておらぬぞ」
慎太郎も目を凝らすと、確かに護符が見当たらなかった。
「つまり、この時点では、地の底に佐伯康成が封印されてるだけか?」
「おうよ」
男たちは、死体袋を次々と、扉の奥に投げこみ始めた。
無造作に、
草食系の慎太郎には、正視に耐えない動画だった。
島崎教育長も、背筋を強張らせている。
管生だけが、その作業の細部を冷静に見守り、
「おい、慎太郎」
「……なんだ?」
「言いたくはないが、言わねばならぬ」
「だから、なんだ」
「あの
慎太郎は愕然と、男たちの流れ作業を凝視した。
「…………」
確かに幾つかの死体袋は、かなりサイズが余っている。男たちに抱き上げられると、中身のない部分が数十センチは垂れ下がっている。袋自体が2メートルだとすれば、収められた死体の多くが、身長140センチを割っていることになる。中には大人の男らしい袋もあるが、160センチを割れば、大人だとしても女性の可能性が高い。
「小柄な男ばかりってことも……」
「おぬしの気性だと、そう思いたいのは山々であろうな。しかし、これだけ
その時、男の一人が、わっ、と声を上げた。
シーリングのジッパーが破損していたのか、死体袋の一つから、中身が落ちかけたのである。先に別の男がぼやいていた、あの袋だろう。
腐敗は始まっているが、まだ崩れてはいない顔が明瞭に見えた。
小学校中学年から高学年くらいか、放課後の校庭を元気に駆けていそうな、ショートカットの女児だった。上着はあちこち濡れて汚れているが、峰館や出雲ではあまり見かけない、都会風のキャミソールらしい。
慎太郎は胃袋の急激な収縮を覚えて、その場にうずくまった。死体への嫌悪による嘔吐ではない。そのあどけない死顔に感情が飽和してしまい、自律神経が失調したのである。懸命に嘔吐をこらえるが、こらえきれなかった。彼の肉体そのものが、物理的に嘔吐しているわけではない。あくまで他人の記憶の中で、そう感覚しているだけである。しかし慎太郎自身は、現実と同じ苦痛を味わっている。
「おい、大丈夫か」
「すまん……ちょっと立てない」
こいつも
慎太郎を介抱してやりたいのは山々だが、管生は、式神としての責務を優先した。
できるだけ子細に、この場を観察しなければならない。
身長から推測して、捨てられた死体は、大人の男が二体、大人の女性あるいは長身の子供が四体、明らかな子供が六体――計十二体。
その時、管生の耳に、島崎教育長のつぶやきが聞こえた。
「なんということだ……」
半ば歯ぎしりするような声だった。
続いて島崎は、こうもつぶやいた。
「あの
慎太郎はなんとか身を起こし、管生に訊ねた。
「あの若造――そう聞こえたよな」
「おう、確かに」
その若造は、島崎教育長の顔見知りであると同時に、島崎が予想もしていなかったこの動画内容に、深く関わっていることになる。少なくとも島崎は、そう疑っている。
「それが誰か探りたいな。ここより前の記憶を探れば――」
「ちょいと待て。どうやらこの場にケリがつきそうだ」
動画内では、すでに仕事を終えた男たちの中、上長らしい
『それでは、後をよろしくお願いします』
その上長に顎で促され、別の男二人が、教育長室に入ってゆく。
教育長室から、安田課長に案内されて、巫女装束姿の女性が現れた。すでに老境だが、美津江刀自よりは若い。その顔に、慎太郎も管生も見覚えがあった。昨日、祈祷所の火災から助け出され、今は意識不明のままICUで治療を受けている、あの溝口
溝口寛子の後には、
最後に、あの男二人が、白木の祭壇を運び入れた。
管生が言った。
「あの扉は、ここで初めて封印されたらしいな」
「ああ。五年前なら犬木興産の先代、祈祷好きの会長が生きてる。この男たちがどこの誰にしろ、犬木興産と繋がっているのは確かだな」
「そして先月、不信心な当代会長が、せっかくの封印を台無しにした――それが良かったやら、悪かったやら」
地下の封印が解けた時期と原因はまだ不明だが、少なくとも十八階の封印が解けなければ、大量の
「……このビルヂング、まさに特大の墓石ぞ」
管生は言った。
「いや、墓石ではないな。屍を収める
慎太郎も、無言でうなずいた。
その時、モニターの動画が、ぐにゃり、と歪んだ。
動画だけではない。パソコン本体もデスクも教育長も含めて、部屋全体が歪んだのである。
教育長自身は、歪みなど知らぬげに動画を凝視したままだが、慎太郎と管生から見れば、視界の全てが激しく歪んでゆく。
「いかん! 外の御本尊が、もう危ない!」
この記憶の主である島崎教育長が、脳死を迎えつつあるのだ。
それを悟った管生は、迷わず慎太郎の頭に飛びこんだ。
「慎太郎、外に戻れ!」
しかし慎太郎は、
「いや、もうひとつ、その若造を見ておかないと」
島崎が死んだら、二度と彼の記憶を探れない。
「ほっとけ! そんな者を探す暇はない!」
「いや、すぐ近くにいる」
慎太郎は自信を持って言いきった。
「跳ぶぞ、管生」
慎太郎は、歪んだ教育長室から、真上に跳躍した。
「何?」
額の管生は泡を食いながら、天井と上階の床を含む何層かの空間を、慎太郎に運ばれて瞬時に突き抜けた。ほんの僅かだが、時間を遡る感覚もあった。
次の瞬間、慎太郎と管生は、元の教育長室よりもさらに豪奢な部屋に立っていた。
その部屋も、現在の島崎の記憶である以上、抽象画のように混沌と歪んでいる。
それでも、デスクで落ち着き払っている男と、その前に立って何か報告している島崎教育長の顔は、なんとか判別できた。
慎太郎は言った。
「――これが、その若造だ」
デスク上のプレートによれば、蔦沼市長・中城研一郎――。
『若造』をキーワードにして島崎教育長の記憶内を検索した、直近の結果である。時刻は同じ日の約二時間前、同じタワービルの十八階から、二十階の市長室に跳んだことになる。
「ほう。――なるほど、これは若いな」
まだ三十二三にしか見えない青年市長である。その知的な細面は、確かに虫も殺さぬ優男に見える。五十過ぎの島崎にとっては、遙かに年下の新米市長など、まさに若造なのだろう。
「帰るぞ、管生」
「おうよ。長居は無用」
慎太郎と管生が、五年前の市長室から消えた直後――。
島崎教育長の内的世界の全てが、渦を巻きながら、奈落の底に吸いこまれた。
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