闇への供物 Ⅴ


     Ⅴ


 片側二車線の観光道路が、途中の展望台から一車線の山道に変わって、およそ半時間――。

 吉田が運転するFJクルーザーは、島崎教育長と愛人が乗っているワインレッドのポルシェ・ケイマンSを、見失わない程度の距離を置いて追跡し続けていた。

 隣県の岩手に抜ける峠道は、狭隘きょうあい葛折つづらおりが続くせいか、他の車は一台も見当たらない。急峻な山肌に灌木が茂るだけの荒れた風景も、観光客を遠ざけているのだろう。

 県境に至る最後の長い登り坂は、山肌の凹曲線に添って、西北西から東北東へ極端にうねる。

 追うクルーザーから見れば、先の急カーブを目ざして西北西に坂を登りながら、すでにカーブで折り返したポルシェがほぼ逆方向の東北東に登る姿を、横目で追うような形になる。じきに横目が後目になっても、視界を遮る樹木がないので見失う心配はない。運転中の吉田と助手席の慎太郎は、全周ドラレコのモニターで、豆粒程度だがポルシェを視認できる。リアシートの斎実ときみは、吉田に借りた手ブレ補正機構内蔵のズーム双眼鏡を携えている。

 島崎教育長のポルシェは、峠のピークに向かっていた。次の凸カーブを北に左折すれば、ほどなく県境である。そしてそのカーブの前後は、行程中で最大の難所でもある。千尋の谷というほどではないが、ガードレールがあっても危険を感じる程度には、東側の落差が激しい。

 当然、ポルシェは減速している。

 その時、異変が起こった。

 ポルシェが突然、再加速を始めたのである。

 斎実は双眼鏡を覗きながら、

「……なんか変です。あれ、アクセル全開ですよね」

 できるだけポルシェをズームアップし、

「運転席に誰も見えません!」

 無論、教育長たちが消えたはずはない。

 ハンドルに突っ伏しているのだろうと吉田は解釈し、慎太郎の肩の管生くだしょうに訊ねた。

「まさかあの教育長、昼食で酒でも?」

「いや、酒より女の色ボケ親爺ぞ。しゃっきり運転しなければ、めかけに格好がつかぬ」

「となると――」

 吉田と慎太郎は、改めてドラレコの映像を見定めた。

「暴走状態ですね」

 慎太郎が言うと、吉田はかぶりを振った。

「暴走ならまだいい。誰かがアクセルとハンドルを操作してる」

 山間の道ゆえ、急カーブ以外の部分も、常に緩やかにカーブしている。しかしポルシェがガードレールに接触する気配はない。

「じゃあ、あの女が操作を?」

「助手席からじゃ無理だ」

 ポルシェはひたすら加速している。平地なら300キロ近く出せるターボ車だ。

「……敵を甘く見過ぎた」

 吉田が悔しげにつぶやいた。

 ポルシェのメカニズムが乗っ取られたとしか思えなかった。だとすれば、シャーシ側から細工して済むような、単純な破壊工作ではない。事前に教育長の私的な行動を調査し、合流する予定だった愛人の車に、あらかじめ複雑な加工を施したのだ。思えば昨日、溝口寛子ひろこの祈祷所を燃やした手口も、ヤクザにしては仕掛けが巧妙すぎた。黒幕は別にいる。犬木興産よりも破壊工作に長けた、蔦沼つたぬま警察以上に非合法を厭わない敵が、溝口寛子や島崎教育長の口を封じようとしているのだ。

「二人とも、しっかりつかまってくれ!」

 吉田は急加速した。

 ポルシェの現在地点までは、何百メートルか離れている。まだ先のカーブに達せず西進するしかないクルーザーとの距離は、さらに開いてゆく。

 慎太郎はサイドウインドーを下げ、管生に命じた。

「行け! 止めろ!」

「おうよ!」

 風を切って跳躍した管生は、瞬く間に変化へんげした。トビメのように空を飛べればいいのだが、自分は変化でカバーするしかない。管生は白獅子の態を選んだ。ただの白獅子ではない。巨大怪獣さながらに膨らみ、その強靱な脚力で一気に谷間をショートカットする算段である。

 慎太郎は、吉田の荒い運転に翻弄されながら、リアシートの斎実に叫んだ。

「おい、大丈夫か!」

「う、うん」

 斎実は顔面蒼白ながら、しっかりシートベルトにすがっている。

 慎太郎は吉田に叫んだ。

「抑えてください! 管生が止めます!」

 それでも吉田はさらに加速して、ドリフトの白煙を上げながらカーブに突入した。

 慎太郎は驚愕した。

 こんないかつい車種で、スポーツ車なみのドリフトターン――自分なら間違いなく横転する。

 タイヤが焼ける白煙の中、吉田は直進に戻りながら、

「上を見ろ! 峠の上だ!」

 慎太郎はダッシュボードに腕を突っ張って、なんとか顔を上に向けた。

 峠の空に、さっきまでいなかったはずの、小さな黒い機影が浮遊している。

「――ドローン?」

「現場をチェックしてるんだろう」

 敵の計画は推測できる。あの切り立った崖からポルシェ落とせば、島崎教育長は確実に即死する。県境を越える前ならば、現場検証は蔦沼警察の担当になる。車に残った犯罪の痕跡は、蔦沼警察に隠蔽させればいい。そのために、リアルタイムでタイミングを計っているのだ。

