闇への供物 Ⅶ
Ⅶ
「どうした慎太郎、なぜこんな所で止まる?」
慎太郎の頭から抜けだして肩に止まった
島崎教育長の直近の記憶、つまりポルシェの車中で意識を失う直前から記憶を遡り、今回の出張中や平日の業務の記憶をスルーして、あの謎の扉に直接関係する記憶だけを探していたはずである。
しかし慎太郎が、あえて足を止めたのは――正確に言えば、教育長が『今』と認識している記憶空間にリアルタイムで同調したのは、蔦沼タワービルの市教フロアにある教育長室でも、その裏の自称ラーニングルーム、つまり仮想ゴルフ場でもなかった。
そこは深夜の書斎だった。
あの地下に続く隠し扉から数キロ以上離れた、島崎教育長の自宅なのである。
「いや、ここでいいんだ」
慎太郎は管生に断言した。
彼なりの流儀で、教育長の五年間の記憶にランダムアクセスした結果、『謎の扉に直接関係する記憶』は、今夜、この部屋が直近のはずだった。
その夜、残業の後に帰宅した島崎教育長は、遅い夕食と入浴を済ませ、まだ自宅残業が残っていると家人に告げた後、パジャマ姿で書斎に腰を落ち着けた。
デスクのノートパソコンを立ち上げると、Windows11の起動画面に、2023年7月1日23時30分の表示が現れる。
およそ一ヶ月前の記憶なのである。
島崎はエクセル文書を開き、それから小一時間、業務上の記録や付随する覚え書きを、こまごまと打ちこんでいた。ときおり口に運ぶウイスキーのオンザロックは、さほど濃くないように見えた。
「存外、
管生は言った。無論、管生と慎太郎の存在は、島崎に認識されていない。
「てっきりサボリ放題かと思ったら、ちゃんと一日中、仕事であちこち飛び回っておる」
「第三者委員会の候補者を、調査される側の責任者が訪ねて回る――
「どうで親方日の丸のお役人様、それも立派な仕事だろうさ」
慎太郎も、嫌な気分でうなずいた。
実際、あのいじめ事件が世間で炎上した際に、わざわざ国会で対処に言及した文部科学大臣も、それ以降、事件について公の場では一度も口にしていない。厳しく対処したように見せて、むしろ一般国民の野次馬的な視線を炎上から逸らすための、逆療法だったとしか思えない。結局はこの国の政権自体が、弱者より強者、敗者より勝者を、あらゆる意味で優先しているのだ。島崎教育長もそれを承知の上で、粛々と仕事をこなしているに違いない。
島崎は時間的な確認のためか、自分の行動とは別の予定表を、別ウインドーで開いた。
7月1日午後2時、市教会議室、第一回ヒアリング開始――そんな文字列が慎太郎の目に止まった。担当責任者は教育部長・坂上孝平。以下数名の担当者の中には、学校指導課長・安田の名前もある。そして
島崎は自身の覚え書きに、こう追記した。
『午後3時15分、坂上より聴聞終了のメール。詳細は明日朝一にレポート』
『以降、第三者委員会候補の諸氏と面会を続け、午後10時帰宅』
そこまで記録すると、島崎は今日のノルマを終えたのか、パソコンを閉じた。
ウイスキーのグラスを干し、大きく一息つく。
「おい慎太郎、
「いや、まだ動きがあるはずだ」
慎太郎は自分の記憶検索能力に自信を持っている。
島崎はデスクの引き出しを開け、別のノートパソコンを取り出した。
こちらはかなりの旧型らしく、先のパソコンより分厚くて大きい。正面にはCDドライブとフロッピーディスクドライブが見える。両サイドにある各種のスロットが何なのか、慎太郎にはほとんど判別できなかった。
島崎は仕事用の鞄から、ケースに入った一枚のSDカードを取り出した。
パソコンの右サイドにはUSB端子もあるようだが、島崎はそのSDカードを何らかのアダプターにセットし、慎太郎には見覚えのない、左サイドの扁平なスロットに挿入した。
