第三章 死者の底流

死者の底流 Ⅰ(前編)

長編小説 天壌霊柩 第二部 ~ 無辺葬列~



  第三章 死者の底流


     Ⅰ(前編)


 息子の拓也が、蔦沼つたぬまタワービルのマンション階から、トビメや犬木茉莉まりと共にスラブ上を進み始めたのと、ほぼ同時刻――。

 父親の哀川拓人は、愛車のジムニーで、隣県の峰館みねだて市を訪ねていた。

 同じ峰館市内でも、山室やまむろ夫妻の隠居屋敷がある山間とは方向違いの、奥羽新幹線停車駅に近い中心市街地だが、土地鑑は少なからずあった。

 目的の郷土資料館は、周囲の城址公園を含めて学術的な価値が高く、学生時代に何度か訪ねたことがある。城址自体は元々天守閣を持たない地味な平城だが、それだけに類型を外れた興趣があり、公園の敷地内に建てられた郷土資料館も、江戸以前の豪族屋敷を、材質を含めて忠実に復元している。

 どちらもマニアックすぎて観光地化しにくいのか、旅行シーズンにも関わらず、駐車場は閑散としていた。そうした点も、地味系の民俗学者である拓人には好感が持てる。

 郷土資料館の入り口では、受付の案内嬢だけでなく、二十代後半と思われる男性職員が出迎えてくれた。

「奥州大学の哀川先生でいらっしゃいますね。お会いできて光栄です」

 男性職員は、お世辞や追従ついしょうとは無縁の東北人らしい柔和な笑顔で、名刺を差し出した。『峰館市教育委員会 峰館市立郷土資料館専任学芸員 亜久津優太』とある。拓人の教え子が、この歳で同様の職に就けたら、まず勝ち組と言っていい。相当な勉強家なのだろう。

 拓人も名刺を渡し、

「電話でもお伝えしたんですが、公共蔵書ネットワークの検索によれば、こちらに窪塚鏡圓きょうえんの『奥州蔦沼異聞』が収蔵されているそうで――」

「よろしかったら、孫弟子を相手にするような、遠慮のない言葉遣いでお願いできますか」

 亜久津学芸員は、照れくさそうに言った。

「哀川先生の研究書は、大学の民俗学の講義で、一年かけて勉強させていただきました。哀川先生は、その時の先生の恩師にあたる方ですから」

「じゃあ、もしかして、峰館大学の諫早いさはや助教に?」

「はい。私は書誌学専攻だったんですが、選択科目で諫早先生の民俗学を」

「そうだったのか。それは縁があるね」

「はい。今後ともお見知りおきを」

 拓人は自身が修める民俗学を、一般世間ではの利かない分野だと心得ており、学外での知名度に期待していない。それでも長く大学で講義を続けていると、それなりに世間が広がるものだ。亜久津学芸員は、民俗学専攻の御上慎太郎ほどではないにせよ、蔦沼総合病院の梶尾医師よりは、ずっと拓人に近い分野の青年なのである。

「お訊ねの本は書庫から出してありますので、別棟の喫茶室でゆっくりご覧下さい」


 峰館郷土資料館自体は豪族屋敷の忠実な復元物だから、座敷の囲炉裏なども江戸時代のままで、長く座って話せる雰囲気ではない。学生時代に訪ねた時も、全館くまなく見学した後は、裏庭の休憩室で、自販機のコーヒーを飲んだ記憶がある。

 その休憩室が、今は落ち着いた喫茶店に変わっていた。いわゆる古民家カフェの体裁で、造作も古めかしい。資料館に合わせて、小ぶりの古民家を移築改装したのかもしれない。

 幾つかのテーブルで談笑している先客たちは、どうやら観光客ではなく、近所の主婦や老人たちが、涼みに集っているだけのようだ。漏れ聞こえる声にも、この土地ならではの訛りがある。そんなひなびた店の空気が、拓人には心地よかった。

