闇への供物 Ⅳ
Ⅳ
拓也は事もなく、安田課長の部屋の玄関に入った。
昨日の彼から感じたような腐臭はまったくない。室内の温度も、全館冷房の廊下より低い。戸別の空調を働かせたまま出かけたようだ。
拓也は通学用のタウンシューズを、洗ったスニーカーに履き替えた。先の行程を考えれば、裸足やスリッパでは上がれない。
途中、ベランダに面したメインのリビングにさしかかり、拓也は立ちすくんだ。
制服の少女が、ソファーでくつろいでいる。
超ミニのスカートと、だらしなくテーブルの上に投げだした土足の脚――犬木
「やっほ、タクヤ」
茉莉は軽く片手を上げて、からかうように振ってみせた。
――なぜ彼女が?
拓也は反応に窮した。
犬木茉莉も基本的には佐伯康成の手駒、つまり安田課長の仲間内だから、この部屋を知っていても不思議はない。しかし、昨夜警察に補導されて自宅に連れ戻されたはずの彼女が、なぜここにいるのか。そもそも、どうやってここまで入ったのか。あくまで
現在の犬木茉莉の肉体――正確に言えば腐乱死体は、麻田真弓の
茉莉は両足をテーブルから下ろし、拓也の気を惹くように、ゆっくりと組んでみせた。いわゆる見せパンではなく、学生らしい清潔な白いショーツそのものをちらつかせるのが、彼女の男漁りの常套手段なのである。
「もうタクヤって呼んでいいよね。あんだけのキスした仲だもん」
「相手が君だとは知らなかった」
「うわ。そりゃ真弓に化けてたけどさ、そこまで冷たくツッコんでくる? タクヤって、そんなキャラだった?」
茉莉はわざとらしく嘆いてみせた。
「昔から、みんなに優しかったじゃん。死んだ猫にまで優しかったじゃん」
「……死んだ猫?」
「うん。あたし、こっそり見てたんだ。車に轢かれちゃった猫をタクヤが抱いて、お寺に持ってくとこ。まだこのビルができる前、昔の町の道でね」
しかし拓也には、その時代に犬木茉莉を見た記憶がない。
「…………」
「ひっどーい。ちっとも覚えてないんだ。あたし同じクラスにいたじゃん。マユミもサヤも、いっしょにいたじゃん。……あたし、すっごく傷ついた。もう首吊って死んじゃいたい」
嘘とは思えない悲しげな表情に、拓也が困惑していると、
「――なーんちゃって!」
茉莉はころりと口調を変え、
「『もう死んでんだろ』とかツッコんでよ。まあタクヤには無理か。青山みたいなキャラじゃないとね」
「…………」
確かに拓也には、その手のセンスが欠落している。
「でも、あの頃、同じクラスにいたのはホントだよ。タクヤは覚えてなくて当たり前だけど。あの頃あたし、マジでサヤより地味だったから」
拓也は小学校低学年の頃の記憶を、できるかぎり探っていた。言われてみれば、確かに犬木姓の同級生がいたかもしれない。しかしその顔までは、どうしても思い出せない。
「ま、気にしないで。マユミなんか、あの頃からお人形さんみたいだったし、サヤだって、陰キャなりにちゃんとキャラが立ってたし。あたしなんか、まるっきり、その他大勢だったから」
それが事実なのだろう。そもそも今の茉莉のイメージから、幼時の茉莉を想像すること自体が不可能だ。
「――で、タクヤがここにいるってことは、この部屋のあのオッサン、もしかしてシマツされちゃった?」
「……ああ」
「やっぱし。あの陰陽師みたいな連中、けっこう強そうだったもんね。――でも、そりゃ困ったな。あのウスラハゲにくっついてれば下に戻れると思って、わざわざよじ登ってきたのに」
「よじ登った?」
「うん。市教んとこの隠し扉は、もう入れなくなってたしね。しょうがないから外の壁を這い上がって、キッチンの小窓からもぐりこんだんだ。こーんな感じでね」
茉莉は、狭い穴をくぐり抜ける猫のように身をよじって見せた。安田課長は、明かり取りの小窓を施錠していなかったのだろう。外壁を四十五階まで這い上がってくる泥棒はいないし、そもそも人間が侵入するのは不可能な小窓である。
「君は、あの穴の底に――佐伯さんの家に帰る気なのか?」
「だって帰らないと、あたし、そろそろヤバイんだもん」
茉莉は片手を伸ばし、拓也の顔に近づけた。
その指先から甲にかけて、青黒い変色が始まっている。昨日追加した
「それに、やりたいことは、もう済ませたしね」
茉莉はカーペットに置いてあった荷物を持ち上げ、テーブルの上に据えた。レジ袋よりやや大きい、買い物用の保冷バッグである。ペットボトルや食材でも詰まっているのか、重くて鈍い音がテーブルに響いた。
「これ持って帰れば、サヤの親父さんも、そんなには怒らないと思うんだ」
思わせぶりに言いながら、茉莉は保冷バッグのファスナーを開いた。
明らかな腐臭が、拓也の鼻を突いた。
「一晩くらい
茉莉はバッグから、ずるり、と中身を引き出した。
男の首だった。
