炎上の街 Ⅳ


     Ⅳ


 展望エレベーターに向かう青山と別れ、拓也は予定どおり市政専用のエレベーターに乗った。

 ドアが閉まる間際、三十代半ばと思われる男が一人、するりと同乗してきた。

 エレベーターが動き始めても、男は目的階のタッチパネルに手を触れず、達也に声をかけてきた。

「哀川拓也君だよね」

 見ず知らずの男にフルネームで呼ばれ、拓也は声を返すより先に、男の風体を窺った。

 同じ階に行くなら、市教の職員だろうか。それなら拓也の顔を知っている可能性もある。しかし、中学でいじめ問題の調査を受けた職員たちとは明らかに別人だし、服装もワイシャツではなくラフなポロシャツとデニムのスラックス、肩にはカメラバッグのような鞄を下げている。

 不審人物――そう判断した拓也は、あえて無邪気な笑顔で答えた。

「こんにちは。どこかでお会いしましたか?」

 男も馴れ馴れしい微笑を浮かべ、

「なるほど、賢明な対応だ。怪しい相手には正体をぼかし、しかし不快感を与えず、あわよくば相手の正体を探る――噂どおりの優等生だな」

 男はバッグの横ポケットから、名刺を取り出した。

「でも、心配御無用。私は怪しい者じゃない」

 名刺には『週間文潮 報道部 兵藤信夫』とあった。

 週刊文潮は、例の暴露記事で大炎上のきっかけを作った有名週刊誌である。

 まだ腹を割るべき相手ではない――拓也は名刺に手を出さず、曖昧な笑顔を保った。

 兵藤は馴れ馴れしい笑顔のまま、名刺を拓也の胸ポケットに押しこみ、

「傍迷惑なマスゴミが現れやがった――君はそう思っているかもしれないが、私は自分を外科医の同類だと思っているよ。化膿した傷を放っておいたら、いずれ骨まで腐る。自分の体だけなら自業自得だが、社会のうみは話が別だ。放っておいたら、いずれこの町、この国、そして世界中が腐る」

 緩んだ笑顔に似合わず、臆面もない正論である。

 拓也は故意に偽悪的な言葉を返した。

「いっしょに腐った人の方が、かえって得をする世界も多いですよね」

 兵藤の正論が、どこまで本音か知りたい。

 拓也自身は、社会的な不正は確かに正すべきだと思っている。いわゆる正義感からではない。それが理論的に正しい功利主義だからである。世間では自分の利益ばかり追求する人間を功利主義者と呼ぶケースが多いが、正確には、社会全体の利益を追求するのが功利主義なのだ。

「おいおい、君は霞ヶ関のキャリア組志望なんだろう? 清濁あわせ呑むのはいいが、口だけは清く正しく動かしといたほうがいい」

 兵藤は、あくまで飄々ひょうひょうと、

「確かに一介の市民、たとえば君や私が、ヒーローに変身して世界を救うのは夢物語かもしれない。でも『ここがんでますよ』くらいは、まあ、ひとこと言っておきたいじゃないか。それで飯が食えて、女房や子供を養えるんなら、なおさら黙ってちゃ損だ」

 この人は理詰めの偽善者、つまり自分に近い大人らしい――。

 そう判断した拓也は、ある程度、腹を割って話すことにした。

「どこで卒業アルバムを手に入れたんですか?」

 自分の顔と名前のみならず、将来の希望まで知っているなら、中学で全卒業生に配られたあのハードカバー冊子、あるいはそのコピーを熟読したはずだ。

「入手先は言えないが、君の同級生の顔と名前、各自のコメントは全部覚えたよ。さっき話してたのは青山君だよね。将来の希望は、父親と同じ宮大工。他の学校関係者――担任や教頭や校長の顔も、見ればすぐにわかる。ただ、教育委員会サイドの人間はガードが固すぎて、なかなか実態が把握できない」

 兵藤は、バッグから一つの腕時計を取り出し、

「よければ君に、これをはめて行って欲しかったんだが――まあ、君の立場では無理だろうな」

 拓也は即答した。

「はい、無理です」

 拓也の見たところ、それはおそらくアナログウォッチ型の隠しカメラである。今日の個別聴聞の、動画と音声を記録したいのだろう。しかし、さすがに拓也としては協力できない。万一流出でもしたら、自分の将来が消える。

「あの記事は、あなたが書いたんですか?」

「いや。国会で問題になった後、私が追跡取材を任されたんだ」

「文芸思潮みたいな大会社の人が、そんな小道具まで使うとは思いませんでした」

「今時の出版社は、部数を増やすためなら、どんな危ない橋だって渡るよ」

「でも、明らかに違法行為ですよね。ほんとに文潮の方ですか?」

 拓也が正論で畳みかけると、

「君はまったくお利口さんだな。でも、その名刺は偽造でもなんでもない」

 兵藤は苦笑して、

「ちなみに、こんな名刺も全部本物だ」

 他に三枚ほどの名刺を、拓也に差し出す。

 それぞれ出版社名と部署名は違うが、姓名は同じである。

「いわば掛け持ち自由の社員だね。しかし非正規社員じゃない。それぞれの会社と、正式な雇用関係を結んでる。ただしあくまで成果給、会社都合でいつ解雇されても異存なし――そんな正社員だ。まあ仕事自体はフリーライターと大差ないが、取材先での信用が違う。そして取材時に危ない橋を渡り損ねたら、会社はすぐにトカゲのシッポを切れる」

「……記者にも色々あるんですね」

「学生だって色々だろう? 君のような優等生もいれば、例の三人組みたいなワルもいる。社会的にはみんな同じ高校生、少年Aや少女Aだ」

 この人と繋がれば、デメリットよりメリットが期待できるかもしれない――そう拓也は判断した。

「僕はその腕時計を使えませんが、青山なら、たぶん喜んで使うと思いますよ。上のマックにいるはずです」

「しかし、彼は少々、ヤンチャっぽすぎると言うか――」

「大丈夫です。池川や杉戸とはしつけが違います。お父さんが人格者で、あいつも親を尊敬してますから。見かけはヤンチャぶってますが、機転や要領の良さも半端じゃありません。僕が保証します」

 それに青山なら、万一そんな行為が露見しても、それを今後の勲章にできる立ち位置だ。

「君の保証なら、賭けてみる価値はありそうだな」

「はい。でも、もし一緒に江崎がいたら、必ず青山が一人になってから声をかけてください。江崎は一欠片ひとかけらも信用できません。たぶん池川や杉戸に近い根性です」

「なるほど、了解した」

 そこでエレベーターの扉が開き、十八階の事務的な通路に出る。

「いずれ、ちゃんとお礼するよ」

 そう言って、横の展望エレベーターに向かう兵藤を、拓也は呼び止めた。

「あの、兵藤さん」

「おう?」

「お礼の先渡し、ちょっといいですか?」

 市教に呼ばれた時刻には、まだ間がある。幸い周囲に他の人影もない。

「あの件に関わった人たちが、何人も行方不明になってるって聞いたんです。もし、そちらで何か取材してたら――他の誰にも話しませんから」

 それから、拓也が知る限りの噂を伝えると、兵藤は少々考えこんだのち、

「……君は信用できそうだな。交換条件と言っちゃなんだが、今後の協力も期待していいよね? アドレス教えてもらえる?」

「はい」

 互いのスマホで、個人アドレスと電話番号を交換する。

「じゃあ、これから私がうっかり独り言をいうから、君は、たまたま耳にしてくれ」

 そんな冗談めいた言葉を、兵藤は真顔で口にした。

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