 亜久津学芸員はテーブルに着きながら、奥の厨房前に控えていたウェイトレスらしい少女に、軽く手を上げた。

「いらっしゃいませ」

 氷水とおしぼりを運んで来た少女は、拓人に丁重に頭を下げた後、亜久津学芸員に親しげな声をかけた。

「今頃やっと休憩なの?」

「こちらの先生と長話したくて、いらっしゃるまで休憩をずらしたんだ」

 気安げに会話する二人の様子が、拓人には、単なる常連客と店員ではなく、家族同士のように見えた。

 そう感じながらウェイトレスの名札に目をやると、案の定『亜久津』とある。

「――もしかして、君の妹さん?」

 亜久津学芸員に訊ねると、彼は照れ笑いを浮かべ、

「妻です」

「それは失礼。ずいぶんお若く見えたものだから。学生の妹さんが、夏休みでアルバイトしてるのかと思った」

「実は同い年なんですよ。妻は同じ大学の観光学部を出たんですが、古民家趣味が昂じて、今はこんな店を」

「じゃあ、奥さんがここの経営者なのかい?」

 若妻は嬉しそうに笑って、改めて拓人に頭を下げた。

「亜久津美紀と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく。失礼な事を言って申し訳なかったね」

「いえ、昔はいつも子供扱いされて悔しかったんですが、今はもう嬉しいくらいです」

「立派な店だ。内装に余分な手を加えていないのがいい。それも君の采配かい?」

「はい。一応は私が店長なんですが、市教の委託店ですから、いつまで続けられるかわかりません」

 亜久津学芸員は、改めて妻に拓人を紹介した。

「こちらは奥州大学の、哀川拓人先生。君も選択科目で履修した民俗学、あの教科書を書かれた哀川教授だよ」

 若妻は、あら、と言うように目を丸くした。

 黒目がちの瞳が、まるで栗鼠りすのように愛らしいと、拓人は目を細めた。


 亜久津学芸員が遅ればせの昼食を摂っている間、拓人はグラスの麦茶をすすりながら、お目当ての『奥州蔦沼異聞』と、亜久津が自ら書き起こしたという口語体の梗概に、ざっと目を通した。原書は文語体の旧仮名活字で、古い版組のため、現在の書物より文字間が空きすぎている。無論、拓人は読みこなせるが、けして読解しやすくはない。

『奥州蔦沼異聞』は、明治十四年に出版された、在野の好事家による民間伝承採話集である。ただ拓人の知る限り、これまではその著者名と書名のみが、明治後期から大正初期にかけて民俗学者や作家たちの書簡に二三度登場するだけで、その書物の現物も詳しい内容も、長い間、確認する手段がなかった。明治後期に柳田国男が出版して評判を呼んだ『遠野物語』と同様の著述形式であることが、個人の書簡内の話題に上がっていただけなのである。

 その書物と同じ書名の蔵書が、この峰館郷土資料館にあることは、すでに春先、ネットの公共施設蔵書検索で気づいていた。ただ、資料的価値が曖昧なため、これまであえて後回しにしていた。他に研究するべき課題が山積していたからである。

 しかし、昨日突発した超自然的な事態に直接関わりそうな資料には、これまで一度も接したことがない。それで今日、真っ先に、この資料館に足を運んだのである。


 亜久津学芸員は、峰館名物の冷やしラーメンをまだ食べ終わらない内から、

「内容的に、幻の書籍を装った後世の偽書かとも思ったんですが、先生はどう思われますか」

 拓人は、思ったより傷みの少ない『奥州蔦沼異聞』を、改めてめつすがめつしながら、

「確かに保存状態が良すぎる気もするが、活字は明治初期の築地体そのものだし、これが『奥州蔦沼異聞』の現物で間違いないんじゃないかな」

「でも、記録されている内容の一部が、どうも腑に落ちないと言いますか、話によっては荒唐無稽に過ぎると言いますか――。私も東北地方の伝承はずいぶん研究したつもりなんですが、蔦沼関係の伝承で、そんな類話は一度も聞いたことがありませんでした」