 吉田は猛然と加速を続けた。

 しかし、追いつくには距離がありすぎる。

 先方のポルシェは、全速力で急カーブに突っこんだ。明らかに意図的な突進だった。ポルシェの中では軽量に属するケイマンSに、ガードレールを突き破るほどの質量はない。歪んだガードレールをカタパルトにするような形で、ポルシェは側転しながら高々と宙に舞った。そのまま落下し、崖の陰に消える。

 駄目か――。

 現場が目前となったクルーザーの車中で、吉田も慎太郎も固唾かたずを飲んだ。

 しかし一瞬後、谷の陰から、巨大な白獅子がぬっと顔を出した。

 その口には、ワインレッドのポルシェが咥えられていた。

 急停車するクルーザーの先で、白獅子はポルシェを路面に吐き出し、

「すまぬ。少々遅れをとった」

 そのバリトンの声は、いつものオコジョ姿より、今の巨獣姿にこそ相応ふさわしかった。

「ガソリンやオイルは漏れておらぬ。燃え出す心配はなかろう」

 ポルシェのボディーは傷だらけだが、大きな破損はなさそうである。車相手の荒事にも場数を踏んだ管生のこと、状況判断に抜かりはない。

 三人はポルシェの島崎教育長と愛人を助けに走った。

 上空のドローンは、すでに姿を消している。

 ポルシェのドアは、当然ながらロックされていた。

「ガラスを破りますか?」

 慎太郎が訊ねると、吉田はなぜかスマホを出して、何らかのアプリを操作しながら、

「絶対に真似しないでくれよ。高級車泥棒の常套手段だ」

 近頃のAT車は、外からハッキングできる小技が多い。

 運転席のドアを開いた瞬間、吉田は、慎太郎と斎実に叫んだ。

「近寄るな! 息を止めろ!」

 吉田自身も鼻と口を塞いで、ポルシェの他のドアを全開する。

 幸い標高相応の風が吹き渡り、車内の空気はすぐに入れ替わった。

「中に排ガスでも?」

 慎太郎の問いに、吉田は眉根をひそめ、

「いや、いわゆる催眠ガスだ」

「それって……」

「正確にはフェンタニル系の吸入麻酔薬――日本では医療現場でしか扱えないが、海外ではテロ鎮圧に使われた例がある。あらかじめ車内に仕掛けられていたんだろう」

 慎太郎は愕然とした。敵の正体がただのヤクザではないことを、彼も悟ったのである。

 運転席の島崎教育長と助手席の女性は、壊れたマリオネットのように不自然なポーズで気を失っていた。かろうじてシートベルトで固定されている女性は、確かな息がある。しかし島崎教育長は、シートベルトが外れたのか車内で翻弄されたらしく、口元に吐瀉物と吐血が見られる。

 吉田はすばやく二人の容態を検め、

「女性は大丈夫だ。目立った怪我はない。ランクルに移しておこう」

「教育長は?」

「息はあるが、肋骨ろっこつをやられてる。下手に動かせない。問題は吐血の出所でどころだ。内臓によっては危ない。それにこの場所じゃ、救急車を呼んでも時間がかかる。溝口さんより分が悪い」

「くそ……」

 いったん頭上から消えていたドローンが、また峠の陰から姿を現し、現場の様子を探り始めた。モニターしている連中には管生の姿が見えていないらしく、その存在を無視してポルシェに迫る。

 吉田が危機を直感して、管生に叫んだ。

「落とせ!」

 管生は即座に腕で払った。

 宙に弾かれたドローンが、大音響と共に爆発した。民生用の小型ドローンからは想像もできない大爆発だった。間に管生がいなかったら、下の三人は破片で負傷したかもしれない。

「やはり自爆装置が……」

 吉田はつぶやき、再度、ポルシェの運転席のシートベルトを検めた。あからさまな切れ目はなく、外れるはずのない留め具がきれいに外れている。そもそも、あの事故の衝撃で、エアバッグが作動しないのはおかしい。

