第二章 北帰行

北帰行 Ⅰ

長編小説 天壌霊柩 第一部 ~ 超高層のマヨヒガ ~



  第二章 北帰行

  

     Ⅰ


 山陰の出雲空港から、東北の峰館みねだて空港へ――。

 スマホで空路案内を確認しながら、慎太郎は提案した。

「なら当然、大阪経由だな。大阪の伊丹空港で乗り継げば、待ち時間を入れても、朝に発って昼には到着するはずだ。すぐにチケットを予約しよう」

 久々に訪れた本家の奥座敷は、つましい実家の居間や、京都の四畳半下宿とは違って、エアコン抜きでもひんやりと仄暗い。縁側の外の裏庭に照りつける夏の陽射しが、かえって奥座敷の冷感を際立たせている。又従妹はとこが出してくれた麦茶の喉越しと、グラスの水滴の感触にも、秘めやかな懐かしさを覚える。

 又従妹はとこ斎実ときみが、横からスマホを覗きこんで言った。

「やだ。途中で東京に寄りたい」

 春に予定されていた高校の修学旅行がコロナ騒ぎで中止になり、よほど悔しかったらしい。

「観光旅行じゃないんだぞ。おまえは斎子ときこ婆ちゃんの代参なんだからな。先様の用件だって、一刻を争う話かもしれないだろ」

 斎実の祖母・御上みかみ斎子を、慎太郎は『斎子婆ちゃん』と呼んでいるが、正確には慎太郎の祖父・御上慎一の姉であって、慎太郎本人にとっては伯祖母おおおばにあたる。

「東京見物は、終わってからゆっくりやれ」


 大学四年の慎太郎としては、突然決まった東北行きなど、一日でも短く済ませたかった。すでに卒業所要単位は取り終え、残るは卒論だけである。ところがゼミの教授から、論文の草稿にフィールドワークが足りないと指摘されてしまった。就職先が決まっていれば大目に見てくれると言うが、慎太郎は大学院進学を志望している。論文選考で落ちては話にならない。

 そこで夏期休暇を待たず、大学のある京都から地元の出雲に帰省し、奥出雲一帯の研究フィールドを再調査しはじめたのだが、その矢先に本家の伯祖母から、孫娘の東北訪問に随伴するよう命じられてしまった。本来なら斎子本人が訪ねる予定だったのだが、急病で入院してしまい、孫娘の斎実しか手が空いていなかったのである。

 核家族ばかりの都会では、今どき本家も分家もなかろうが、この古い土地では、そんな上下感覚が根強く残っている、特に御上家の家系では、代々女系が当主を継ぐ本家に、男系の分家は頭が上がらない。まして今回の依頼主は、昔から本家と縁の深い峰館市の山室やまむろ家なので、今さらドタキャンするわけにもいかない。そんなこんなで分家の慎太郎は、自宅の建売住宅よりも数倍は広壮な本家の屋敷に出向き、斎実と旅程を組む羽目に陥っていた。


「でも、向こうの用事に何日かかるか、行ってみなくちゃわかんないじゃない。もし一週間もかかったら、慎兄ちゃん、終わったとたんにトンボ返りするつもりでしょ?」

「そりゃ俺は忙しいからな」

「あたしに一人で東京見物しろっていうの?」

「…………」

 慎太郎は言葉に詰まった。確かに、それでは肝腎のおり役が果たせない。

 仮に電車一本で行ける場所での仕事なら、斎実一人で行かせればいい。まだ若い斎実も、本家の女当主が代々受け継いできた神秘的資質と精神集中技術は完璧に備えている。ビルの地鎮祭だろうが事故物件の霊鎮たましずめだろうが、立派にこなせるはずだ。

 しかし東北訪問は難しい。そもそも目的地までたどり着けない恐れがある。まして東京見物は不可能だろう。以前、斎実が慎太郎の下宿を訪ねようと京都駅で降りた時も、結局は慎太郎が迎えに出た。それからも年に数回は、同じパターンが繰り返された。スマホでGPS連動の道案内アプリを見ながら、どうやって道に迷えるのか――慎太郎にしてみれば、それもまた実に神秘的な資質である。