 亜久津学芸員は、丼と箸を手にしたまま、話を続けそうな勢いである。

 拓人は思わず苦笑して、

「まあ、食事を終えてから、ゆっくり話そうじゃないか。君の書いてくれた梗概も、まだ読み終えてないしね」


 亜久津学芸員が食事を終えて麦茶を飲み干した頃、彼の若妻が、お代わりのポットを持って現れた。

 拓人は麦茶のお代わりではなく、カフェインを求めてブラックのアイスコーヒーを頼んだ。

「それで、さっきの話なんですが、先生はどうお考えですか」

「収録されている百話の聞き書きは、当時、実際に著者が採話したものだと思う。『遠野物語』と同様、東北地方だけでなく全国に類話が存在するパターンも多いし、中には私が子供の頃、曾祖母から聞いた蔦沼ならではの話と、ほとんど同じ採話が含まれてる。他の書物には残っていないし、現代の語り部からも聴いたことがない話だ」

「なら、やっぱり新発見の古書なんですね。安心しました」

「ちなみに君が疑問を抱いたのは、梗概にクエスチョンマークが付いてる、このラスト三つの採話で間違いないね」

「はい。通し番号で九八と九九、それから一〇〇です」

「九八――村名の由来――古老の話によれば、かつて村の中央にあった沼の名称が、そのまま村の名前になった――ただし本来、その沼は『つたぬま』ではなく『つてぬま』と呼ばれていた――これは確かに初めて聞く話だね」

「はい」

 従来の定説は、文字通り、である。

 明治政府による廃藩置県の後、紆余曲折を経て明治九年(一八七六年)に現在の県政が定まり、初代県令が本格的な近代化に着手する以前、蔦沼市の大半は広大な水田地帯に過ぎず、現在は旧市街扱いされている屋敷町と花街近辺が河川通運で潤っていた程度で、その郊外に小さな社と古沼があるばかりだった。

 県令の指示による商都拡大に伴って、古沼自体は埋め立てられてしまったが、その沼の周辺には太古から蔦が多く繁茂しており、その蔦から樹液を採取して甘味料に用いた形跡が、後にこの地で発見された縄文時代の遺跡にも数多く見られる。甘葛あまづらと呼ばれるその樹液は、清少納言の『枕草子』にも削った氷にかけて食する記述があるように、室町時代に砂糖が普及するまでは、この国の代表的な甘味料として重宝されていたのである。

 その甘葛あまづらが多産できる蔦の豊富な沼だから、古来『蔦沼』と呼ばれ、それを中心とする土地の名も『蔦沼村』となった――いかにも理にかなった定説である。

 しかし『奥州蔦沼異聞』の九八には、まったく別の由来が記録されていた。

 その内容は、亜久津学芸員の梗概によると――。


(九八) この土地の古老は語る。

 まだ蝦夷えみしの各部族が東北一帯を支配していた時代から、大和朝廷による征夷が完了するまで何百年もの間、この沼の周辺では、蝦夷と朝廷の間に、戦乱と和睦が繰り返されていた。

 征夷という名の侵略行為には、常に侵略する側の兵士による略奪や暴行がつきまとう。

 結果、多くの蝦夷の女が、望まずして大和の兵士の子を妊んだ。

 蝦夷の部族にも様々な気風があり、また時代時代の趨勢すうせいの変化もあり、そうした都人みやこびとの血をうとまずに受け入れる部族、あるいは歓迎する部族、逆に忌み嫌う部族もあった。

 この沼の周辺の部族は、朝廷に全面的服属を表明する八世紀の末まで、一貫して都人の血を忌み嫌っていた。

 したがって、都人の子であることが明らかな胎児は、出産前に堕胎されるか、出産直後に間引かれ、秘かに沼の底に葬られた。

 この地方では、そうした間引き行為を、古くから『伝手子つてこ』と言い習わしている。そこからその沼も『つてぬま』と呼ばれるようになった。つまり『蔦沼』ではなく『伝手沼』が、本来の地名である――。

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