闇への供物 Ⅳ


     Ⅳ


 拓也は事もなく、安田課長の部屋の玄関に入った。

 昨日の彼から感じたような腐臭はまったくない。室内の温度も、全館冷房の廊下より低い。戸別の空調を働かせたまま出かけたようだ。

 拓也は通学用のタウンシューズを、洗ったスニーカーに履き替えた。先の行程を考えれば、裸足やスリッパでは上がれない。

 佐伯さえき康成やすなりのメールと兵藤の間取り図に即して、室内通路を奥のリビングに向かう。4LDKにベランダを備えた、三世代同居にも充分な間取りである。その最奥の部屋に、屋上に抜ける隠しルートが存在するらしい。

 途中、ベランダに面したメインのリビングにさしかかり、拓也は立ちすくんだ。

 制服の少女が、ソファーでくつろいでいる。

 超ミニのスカートと、だらしなくテーブルの上に投げだした土足の脚――犬木茉莉まりだった。

「やっほ、タクヤ」

 茉莉は軽く片手を上げて、からかうように振ってみせた。

 ――なぜ彼女が?

 拓也は反応に窮した。

 犬木茉莉も基本的には佐伯康成の手駒、つまり安田課長の仲間内だから、この部屋を知っていても不思議はない。しかし、昨夜警察に補導されて自宅に連れ戻されたはずの彼女が、なぜここにいるのか。そもそも、どうやってここまで入ったのか。あくまではくの凝りにすぎない彼女の場合、気体状のはくと同様に、ドアの隙間を抜けられるのだろうか。

 現在の犬木茉莉の肉体――正確に言えば腐乱死体は、麻田真弓のはくの容器として、あの地下空間に眠っている。今の姿は、自分のはくに別の大量のはくを取りこんで形成した、仮の姿にすぎない。しかし誰が見ても、物質としての質感がある。それを自由に気体化できるとは、拓也には思えなかった。

 茉莉は両足をテーブルから下ろし、拓也の気を惹くように、ゆっくりと組んでみせた。いわゆるではなく、学生らしい清潔な白いショーツそのものをちらつかせるのが、彼女の男漁りの常套手段なのである。

「もうタクヤって呼んでいいよね。あんだけのキスした仲だもん」

「相手が君だとは知らなかった」

「うわ。そりゃ真弓に化けてたけどさ、そこまで冷たくツッコんでくる? タクヤって、そんなキャラだった?」

 茉莉はわざとらしく嘆いてみせた。

「昔から、みんなに優しかったじゃん。死んだ猫にまで優しかったじゃん」

「……死んだ猫?」

「うん。あたし、こっそり見てたんだ。車に轢かれちゃった猫をタクヤが抱いて、お寺に持ってくとこ。まだこのビルができる前、昔の町の道でね」

 しかし拓也には、その時代に犬木茉莉を見た記憶がない。

「…………」

「ひっどーい。ちっとも覚えてないんだ。あたし同じクラスにいたじゃん。マユミもサヤも、いっしょにいたじゃん。……あたし、すっごく傷ついた。もう首吊って死んじゃいたい」

 嘘とは思えない悲しげな表情に、拓也が困惑していると、

「――なーんちゃって!」

 茉莉はころりと口調を変え、

「『もう死んでんだろ』とかツッコんでよ。まあタクヤには無理か。青山みたいなキャラじゃないとね」

「…………」

 確かに拓也には、その手のセンスが欠落している。

「でも、あの頃、同じクラスにいたのはホントだよ。タクヤは覚えてなくて当たり前だけど。あの頃あたし、マジでサヤより地味だったから」

 拓也は小学校低学年の頃の記憶を、できるかぎり探っていた。言われてみれば、確かに犬木姓の同級生がいたかもしれない。しかしその顔までは、どうしても思い出せない。

「ま、気にしないで。マユミなんか、あの頃からお人形さんみたいだったし、サヤだって、陰キャなりにちゃんとキャラが立ってたし。あたしなんか、まるっきり、その他大勢だったから」