それからパソコン本体の電源を入れる。
起動画面を見て、慎太郎は首を傾げた。
「……これは古いな」
「何が?」
「OSがWindows・NTだ」
「だから、それは何だ?」
「前世紀の遺物だ。俺が子供の頃、親父が会社の仕事用に使ってた。仕事用パソコンとしては定番だったらしい」
「そうなのか? ぱそこんやらすまほやら、俺はちっとも解らぬが」
「あのアダプターも思い出した。CFカードスロット用のSD変換アダプターだ。これも今では骨董品級だな」
島崎は動画再生ソフトを立ち上げた。業務用ソフトらしく、いかにも素っ気ないデザインである。
液晶画面には、監視カメラで記録したらしいモノクロ動画が、意外なほどスムーズに流れ始めた。いかにも過去の遺物のパソコンだが、CPUやグラフィックボードは、当時の一級品らしい。
動画に記録されていたのは、明らかに教育長室の奥にあるラーニングルーム、もとい仮想ゴルフ練習室だった。兵藤記者の情報によれば、教育長室に正式な監視カメラは設置されていないはずだから、島崎自身が秘かに設置したのだろう。自分の仕事場の奥にある部屋を、なんらかの目的で盗撮していたことになる。
動画の下部には、録画時刻も秒単位で記録されていた。
「7月1日13時30分――この日の午後、
盗撮カメラは入口の天井付近に隠されているらしく、無人のラーニングルーム全体が画角に入っている。最奥の仮想ゴルフ場投影用スクリーンも映りこんでいる。例の地下に続く扉は、その後ろに隠れているはずだ。
しばらく動画を早送りしていた島崎が、ふと再生速度を通常に戻した。
13時45分、聴聞会の少し前である。
島崎は動画を注視し、ほう、と意外そうな声を漏らした。
無人だったラーニングルーム――彼専用のゴルフ練習室に、いつの間に入りこんだのか、数人の男が無言で佇んでいる。いずれも社会人らしい白シャツ姿だが、髪形や目つきが妙に鋭い。
「……なるほど、腑に落ちた」
管生が言った。
「慎太郎、おぬしの読みは確かだな。あの連中、どう見ても
慎太郎もうなずいた。
男たちの中には、夏にそぐわない長袖シャツを腕まくりしている者もいる。その上腕から覗く
慎太郎は言った。
「教育長自身は、その場に居合わせなかったわけだ。だから記憶が、これを見た今夜にずれこんだんだ」
男たちに目立った動きはない。
再び動画が早送りされる内、それまで無音だった動画に、かん高い音声が響いた。
島崎は動画を数秒戻し、等倍で再生した。
『――二人とも眠りました』
かん高く聞こえたのは再生速度のためで、実際は男の声だった。
教育長室側の扉が開き、誰かが中の男たちに声をかけたのである。
『今後の皆さんの仕事に、私は一切関知しません。もとより教育長は、皆さんの存在すら知りません。私は一旦、自分の仕事場に戻ります。廊下のドアは施錠しておきます。皆さんの仕事が終わったら、私のスマホに連絡して下さい』
声の主は姿を見せなかったが、慎太郎と管生には心当たりがあった。昨日、市教フロアの通路で
「……『二人とも眠った』?」
慎太郎は安田の言葉を繰り返した。
管生が眉を顰めた。
「……とてつもなく嫌な予感がするな」
教育長室側の扉は開いたままらしく、安田課長が教育長室から廊下に出て扉を閉める音が、微かに聞こえた。
男たちは即座に動き始めた。
四人ほどが教育長室に姿を消し、残りの二人はスクリーンを巻き上げにかかる。
スクリーンの背後にあった空の書類棚はすでに横に移され、奥の扉を隠す壁紙も、あらかじめ剥がされていた。扉の四方の古い護符は、いずれも破れている。
四人が教育長室から戻ってきた。
ぐったりした人間を、それぞれ二人がかりで運んでいる。
