炎上の街 Ⅹ
Ⅹ
すでに閉ざされた扉のノブを、拓也が手探りで見つけ、引き開ける。
奇妙な空間が、そこにあった。
奥行きは十メートル以上あるだろうか、仄暗い部屋の突き当たりに、ぽつりと小型エレベーターの扉が見える。そこまでの左右にはスチール製の書類棚がずらりと並んでおり、資料室、あるいは書類倉庫らしく見えるが、天井の照明は奥のエレベーター直前に一つしか見当たらない。かなり大型の円形照明なのに、乳白色のフードは微かな光しか放っておらず、暗すぎて、棚の列が横にどこまで広がっているかは判別できなかった。
それでも足元は確かなので、拓也と真弓は書類棚の間を縫って先に進んだ。
棚の列はエレベーターのほぼ直前まで続き、左右には、人ひとり通れるかどうかの余地しかない。
エレベーターの扉は真新しいが、手元に上下選択ボタンと階数表示があるだけの、低層雑居ビルなみに素っ気ない仕様である。
「……業務用のエレベーターかな」
「でも、ほら、さっきの二人も乗ったみたい」
確かに現在位置を表す赤い電光文字は、『17』から『16』そして『15』と、次々に減算している。あの二つの人影が、この部屋のどこかに潜んでいない限り、すでにエレベーターで下に向かっている。
「追いかけてみようか」
時間差を考えれば、まず無駄足に終わるだろう。
それでも拓也の問いに、真弓はこくりとうなずいた。
拓也は下降のボタンを押した。
ほとんど間を置かず、電光文字が『14』から『15』に変わった。
拓也と真弓は、怪訝な視線を交わした。
一度エレベーターが停まって、誰かが降りたタイムラグが、まったくない。
「きっと、もう十七階で降りてたのよ。だったら、追いつけるかもしれない」
真弓が言い、拓也がうなずく。
この教育委員会があるフロアは十八階。ならば、そうとしか考えられない。
あるいは、あの二つの人影が外の下降ボタンを押して、なぜかエレベーター内では目的階のボタンを押さず、こちらの指示によって逆行し、またここに戻って来るのか――。
やがて、ゆっくりと扉が開いた。
中には誰も乗っていなかった。
外の造り同様に内装も真新しく見えるが、この超高層ビルには似合わない暗灰色である。照明も妙に薄暗い。
瞬時、違和感で歩を進めかねた拓也より先に、真弓が足を踏み入れた。
拓也もすぐに続こうとする。
直後、エレベーター内の照明が消えた。
同時に真弓が鋭い悲鳴をあげた。
真弓が踏みこんだ足の下から、直前まであったはずの床が消えていたのである。
拓也の右腕に、真弓の全体重がかかった。
真弓が拓也の腕にすがっていなかったら、そのまま落下しただろう。
そして拓也が一歩遅れていなかったら、二人とも落下したに違いない。
両手で拓也の右腕にすがり、ああ、ああ、と喘ぎながら、それでも自分の重さに負けてずるずる滑り落ちてゆく真弓を、拓也は全力で引き止めた。
今の中途半端な体勢では分が悪い。
拓也は瞬時に力学的な対処を想定した。
たとえば一対一の綱引き――ただし綱は二本、お互いの両腕だ。
腰を落とし膝を開き、膝の間に伸ばした両手で真弓の両手首を確保し、全体重を尻が床に着くほど背後に集中する――。
そんな一連の動作を同時にこなせたのも、拓也ならではの特性だろう。外の廊下が暗転してから、ずっと著しい違和感の中で最大限の警戒心を保っていたため、驚愕による自失はコンマ1秒もなかった。日頃から体を鍛えているのも幸いした。特に空手は、思考を超えた瞬発力が鍛えられる。
ただ一つ、見切り発車せざるを得なかった穴はある。リノリウムの床とスニーカーの摩擦係数を、どこまで期待できるか――。
ずるりと
しかし真弓の手は放していない。
なぜか青山の陽気な笑顔が心に浮かんだ。
「よ、死ぬときまでラブラブですね、優等生夫婦は」――。
そう、今死ぬにしても、けして不本意な状態ではない。
キュッ、と音を立ててスニーカーの踵が止まった。
エレベーターの外扉の下溝に、ソールのウレタンゴムが食いこんでいた。
幸運――いや、あくまで必然か。
いずれにせよ、それ以上、踵が滑る気配はない。
パニック状態で足をばたつかせている真弓に、拓也はできるかぎり大声で、しかし冷静な口調で叫んだ。
「大丈夫! 僕が引き上げる!」
折り曲げた両足と、その間に突きだした両腕で、なんとか体勢を整える。
大人しくなった真弓を、拓也は慎重に引き上げた。
真弓も両手を拓也の両手に絡ませ、そこだけに力を集中している。
しかし真弓の握力は、すでに疲弊しているのか、拓也が思うより遙かに弱かった。
いきおい、拓也一人で支える形になる。
拓也が踏ん張る両足の間に、真弓の顔、そして肩が現れた。
その時、拓也は安堵するよりも、さらに甚だしい違和感を覚えた。
今、拓也に懇願と切望の眼差しを向けている真弓の背後には、打ちっ放しのコンクリートの壁が、薄ぼんやりと見えるばかりである。
これまで注視する余裕がなかったが、たとえエレベーター本体が消失しても、エレベーターシャフトの内部には、複数のロープや構造鉄骨が存在するはずだ。ロープを必要としない最新鋭のリニアモーター式でも、レールのような構造物は必ずある。
しかし扉の奥には、エレベーターシャフトと同程度の広さの、虚ろなコンクリート面しか見えない。上下になんらかの照明はあるらしいが、山奥の隧道のように、遠く
――幻覚? それとも夢?