「だからさ、行く途中で寄ろうよ」

 斎実は甘えるように身を寄せてきた。

 お互い一人っ子で、他に歳の近い親類がいないせいか、斎実は高三になっても、体ごと慎太郎に甘えてくる。

「半日だけでもいいよ。見たい所は、もう決まってるし」

 和室の座卓で横から迫られると、斎実の白いワンピースの豊かすぎる胸元が、どうしても慎太郎の視界に入る。タンクトップから覗く、日焼けの始まった若い素肌は、柑橘類の果実のように健やかだ。学究肌の慎太郎も健康な若者には違いないから、十七歳の少女の胸元は、やはり気になる。まして斎実は、ひなには稀な容姿なのである。

 対処に窮した慎太郎は逆方向に目をそらし、開け放たれた障子から、裏庭の凌霄花のうぜんかずらを眺めてごまかした。

「……今年も綺麗に咲いたなあ」

 だいだい色の花々が垣根の群葉を彩り、夏の南風にそよいでいる。

 その時、手前の縁側を、斎実の母親が和服姿でぱたぱたと横切っていった。淡い夏竹柄の大島紬はいかにも涼しげだが、両手で抱えている風呂敷包みがよほど重いのか、額に汗が浮かんでいる。

 そのまま通りすぎようとするので、慎太郎はあわてて声をかけた。

斎江ときえおばさん!」

 正確には伯従母いとこおばなのだが、慎太郎は昔からそう呼んでいる。

「ちょっと、こっちにいいですか?」

 斎江は立ち止まって、座敷の二人を一瞥し、

「そっちの件は、慎ちゃんに丸投げするわ。私、またすぐに病院に戻らなきゃいけないの。母さんたら入院したとたん、あれ持ってこいのあれ買ってこいの、やたらうるさくなっちゃって。そりゃ毎日元気すぎるくらい出歩いてた年寄りがいきなり動けなくなったら、とりあえず口を動かすしかないのはわかるんだけどね。いっそ父さんも退職して、母さんの相手をしてくれればいいのに」

 早口にそれだけ言って、そのまま立ち去ろうとする。実の娘が若い男にべったり密着している姿を見ても、まったく動じていない。

 慎太郎は、呆れて食い下がった。

「こっちの元気すぎる娘にも、何か言ってやってくださいよ」

 斎江は斎実に言った。

「斎実、御上家うちの初孫は女の子が大吉よ。初夜の前には、しっかり産み分けの祝詞のりとを唱えてね」

「うん」

 斎実が真顔でうなずき、斎江も真顔でうなずき返す。

「じゃあ慎ちゃん、後はよろしく」

 斎江はひらひらと手を振って、足早に去っていった。

 斎実は慎太郎の肩に頬をすりよせ、

「あたしは、どっちでもいいよ。女の子でも男の子でも、慎兄ちゃんの子供なら」

 慎太郎は憮然として、

「俺は平凡な民俗学者になって、平凡な家庭を作るんだ」

「あきらめなよ。お祖母ばあちゃんもお母さんも、慎爺ちゃんより慎兄ちゃんのほうが、ずっと筋がいいって言ってるし。『妖怪ハンター』の稗田礼二郎先生みたいな、アヤしい学者さんになればいいじゃない」

 斎実は天真爛漫な笑顔を浮かべ、

「平凡なお嫁さんなんかもらっても、どうせ三日で逃げちゃうよ」

「…………」

 慎太郎は、また言葉に詰まった。

 まさか三日で逃げるとは思わないが、半年以内には確実に逃げそうな気がする。

 いや、その妻が、夫婦生活において何よりも夫の経済力を重視するタイプのならば、生涯添い遂げられるかもしれない。

 御上家の場合、実は分家の男衆も、ある種の才能に恵まれさえすれば、本家ではこなせないタイプの仕事を手伝って、少なからぬ臨時収入を得られる。祖父がそうであったし、その後の男系親族が誰一人才能に恵まれなかった分、なぜか慎太郎にまとめて才能が現れ、学生にしては分不相応な、自力で大学院を目指せるほどの貯金もできた。

 ただ問題は、その平凡な妻が、夫の稼ぎのためにどこまで社会常識を捨ててくれるか、である。いや、そもそも御上家の稼業を容認できる時点で、すでに平凡な妻ではない。

「……俺は、これ以上、御上家うちの血筋を濃くしたくないんだよ」

 慎太郎は、そう答えるしかなかった。

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