炎上の街 Ⅸ
Ⅸ
通路をエレベーターに向かう間も、真弓は上機嫌だった。
「あの二人、つきあってるんだって。別々の高校になってから、かえってラインが増えたりして」
「まあ、お似合いだよね」
真弓の頬が少し赤らんでいるのに、あえて拓也は気づかないふりをした。
中学時代、拓也と真弓が周囲から公然のカップルと思われていた事は、当然、拓也も悟っている。生活指導の教師さえ、不純異性交遊とは無縁の模範的カップルを、鷹揚に見守っていた。
しかし実のところ、拓也は異性への恋愛感情を、これまで一度も抱いたことがない。拓也にとって、女子に限らず全ての人間の容貌や資質は、個々を識別する要素に過ぎなかった。
確かに真弓の彫りの深い目鼻立ちや健康的なプロポーションは、人気のジュニアモデルに引けを取らない。しかも優れた記憶力と理解力を持ち合わせている。やや勝ち気な性格も、わがままや傲慢とは違って、社会的に程良い積極性に見える。
しかし、ならば佐伯沙耶の伏し目がちな一重瞼、大時代的でなだらかな鼻、痩せぎすで直線的な体躯にしたところで、江戸時代の浮世絵師、たとえば鈴木春信の目には、充分に魅力的だったのではないか。春信のモデルたちが、知性豊かな才媛ばかりだったわけでもない。基本的に男尊女卑の時代、自己主張の苦手な日陰の花も多かったろう。全ては個人的な好悪、あるいは時代的な好悪による分別なのだ。
そして拓也には、そもそも好悪という感覚自体が希薄である。中学時代、真弓とのカップル扱いをあえて容認してきたのも、それが最も合理的だったからだ。事実、まだフリーと思われていた頃、傍から見れば誠実そのもので文武両道の拓也は、バレンタインデーの後始末に苦慮していた。不特定多数の女子が相手では、どう対処しても、なにかしらのマイナス要因が残るのは避けられない。
「……私たちも、つきあってるんだよね」
真弓がつぶやいた。
声にわずかな翳りがあった。
真弓は、その翳りを振り払うように、
「ごめん。気にしないで。ちゃんとわかってるから」
卒業式の後で、約束どおり真弓に第二ボタンを渡した時、拓也は、こう告げたのである。
これからは東大受験に向けて全力を尽くしたいから、今までのように度々は会えない――。
実際、進学した男子高は、入学当初から大学受験に向けてフルスロットルだったし、新入生気分など、部活以外では一切味わえなかった。真弓の女子高も、似たようなものだろう。折々にラインのやりとりや通話はあったが、顔を合わせるのは卒業式以来だった。
「でも、ひとつだけ約束して。法学部か経済学部か、志望がはっきり決まったら、すぐに教えてね。私もそっちに行くから」
二人とも現役合格前提の口ぶりだった。
その迷いのなさは、拓也にとっても整合性がある。恋愛感情の有無に関わらず、これから先、彼女以上の異性が周囲に現れるとは考えにくい。優等生の美少女が凡百の大人に育つ例もままあるが、知性派女優や女子アナの先例を見るかぎり、真弓はそのまま開花するタイプに属している。
「今年中に決めるつもりだよ。そうだな――クリスマスイブには」
クリスマスイブというお膳立てに、真弓も笑顔でうなずいた。それまでは、自分も全力で受験に備えるつもりなのだろう。東大の門の狭さは、彼女も承知の上のはずだ。そして拓也同様、自分の価値は頭脳のみならず身体的優位性があってこそと自覚しているから、新体操の部活もないがしろにできない。いくら時間があっても足りないはずである。
しかし、だからこそクリスマスは遠すぎる気がして、拓也は言い添えた。
「――でも、うちの高校、夏休み最後の一週間は夏期講習も休みになるんだ。その時に麻田さんも時間が空いてたら、いっしょにプールとか、海とか行かない?」
拓也が決め球を投げると、真弓は、文字どおり花のような笑顔になった。
その瞬間――。
周囲からすべての光が消えた。
完全なブラックアウト――昼光色のLED照明に長く慣れていた目には、まさに漆黒の闇である。
真弓が拓也の腕にすがりついた。
拓也は即座に言った。
「ただの停電だよ」
「ああ、びっくりした……」
真弓に腕を取られたまま、拓也は実のところ、ただならぬ疑問を抱いていた。
とっさに「ただの停電」と言ったのは、真弓を落ち着かせるための方便に過ぎなかった。
ただの停電であるはずがない。
外からの送電が途絶えても、この規模の近代建築の通路に、完全な暗闇は生じない。非常用電源に切り替わるまで多少の間があるにせよ、蓄電式の光源――天井の予備照明や要所要所に設けられた避難誘導灯、あるいは非常口そのものの表示灯――それらが常に点灯しているはずだ。そもそも通路の先にある展望エレベーターは、扉にも透明アクリル製の部分が多い。夜間ならいざ知らず、昼には必ず外光が漏れこむ。
拓也は数瞬、幼稚園に上がった直後のような、主観と客観の著しい乖離にとまどっていた。
先に、真弓の方が現実的な対処に思い当たり、ポシェットから手探りでスマホを取り出す。
しかし、スイッチを入れても作動しない。
「……電池切れみたい」
拓也もポケットのスマホを出し、
「……こっちもだ」
そう口にしながら、なお疑念がつのる。昨夜フル充電したはずなのである。
依然として漆黒の闇の中、
「……あれ?」
真弓が
拓也がそちらを見ると、真弓の横顔が、仄かに闇に浮かんで見えた。
真弓は拓也に身を寄せたまま、背後を振り返っていた。
微かな光が、後ろから差している。
拓也も彼女の視線を追うと、闇の中に、細長い光の縦線が見えた。
光の線はしだいに幅を広げ、やがて、ベージュ色のドアの内側が現れる。
今立っている場所と、先ほど退室してきた教育委員会の中ほどで、誰かが通路横の扉を開いたらしい。
目を凝らすと、扉の奥に漂うように消えてゆく、二つの人影が見えた。
真弓が拓也の腕を引いた。
「沙耶ちゃんと……お母さん?」
「え?」
夏服の女学生と、地味なワンピースの中年女性――確かに、それらしい二人連れである。
しかし拓也は
「でも、佐伯さん、あんなに髪が長かった?」
「たぶん。春に電話したとき、校則が緩いから髪を伸ばしたいって言ってたの。それに、あの制服、沙耶ちゃんが上がった高校の制服とそっくり」
拓也はまだ半信半疑だったが、いずれにせよ今、明るい場所はそこにしか見当たらないのである。
合意を交わすまでもなく、拓也と真弓は揃ってそちらに足を向けた。
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