一瞬とまどった拓也の隙を突くように、ずん、と手先の加重が増えた。
真弓の顔が、また床の陰に沈む。
これまでの倍近い重量に、二人の両手が離れかける。
真弓の甲高い悲鳴を聞きながら、拓也はぎりぎりと歯を食いしばった。
かろうじて、まだ手は離れていない。しかし、何者かが穴の下から真弓を引いている。このままでは拓也の踵が溝から外れ、二人とも滑り落ちる。
拓也は思考から雑念を遮断した。
これが幻覚や夢なら、主導権は自分自身の深層意識にある。この理不尽な穴に真弓を引きずりこもうとしているのが何者であろうと、心を折らなければ勝てる――。
真弓を見捨てるという選択肢は、もとよりなかった。今、彼が手段を尽くして排除するべきは、この不合理な状況そのもの――正体不明のマイナス要因そのものだった。今握っている手が、真弓ではなく誰の手であっても同じ事だ。赤の他人はもとより、
拓也は獣のように咆えながら、全身の筋力を振り絞った。
真弓の顔が、再び、じりじりと上がってくる。
恐怖に歪んでいても、やはり可憐である。
その可憐な顔の陰から、強烈な異臭が拓也の鼻を突いた。
無論、真弓の匂いではない。
それは拓也の知る限り、動物の腐臭に似ていた。
まだ古い町に住んでいた頃の夏休み、河原の
真弓の両肩に、ぬめり、と黒ずんだ指が現れた。
汚物にまみれたグローブのような
そして真弓の顔の右横から、ぬい、と別の顔が覗いた。
赤黒く膨張し、表皮はなかば溶けてしまっているが、崩れた瞼を内側から押し開いている一対の濁った眼球から、かろうじて人の顔と判別できる。
拓也は真弓に絶叫した。
「見るな!」
しかし真弓は、自分の背中に這い上がってきた何者かを、反射的に見返ってしまった。
声も上げずに、真弓は失神した。
かくり、と真弓の頭がうなだれ、その両手から力が抜ける。
拓也は、自分一人の握力と筋力を頼りに、かろうじて耐えた。
直後、さらに重みが激増した。
肩から腕が抜けそうな加重だった。
真弓の両肩の腐乱した掌に重なって、もう一対の爛れた掌が、ずるりとにじり上がってきた。
右から覗いている死骸の顔よりもさらに膨れあがった、腐った類人猿のような双眸が、左からも拓也を見上げる。
それでも拓也は持ち
いくら増えても幻は幻だ。幻に物理的な重量はない――。
拓也は、自分が握りしめている真弓の手首だけを見つめ、意志の全てを集中した。
その時、狭めた視界の上から、すっ、と別の両手が現れた。
「――!?」
薄暗い中で判然としないが、やけに細い手首である。薄い干し肉を骨に
そんな掌が、骨張った指先を
その主を見上げても、
干からびた十本の
それから拓也の指と真弓の手首の間を一斉に
しかし拓也は、一瞬に消失した加重の反動で、目を見張ったまま背後に吹っ飛んだ。
リノリウムの床で、激しくバウンドする。
激痛を感じる間もなく、拓也の意識は途絶えた。
第一章 【炎上の街】 〈了〉
第二章 【北帰行】に続く
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