運ばれているのは制服姿の少女と、ワンピース姿の中年女性だった。
「……
なんとかしてやりたいが、どうしようもない。たとえ動画内の出来事が教育長本人の体験だったとしても、慎太郎が干渉できるのはその記憶だけである。実際の過去が変わるわけではない。
男たちはなんのためらいもなく、佐伯母子を扉の奥に投げ入れた。
管生は悔しげに、
「父親があの穴の底に埋められたのは、これより七年も昔であろう。ならば地の底から化けて出て、妻子を救えばいいものを――」
言いかけて、管生は思い直し、
「――大元の封印が解けねば無理か」
慎太郎は無言でうなずいた。昨日探った犬木興産社員の記憶によれば、佐伯
縦穴に落とされた佐伯母子の体が、長い非常
底に届く音を待たずに、男たちの二人が扉を閉じた。
他の四人は、床に置いてあった補修用壁紙のロールを解き、てきぱきと張り直し始める。
若い男が他に訊ねた。
『このお札は、そのままでいいんですか?』
『かまわん。どうせ先代の迷信だ。今の会長は
若い男は、まだ不安そうにしている。霊や祟りを気にする
管生は憎悪に顔を歪めて言った。
「
その時、島崎教育長が液晶画面に向かって合掌した。慎太郎と管生にとっては、意外な行動だった。無論、管生の声が聞こえたはずはない。
動画内の男たちは、仕事を終えてラーニングルームを出てゆく。年嵩の男がスマホをいじっているのは、あの安田課長、あるいは犬木興産の幹部にでも連絡しているのだろう。
「まさか、ここまでやるとは……」
島崎教育長は悲痛な顔でつぶやき、動画を止めた。
思わず独り言で口にするほど、不本意な出来事だったらしい。
「……あの馬鹿親連中、俺の仕事を一体なんだと思っている」
それからパソコンの電源を落とし、SDカードを抜いて、パソコン本体だけ引き出しに戻す。
管生が慎太郎に言った。
「
「ああ。ただの知りすぎた男かもな」
「しかし、誰の何を知りすぎた? あの馬鹿親連中など同じ穴の
「やっぱり吉田さんが言ってた、もっと上の組織が動くほどの何かを知ってしまった――そんなところだろう。その連中は、
教育長はSDカードを手にしたまま、机を離れて横の本棚に立った。
ハードカバーの洋書が並ぶ棚の奥から一冊を選り出し、その背表紙を何やら部分的に指で押している。すると背表紙だけがスライドし、僅かな隙間が生じた。その内側は金属の光沢をおびている。どうやら隠し金庫の一種らしい。書類やカード類は収まらないが、たとえば金貨や金のミニバーなら、かなり収まりそうである。
教育長はSDカードを、その空きスペースに収めた。慎太郎が横から覗きこむと、別のカードが一枚、すでに収まっていた。SDカードではない。どうやら旧式のスマートメディアらしい。
慎太郎が言った。
「わざわざ古いパソコンを使っている理由がわかった。絶対に流出させたくない情報だけ、あれで扱ってるんだ。あれならモデムカードを抜いちまえば、完全なスタンドアローンを保てる。どんなハッカーも侵入できない」
現在のWindows11でもスタンドアローン化は可能だが、周到なハッカーの手に掛かれば、知らぬ間に外部と繋がる可能性もゼロではない。
「なんであれ、抜け目ない男だな。しかしどこかで、うっかりしくじったわけか」
「同じ職場の安田課長は、犬木興産の手先――犬木興産は蔦沼警察と癒着――そのどこかから何かが漏れて、さらに上の組織が動いた――そんなところかな」
教育長は本棚を整え、書斎から去った。今度こそ寝に就く様子である。
慎太郎は言った。
「次に跳ぶぞ。もっと古い記憶があるはずだ」
「おうよ」
管生は速やかに慎太郎と一体化した。
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