 それが事実なのだろう。そもそも今の茉莉のイメージから、幼時の茉莉を想像すること自体が不可能だ。

「――で、タクヤがここにいるってことは、この部屋のあのオッサン、もしかしてシマツされちゃった?」

「……ああ」

「やっぱし。あの陰陽師みたいな連中、けっこう強そうだったもんね。――でも、そりゃ困ったな。あのウスラハゲにくっついてれば下に戻れると思って、わざわざよじ登ってきたのに」

「よじ登った?」

「うん。市教んとこの隠し扉は、もう入れなくなってたしね。しょうがないから外の壁を這い上がって、キッチンの小窓からもぐりこんだんだ。こーんな感じでね」

 茉莉は、狭い穴をくぐり抜ける猫のように身をよじって見せた。安田課長は、明かり取りの小窓を施錠していなかったのだろう。外壁を四十五階まで這い上がってくる泥棒はいないし、そもそも人間が侵入するのは不可能な小窓である。

「君は、あの穴の底に――佐伯さんの家に帰る気なのか?」

「だって帰らないと、あたし、そろそろヤバイんだもん」

 茉莉は片手を伸ばし、拓也の顔に近づけた。

 その指先から甲にかけて、青黒い変色が始まっている。昨日追加したはくの力が、そろそろ切れかかっているのだろう。

「それに、やりたいことは、もう済ませたしね」

 茉莉はカーペットに置いてあった荷物を持ち上げ、テーブルの上に据えた。レジ袋よりやや大きい、買い物用の保冷バッグである。ペットボトルや食材でも詰まっているのか、重くて鈍い音がテーブルに響いた。

「これ持って帰れば、サヤの親父さんも、そんなには怒らないと思うんだ」

 思わせぶりに言いながら、茉莉は保冷バッグのファスナーを開いた。

 明らかな腐臭が、拓也の鼻を突いた。

「一晩くらいつと思ったんだけど、やっぱりナマモノは匂っちゃうね。いっぺん冷凍しとけばよかった」

 茉莉はバッグから、ずるり、と中身を引き出した。

 男の首だった。

 茉莉が掴んでいる頭髪から首の断面まで、全体が赤黒い粘液に濡れているので、顔貌は判然としない。しかし、その極端な鷲鼻だけは、拓也にも見覚えがあった。地方新聞やテレビのローカル番組で、良くも悪しくもしばしば取りあげられる地元の有力者――犬木興産会長、犬木剛堂ごうどう

「そ、ウチのオヤジ」

 茉莉は、事もなげに言ってのけた。

「の、首だけ」

「…………」

 拓也は絶句していたが、内心、驚愕というほどの驚きはなかった。血生臭い死骸には、すでに不感症になっている。ただ、茉莉の行動があまりに不可解だった。佐伯康成に殺せと命令されたなら納得できる。しかし彼が犬木茉莉に命じたのは、あくまで遠方に逃れた当時の校長と担任教師をタワービルに誘いこむ、それだけのはずだ。その命令に背いてまで、なぜ茉莉はわざわざ自宅に戻り、実の父親を殺したのか。

 茉莉は血まみれの首を、ゆらゆらと揺らしながら言った。

「あたしね、こいつのオモチャにされてたんだ。もう幼稚園の頃から、ずっとね」

 茉莉の顔には、憎悪と嘲笑が浮かんでいた。

「オモチャってっても、リカちゃん人形じゃないよ。オトナのオモチャ。夜にベッドで使う方のやつ。ぶっちゃけラブドール」

 そうだったのか――。

 拓也にも、茉莉の殺意の由縁が、一瞬に理解できた。

 しかし、まだ疑問は残る。なぜ康成の命令よりも、それを優先しなければならなかったのか。

 拓也の内心を察したように、茉莉は続けて言った。

「サヤの親父さん、こいつもあそこに引きずりこむつもりだったんだ。こいつの会社、創業記念日が九月なんだけど、毎年、このビルのレストラン借り切って記念パーティ開くのね。クレヨンやコウジの親父さんも、毎年呼ばれて出席してる。そこで三人まとめて引きずりこんじゃえば、手間も省けるし、なんか派手でいいでしょ? いっしょに始末したい奴も、何人かいるみたいだし」

