闇への供物 Ⅷ
Ⅷ
「――
隣で話し続ける犬木
「ああ、よく覚えてる」
拓也自身、なじみ深い河原である。同級生や道場仲間との川遊びで、夏には定番の水場だった。父親と釣りに出かけたことも少なくない。
「タクヤとか陽キャの男子が遊んでたあたりじゃなくて、ちょっと離れた橋の下に、陰キャ女子の遊び場があったのって知ってる?」
「それは知らなかった」
「みんな陰キャだから、誰も大声で騒いだりしなかったしね。遊び場ってより、溜まり場かな。ほら、陰キャだと放課後とか、校庭や公園じゃ遊びにくいし、ワケアリで自分ちにも帰りたくなかったりして、それでもダンゴ虫みたく石の下に隠れるわけにもいかないでしょ? そんな連中が、あっちこっちのクラスから、いつのまにか橋の下の人目につかないとこに、なんとなく溜まっちゃってたのね」
拓也には初めて聞く話だった。
「――で、二年生くらいになると、橋の下で顔を合わせる子も、ほとんど決まっちゃってたわけ。みんな毎日くるわけじゃないんだけど、レギュラーっぽい子が五六人いたと思う。サヤとあたしも、週に二三回は顔を出してた。サヤは病欠ばっかりでクラスじゃ小さくなってたけど、自分より弱い子には優しかったから、他のクラスの
拓也は当時から、学級委員としてクラス全体を把握しているつもりだったが、そんな一種のサークルが学外にできているとは、さすがに気づかなかった。
「で、これも小学校がなくなるちょっと前だったから、三年の夏休みの、ちょっと前の話ね。――その池沼っぽい子が、草むらで野良犬を見つけたんだ」
「野良犬?」
拓也は、つい訊ね返した。
あの頃、拓也もよく通った河川敷で、飼い主にリードで引かれていない犬は、ただ一頭しか見たことがない。あの犬――正確には犬の死骸である。
「うん。あそこで野良犬なんて、ほんと珍しいでしょ? たぶん山の方で捨てられて、川沿いに下りてきて、草むらに隠れてたんだろうね。でも、もう目つきだけでヤバい犬ってわかった。ふつうに犬を知ってる子なら、即行で逃げだすみたいな
それは、
「当然、噛みつかれるじゃん」
「……ああ」
「噛まれた子は猿みたいな声でぎゃんぎゃん泣いてるし、周りの子はみんな逃げ出すし、あたしは離れて突っ立ってるだけだし、犬は犬で、泣きまくる子にますます吠えまくって、また食いつこうとしてるし――」
拓也は、あの死骸の大きさを思い浮かべていた。けして大型犬ではなかったが、子供には持ち運ぶのがやっとの中型犬だった記憶がある。死骸ならともかく、生きて猛り狂っていたら、拓也でも対抗できなかっただろう。
「――でも、サヤは逃げなかったんだよ」
茉莉は賞賛の口調で言った。
「サヤってば、川岸に転がってた、ぶっとい杭みたいな棒を振り上げて、犬に駆け寄って、横から力いっぱいぶん殴って。――すごかったよ、サヤの顔。なんつーか、えーと、ハンニャ? あの鬼みたいな顔した、時代劇に出てくるみたいなお面があるでしょ? あんときのサヤ、まんまハンニャだった。サヤのそんな顔、あたしいっぺんも見たことなかったし、タクヤだって見たことないでしょ?」
確かに拓也も
「――でも、やっぱり力が足りなかったんだね。犬もそんなに痛くなかったみたいで、ますます怒っちゃって、今度はサヤに吠えついて、食いつこうとしたんだ。――でも結局、食いつけなかった。そりゃそうだよね。ただの子供だと思ったら、マジにハンニャなんだもん。その犬、なんか困っちゃって、ウーウー唸ってしばらく睨んでたんだけど、そのうちシッポ巻いて、どっかに逃げてっちゃったんだ」
茉莉は犬が沙耶の気迫に負けたと思っているようだが、目立った外傷はなくとも、骨や内臓にかなりのダメージを負っていた可能性がある。そうして弱って息絶えた犬を、後日、自分が見つけて寺に葬った――そう拓也は推測したが、あえて口にしなかった。
「あたし、その時、本気で思ったんだ。――ハンニャって、すっごくカッコいい。どうせなるなら、透明人間よりハンニャのほうが、ずうっとカッコいい。陰キャのサヤがハンニャになれるんなら、あたしだってなれるかもしんない――」
茉莉は本気で、その時の沙耶に憧憬したらしかった。
「でも、ほら、あたしバカだし根性もないし、そんなスゴい鬼になんか、どうがんばってもなれっこないわけよ。――だから代わりに、鬼っぽいDQNとかイロケでオトして、使い回すことにしたんだ」
いや、それは方向性が根本的に違うだろう――。
そんな拓也の内心を、茉莉も気取ったらしく、
「……バカにしてるな?」
「あ、いや……」
「いい。自分がバカなのは、ちゃんと知ってるから。――それでもあたしとしちゃ、それこそ生まれ変わるイキオイで、マジに気合い入れてイメチェンしたんだよ。おかげさまで、オヤジだってちっとも恐くなくなったしね」
――まさか自分の父親も、積極的に誘惑したのか?