茉莉が掴んでいる頭髪から首の断面まで、全体が赤黒い粘液に濡れているので、顔貌は判然としない。しかし、その極端な鷲鼻だけは、拓也にも見覚えがあった。地方新聞やテレビのローカル番組で、良くも悪しくもしばしば取りあげられる地元の有力者――犬木興産会長、犬木
「そ、ウチのオヤジ」
茉莉は、事もなげに言ってのけた。
「の、首だけ」
「…………」
拓也は絶句していたが、内心、驚愕というほどの驚きはなかった。血生臭い死骸には、すでに不感症になっている。ただ、茉莉の行動があまりに不可解だった。佐伯康成に殺せと命令されたなら納得できる。しかし彼が犬木茉莉に命じたのは、あくまで遠方に逃れた当時の校長と担任教師をタワービルに誘いこむ、それだけのはずだ。その命令に背いてまで、なぜ茉莉はわざわざ自宅に戻り、実の父親を殺したのか。
茉莉は血
「あたしね、こいつのオモチャにされてたんだ。もう幼稚園の頃から、ずっとね」
茉莉の顔には、憎悪と嘲笑が浮かんでいた。
「オモチャってっても、リカちゃん人形じゃないよ。オトナのオモチャ。夜にベッドで使う方のやつ。ぶっちゃけラブドール」
そうだったのか――。
拓也にも、茉莉の殺意の由縁が、一瞬に理解できた。
しかし、まだ疑問は残る。なぜ康成の命令よりも、それを優先しなければならなかったのか。
拓也の内心を察したように、茉莉は続けて言った。
「サヤの親父さん、こいつもあそこに引きずりこむつもりだったんだ。こいつの会社、創業記念日が九月なんだけど、毎年、このビルのレストラン借り切って記念パーティ開くのね。クレヨンやコウジの親父さんも、毎年呼ばれて出席してる。そこで三人まとめて引きずりこんじゃえば、手間も省けるし、なんか派手でいいでしょ? いっしょに始末したい奴も、何人かいるみたいだし」
「だったら、君も九月を待てば――」
「あのさ、タクヤってスグレモノのわりに、なんかヌケてるとこあるよね。ぶっちゃけ女心とかさ」
茉莉はからかうように言った。
「そうなったら、ヘタすりゃこの先何十年、サイアク何百年、あたしはこいつといっしょにいなきゃなんないんだよ? そんなの死んでもペペペのペーじゃん。だから、ゆんべの内に骨ごとミンチにして、池の鯉の餌にしてやったんだ。で、この首はサヤの親父さんへのキモチっつーか、まあオミヤゲってことで」
なるほど、あまりに残虐すぎる行為だが、彼女にしてみれば正当な報復だろう。佐伯
納得している拓也に、茉莉は拍子抜けした顔で、
「……あのさ、タクヤ。こんなエロくてグロくてズブドロな話聞いといて、なんかクールすぎない?」
拓也は、文字通り
「この世にそんな
茉莉がまだ生きている娘なら、拓也も違う反応を見せただろう。しかし死者の怨念を、生者がどうこう論じても仕方がない。拓也は死者に対する生者として、犬木茉莉とも、そして佐伯康成とも、社会的に一線を画したかった。
茉莉は白けた顔で拓也を一瞥し、
「タクヤのそーゆークールなとこ、あたし、大好きなんだけどさ。でも時々、なんだかすっごくムカつくのよね」
皮肉っぽい口調で言いながら、父親の生首を保冷バッグに収め、
「――ま、いいか。ミエミエの同情なんか、ウザったいだけだしね」
再び拓也を見上げた茉莉は、元のあっけらかんとした口調に戻っていた。
「だいたい幼稚園の頃は、自分でもなんだかよくわかんなかったし、オヤジも痛いことはしなかったし、ちょっと変な遊びくらいにしか思ってなかった。変だと思い始めたのは、あの小学校がなくなる、ちょっと前くらい。――えーと、あれ、何年生ん時だっけ」
「三年。一学期の終わりまで。夏休み明けには、みんな転校してた」
「そっか。――うん、そうそう。さすがタクヤは記憶力がいいね」
茉莉は拓也に、意味深な目を流した。
「てか、ほら、いくらあたしがバカでも、小学三年にもなると、なんつーか、自分がマトモな女の子じゃないって気がついちゃうわけよ」
いかにも、これからそっちの話になるよ、と言うような自嘲の笑みを浮かべ、
「つまり――ふつうの女の子は、もうオヤジといっしょに風呂に入ったりしないじゃん。オヤジの前で裸になるのだって恥ずかしいじゃん。でも
「父親は狂人でも、子供は純然たる犠牲者だ」
「でも、あたし頭悪かったし、そこいらへんもよくわかんなかったわけよ。もう毎日いやでいやでしょうがないんだけど、オヤジが本当は社長とかじゃなくて、ヤクザの親分だってとっくに知ってたから、逆らったらマジに殺されるって思ってた。子供だから逃げる場所だってわかんない。門の横には若い衆が詰めてるし、オフクロはとっくに追い出されてたし、アニキとかは学校の寮に入ってたし、家政婦さんだって夜には帰っちゃうし――アメリカと違って、引き出しにピストルは入ってないし」
「……学校で先生に相談するとか」
「あのさタクヤ、本気で言ってる?