「だったら、君も九月を待てば――」

「あのさ、タクヤってスグレモノのわりに、なんかヌケてるとこあるよね。ぶっちゃけ女心とかさ」

 茉莉はからかうように言った。

「そうなったら、ヘタすりゃこの先何十年、サイアク何百年、あたしはこいつといっしょにいなきゃなんないんだよ? そんなの死んでもじゃん。だから、ゆんべの内に骨ごとミンチにして、池の鯉の餌にしてやったんだ。で、この首はサヤの親父さんへのキモチっつーか、まあオミヤゲってことで」

 なるほど、あまりに残虐すぎる行為だが、彼女にしてみれば正当な報復だろう。佐伯沙耶さやへの一方的な加虐とは違い、確かに理にかなっている。そもそも生前の自堕落きわまりない異性関係にしろ、沙耶に対する性的ないじめにしろ、被虐待児童の陥りがちな非行パターンである。

 納得している拓也に、茉莉は拍子抜けした顔で、

「……あのさ、タクヤ。こんなエロくてグロくてズブドロな話聞いといて、なんかクールすぎない?」

 拓也は、文字通り冷静クールに返した。

「この世にそんなけだもの以下の父親がいることは、前から知ってた。相手が強すぎて逆らえない子供がほとんどらしいけど、中には反撃する子供もいる。アメリカあたりじゃ、虐待された子供が親を射殺した例がある。子供だって人間だ。けだもの以下の奴に襲われたら、撃ち殺す権利はあるさ」

 茉莉がまだ生きている娘なら、拓也も違う反応を見せただろう。しかし死者の怨念を、生者がどうこう論じても仕方がない。拓也は死者に対する生者として、犬木茉莉とも、そして佐伯康成とも、社会的に一線を画したかった。

 茉莉は白けた顔で拓也を一瞥し、

「タクヤのそーゆークールなとこ、あたし、大好きなんだけどさ。でも時々、なんだかすっごくムカつくのよね」

 皮肉っぽい口調で言いながら、父親の生首を保冷バッグに収め、

「――ま、いいか。ミエミエの同情なんか、ウザったいだけだしね」

 再び拓也を見上げた茉莉は、元のあっけらかんとした口調に戻っていた。

「だいたい幼稚園の頃は、自分でもなんだかよくわかんなかったし、オヤジも痛いことはしなかったし、ちょっと変な遊びくらいにしか思ってなかった。変だと思い始めたのは、あの小学校がなくなる、ちょっと前くらい。――えーと、あれ、何年生ん時だっけ」

「三年。一学期の終わりまで。夏休み明けには、みんな転校してた」

「そっか。――うん、そうそう。さすがタクヤは記憶力がいいね」

 茉莉は拓也に、意味深な目を流した。

「てか、ほら、いくらあたしがバカでも、小学三年にもなると、なんつーか、自分がマトモな女の子じゃないって気がついちゃうわけよ」

 いかにも、これからになるよ、と言うような自嘲の笑みを浮かべ、

「つまり――ふつうの女の子は、もうオヤジといっしょに風呂に入ったりしないじゃん。オヤジの前で裸になるのだって恥ずかしいじゃん。でもうちじゃ毎晩素っ裸にされて、風呂とかベッドで、くわえさせられたりなめられたり、顔に出されたり飲まされたり――さすがに入れるのはまだ無理だったけど、ふつうの家から見りゃ、まるっきりキチガイの家でしょ?」

「父親は狂人でも、子供は純然たる犠牲者だ」

「でも、あたし頭悪かったし、そこいらへんもよくわかんなかったわけよ。もう毎日いやでいやでしょうがないんだけど、オヤジが本当は社長とかじゃなくて、ヤクザの親分だってとっくに知ってたから、逆らったらマジに殺されるって思ってた。子供だから逃げる場所だってわかんない。門の横には若い衆が詰めてるし、オフクロはとっくに追い出されてたし、アニキとかは学校の寮に入ってたし、家政婦さんだって夜には帰っちゃうし――アメリカと違って、引き出しにピストルは入ってないし」