「……何から何までプロの仕事だな」

「また襲ってきますか?」

 慎太郎は危ぶんだ。この現場をモニターしているなら、ドローンを飛ばした連中は近場にいるに違いない。

「いや、それはないだろう」

 どこでドローンの中継映像をチェックしていたにせよ、敵がモニターしたのは、いったん崖から落ちたポルシェが突然向きを変え、ふわりと路上に舞い戻る映像である。さらに、自爆攻撃しようとしたドローンは謎の力で弾き飛ばされた。そんな不可解な現象を目の当たりにした以上、プロであればこそ現場で深入りはしない。いったん存在を隠し、次の機会のために、不合理な失敗の原因を理論的に分析しようとする。目撃した民間人がいたとしても、溝口寛子や島崎教育長同様、近々きんきんに処理すればいい。

「しかし、これで蔦沼にも岩手にも救助要請できなくなった」

「なぜですか?」

「この国に、ここまでやりそうな反社やテロリストは存在しないからだ。私の知る限り、むしろ反社の対極――あるいは――国内では、それくらいしかいない」

「コウトク?」

「リクベツ?」

 聞いたことのない略称に、慎太郎と斎実は怪訝けげんな顔をした。

「公安調査庁特殊事案対策班――陸上自衛隊調査隊別班――どちらも制度上は存在しないはずの部署だが、一般的な公安関係者や自衛隊員の間では、実在する部署として認識、もとい想定されている。CIAやFSBの特殊工作班と同様の存在だ」

「CIAなら知ってますが、FSBは聞いたことがありません」

「ロシアの諜報組織――旧ソ連時代のKGBだ。冷戦時代、さんざんスパイ映画のネタになっただろう。どんな国にも似たような組織がある。日本にだって、ないほうがおかしい」

「マジですか?」

 慎太郎と斎実は耳を疑った。

 しかし管生は訳知り顔で、

「要するに透破すっぱ乱破らっぱたぐいであろう。お庭番とも呼ぶな。つまり忍びの者どもよ」

 斎実は呆れたように、

「なんぼなんでも、今時ニンジャって古すぎない?」

「お花畑は色恋だけにしておけ、斎実よ」

 管生は厳しい顔で、

「今も昔も、忍者しのびを使わぬ将軍などおらぬ。今のこの国の将軍が誰なのか俺は知らぬが、自分が将軍だと思っておる偉物えらぶつは、一人や二人ではきかぬはず」

 斎実は黙りこんだ。慎太郎も反論できない。

「今は真実よりも仮定を優先しよう」

 吉田が話を閉めるように言った。

「私は民間のドクターヘリを調達する。311の支援活動で世話になった人に頼めば、宮城あたりから飛ばしてくれるはずだ。飛行プランは公開されるにせよ、少なくとも怪しい人間は乗ってこない。連絡したのも我々じゃなく、通りすがりの旅行者ということにしてもらおう」

「そこまでできるんですか?」

「ああ。苦楽を共にした同志だからね」

 吉田の人脈に感心しながら、慎太郎たちはうなずいた。

「そして、慎太郎君」

「はい」

「君は今すぐ、教育長の記憶を読んでくれないか」

「はい?」

「意識不明だと難しいかな?」

「いえ。経験上、脳死状態じゃなければ大丈夫です」

「ならば試してみてくれ。あの容態では、長く保たない恐れがある。息がある内に、できるだけ記憶を探ってほしい。彼がいったい何に関わってしまったのか――いじめ事件レベルの話じゃないはずなんだ」

「は、はい」


 スマホを使い始める吉田を残し、慎太郎たちは、すぐにポルシェに向かった。

 すでに慎太郎と同化した管生が、額から顔を出して言った。

「いいのか、慎太郎。死にかけた者の心に入るなど博打ばくち同然、途中で死なれたら我らも黄泉よみに落ちるぞ」

「探る場所を限定する。蔦沼市役所がタワービルに移転したのは2018年度からだ。建設初期に起きた佐伯さえき康成やすなりの件はともかく、市教の教育長が直接何かに関わったとすれば、あの教育長室に着任してからのはず。それ以降の五年間を、あの隠し扉をキーポイントにして探せば、大して時間はかからない」

「五年分でも長い気がするが、おぬしは慎一じいさんと違ってからな。――まあいい。うっかり死んだら死んだで、黄泉には俺の知り合いがおる。おぬしとあちらで世話になるのも悪くなかろう」

 一緒に来ていた斎実が、いきなり管生を、もとい慎太郎の額の瘤を捻り上げた。

「あんたは行ったきりでもいいけど、慎兄ちゃんだけはちゃんと帰すんだよ!」

 目が完全に据わっている。

冗談ざれごとだ、冗談ざれごと……」

 管生は命乞いするように呻いた。

 斎実が手を緩めると、管生は息も絶え絶えに咳きこんで、

「……おい斎実、俺を殺す気か」

「黄泉には知り合いがいるんでしょ?」

伊邪那美いざなみ黄泉醜女よもつしこめより、おぬしの方が、よほど恐ろしい……」

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