「…………」
「だからあたし、せめてクラスの中じゃ、犬木剛堂の娘だってこと、絶対バレないようにしてたんだ。てか、家でも学校でも、今のあたしじゃなくなって、別のモノになりたくてしょうがなかった。全然別のキャラに変身したら、世界中の誰にも気づかれないもんね。――タクヤは頭いいから、あたしが本気で何になりたかったか、もしかしてわかるかな? プリキュア? アリエル? それともDCのハーレイ・クインみたいに、トンデモな無敵キャラ?」
拓也は、ほとんど間を置かずに答えた。
「――透明人間」
あくまで理詰めの返答だった。
今の犬木茉莉ではなく、内気な八歳の女児の事例である。そんな忌まわしい環境に囚われたら、そう願うしかないのではないか。父親はもとより、他の家族、同級生、教師――それら世間の誰の目にも触れたくない。しかし、家出や自死を選べるほど大人ではない。ならば、自分が無色透明の存在になるしかない。
茉莉は目を丸くして拓也を見つめていたが、数瞬後、
「……ピンポ~ン!」
内心の動揺をごまかすように、ことさらおどけた声で言った。
「ま、タクヤはスグレモノだもん、そんくらい当ててナンボだよね」
冗談めかした顔と口調だが、その裏にある喜びを隠しきれていない。
犬木茉莉もまた麻生真弓や佐伯沙耶と同様、拓也の他者に対する洞察力を、人間的で好ましい感受性の発露――つまり優しさと信じているのだ。
茉莉は照れ隠しのように、話題を変えてきた。
「――それより、そのちっこくてかわいい子、タクヤのペット?」
茉莉の視線は、拓也の肩に向けられていた。
「なんて名前? あたしも撫でていいかな」
拓也の耳の後ろから、微かな唸り声が聞こえた。
トビメがいつの間にかバックパックから抜けだし、全身の毛を逆立てている。茉莉のただならぬ気配を察して現れたのか、あるいは生首の腐臭を嗅ぎつけたのか、いずれにせよ、今は敵意と殺気の塊である。
「いや、ちょっと預かってるだけなんだけど――名前はトビメ。でも気が立ってるから、触らないほうがいいよ」
しかし茉莉は、遠慮なくトビメに指を伸ばした。
ぴくりと身を引いて、なお威嚇するトビメに、
「あらら、トビメちゃん。フェレットの赤ちゃんみたいな顔して、そんなにツッパらないで。あたし、タクヤをいじめたりしないから。なんなら守ってあげたいくらいだし。たぶんキミもそんな感じなんでしょ? だったら仲良くしようよ、お互いタクヤ押し、キュートなオバケ仲間ってことで」
そのあっけらかんとした物言いには、拓也もさすがに腰が引けた。
彼女は昨日、ずっと麻田真弓の体内に潜んでいたのである。当然、トビメが怪物さながらに巨大化することも知っている。それに対峙する自信がなければ、こんな態度はとれない。彼女の「あたしバカだから」という生前からの口癖も、実は
トビメは毒気を抜かれたように、拓也の顔色を窺った。
「……きゅん?」
拓也は、指先でトビメの頭を撫でながら、
「大丈夫。少なくとも、今は敵じゃない」
「きゅん……」
それから拓也は、茉莉に向き直り、
「あの地下に帰りたいなら、僕についてくればいい。これから、昨日の扉とは別の扉を開けに行くところなんだ」
「……へ?」
茉莉は目を丸くしたが、一瞬後には顔を輝かせ、
「なんかよくわかんないけど、超ラッキー!」
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