「……学校で先生に相談するとか」

「あのさタクヤ、本気で言ってる? 学校ガッコ先生センコーなんて、日和見ばっかじゃん。あの小学校の校長だって、毎年こっそり馬鹿高いお中元やらお歳暮やら、うちに送りつけてたんだよ? オヤジも校長も、PTAとか世間体とかなんか色々気にして、大っぴらにしなかったけどね」

「…………」

「だからあたし、せめてクラスの中じゃ、犬木剛堂の娘だってこと、絶対バレないようにしてたんだ。てか、家でも学校でも、今のあたしじゃなくなって、別のモノになりたくてしょうがなかった。全然別のキャラに変身したら、世界中の誰にも気づかれないもんね。――タクヤは頭いいから、あたしが本気で何になりたかったか、もしかしてわかるかな? プリキュア? アリエル? それともDCのハーレイ・クインみたいに、トンデモな無敵キャラ?」

 拓也は、ほとんど間を置かずに答えた。

「――透明人間」

 あくまで理詰めの返答だった。

 今の犬木茉莉ではなく、内気な八歳の女児の事例である。そんな忌まわしい環境に囚われたら、そう願うしかないのではないか。父親はもとより、他の家族、同級生、教師――それら世間の誰の目にも触れたくない。しかし、家出や自死を選べるほど大人ではない。ならば、自分が無色透明の存在になるしかない。

 茉莉は目を丸くして拓也を見つめていたが、数瞬後、

「……ピンポ~ン!」

 内心の動揺をごまかすように、ことさらおどけた声で言った。

「ま、タクヤはスグレモノだもん、そんくらい当ててナンボだよね」

 冗談めかした顔と口調だが、その裏にある喜びを隠しきれていない。

 犬木茉莉もまた麻生真弓や佐伯沙耶と同様、拓也の他者に対する洞察力を、人間的で好ましい感受性の発露――つまりと信じているのだ。

 茉莉は照れ隠しのように、話題を変えてきた。

「――それより、そのちっこくてかわいい子、タクヤのペット?」

 茉莉の視線は、拓也の肩に向けられていた。

「なんて名前? あたしも撫でていいかな」

 拓也の耳の後ろから、微かな唸り声が聞こえた。

 トビメがいつの間にかバックパックから抜けだし、全身の毛を逆立てている。茉莉のただならぬ気配を察して現れたのか、あるいは生首の腐臭を嗅ぎつけたのか、いずれにせよ、今は敵意と殺気の塊である。

「いや、ちょっと預かってるだけなんだけど――名前はトビメ。でも気が立ってるから、触らないほうがいいよ」

 しかし茉莉は、遠慮なくトビメに指を伸ばした。

 ぴくりと身を引いて、なお威嚇するトビメに、

「あらら、トビメちゃん。フェレットの赤ちゃんみたいな顔して、そんなにツッパらないで。あたし、タクヤをいじめたりしないから。なんなら守ってあげたいくらいだし。たぶんキミもそんな感じなんでしょ? だったら仲良くしようよ、お互い、キュートなオバケ仲間ってことで」

 そのあっけらかんとした物言いには、拓也もさすがに腰が引けた。

 彼女は昨日、ずっと麻田真弓の体内に潜んでいたのである。当然、トビメが怪物さながらに巨大化することも知っている。それに対峙する自信がなければ、こんな態度はとれない。彼女の「あたしバカだから」という生前からの口癖も、実は韜晦とうかいにすぎないのだろう。

 トビメは毒気を抜かれたように、拓也の顔色を窺った。

「……きゅん?」

 拓也は、指先でトビメの頭を撫でながら、

「大丈夫。少なくとも、今は敵じゃない」

「きゅん……」

 それから拓也は、茉莉に向き直り、

「あの地下に帰りたいなら、僕についてくればいい。これから、昨日の扉とは別の扉を開けに行くところなんだ」

「……へ?」

 茉莉は目を丸くしたが、一瞬後には顔を輝かせ、

「なんかよくわかんないけど、超ラッキー!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る