拓也が、つい怪訝な顔をすると、
「……変な想像してるな?」
「あ、いや……」
「っつーか、考えてみりゃ、マジに変なんだけどさ」
茉莉は、自分で自分にうなずきながら、
「とにかく新しい小学校に移ってから、あたし、パンチラやパンモロの技を磨いて、ケンカっ早い上級生とか、マジメなフリして実はロリコンの
拓也の思考が、茉莉の話題にようやく追いついた。
空手の試合と同じ事なのである。自分より攻撃力の高い相手と対戦する場合、勝敗は駆け引きで決まる。こちらが引いて交わしている内に、相手の焦りで隙が生じる。そこを突けば勝機に繋げられる。つまり犬木
そこまでは拓也にも理解できたが、
「だったら君は、どうして佐伯さんにあんな事を? 変な言い方だけど、ある意味、佐伯さんは君の恩人みたいなもんじゃないか」
「……中学で、またサヤといっしょになった時は、すっごく嬉しかったんだよ」
茉莉は
「でも、だんだん腹が立ってきちゃったんだ。見れば見るほど、マジにムカついてきた。だってサヤの奴、すっかりただの陰キャになってんだもん。いっつもコソコソ遠慮して、
それは失望と言うより、過去の自分に対する近親憎悪ではないのか――。
憎悪という感情を持たない拓也も、人が他人に抱く憎悪は、しばしば自身への憎悪の裏返しであると悟っている。その場合、しばしば後者が前者を凌ぐ。
ようやく、全てが拓也の腑に落ちた。
しかし、それでは佐伯沙耶が、あまりに浮かばれない。
拓也は、強い口調で言った。
「あの町がなくなってから、佐伯さんにも色々あったんだよ。お父さんが市役所から大金を横領したとか、その大金で浮気相手と駆け落ちしたとか――
「……そりゃ後で聞いたけどさ」
「それに康成さんは、本当は、駆け落ちどころか――」
おそらく犬木興産、つまり茉莉の父親、いや当時だと先代会長の祖父が、なんらかの事情で殺害し、このビルの基礎工事現場に葬ったのである。
「はいはい、そこでストーップ!」
茉莉は、ますます拗ねた顔になって、
「あたし、タクヤと違ってバカなんだからさ、ちょっとは大目に見てよ」
そう言いながら、拓也に片腕を突きだし、
「それに、ちゃんとバチが当たって、こんなんなってるじゃん」
さっきは掌までだった青黒い変色が、今は手首の上まで広がっている。
「……タクヤは、死んだ猫とかドロドロの女の子にもちゃんと優しいけど、女の子の方は、けっこう気にするんだからね。ちょっとした肌荒れとか、ニキビくらいでもさ」
拓也には返しようのないニュアンスの
トビメが困惑顔で拓也を見た。
私もずいぶん長く生きてきましたが、これほど口の達者な化け物を見るのは、生まれて初めてです――。
拓也も同感だった。
しかし、ふくれっ面の茉莉をなだめるように、こう返すしかなかった。
「……ドロドロになる前に、着けると思うよ」
ほどなくスラブの先に、上下水道本管シャフトの隔壁と、支管の接続口が見えてきた。
接続口の下部は、横並びになった二本の支管の台座で塞がれているが、上部にだけは、なんとか通り抜けられそうな余裕がある。
拓也が内部を覗きこむと、シャフトの中央に三本の本管が見えた。一本は上水用の揚水管らしく、三十センチ程度の直径で支管は存在しない。排水用の二本はその三倍程度の太さがあり、各階の支管が四方から繋がっている。支管の汚水が直接その中に垂れ流されている訳ではなく、減圧構造のパイプが内部に収められているのである。
シャフト内の四方の壁には、通常の非常階段よりも手狭で簡略な整備用階段が、本管群を取り巻くように設けられていた。
その階段が、今達した接続口のすぐ下にあれば話が早いのだが、残念ながら、かなり上方を斜めに
茉莉が横から首を出し、本管の束を見上げて言った。
「これの一番上まで行けばいいんだよね」
拓也がうなずくと、茉莉は身を乗り出し、本管に向かってやや傾斜を成している二つの支管の上に、ずるりと這い出した。
それから立ち上がり、今の彼女なら楽に跳び移れそうな整備用階段には目もくれず、本管の一本に向かって跳躍した。
そのままヤモリのように張りつき、拓也に片手を伸ばす。
「はい、こっち」
一旦そこまで行けば、反対側の整備用階段が、やや下方に逆の傾斜を成しており、なんとか乗り移れそうである。
横から顔を出したトビメに、拓也は言った。
「昨日みたいに
「きゅん」
「僕が先に行くから、もし落っこちそうになったら、その時はよろしく」
「きゅん!」
拓也は慎重に支管の上を渡った。
支管は二本並んでいるので幅は充分だが、それぞれ別の本管に向かっているため、途中から間隔が広がる。
茉莉の手に届く寸前、支管に結露でもあったのか、拓也の片足がずるりと滑った。
すかさずトビメが、胴を伸ばして拓也の腰を支える。
「きゅん!」
拓也はトビメに、何か信頼以上の一体感を覚えた。
それは愛犬家が忠犬に抱くような共生感、つまり明らかな友情だったのだが、今の拓也には、まだ理解できなかった。
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