炎上の街 Ⅲ


     Ⅲ


 ビル最前面の回転ドアを抜けると、別世界のような冷気が拓也を包んだ。

 外の猛暑に対抗するため、入口のエアカーテンも最高出力である。

 なかば熱暴走に陥りかけていた脳細胞が瞬時に冷めてゆくのを、拓也は物理的に感覚した。

 文字どおりのクールダウンだった。

〈――そう、梅雨のさなかに始まった全国的な大炎上を思えば、また呼び出されるのは理の当然だ。夏期講習のテキストなど、受け取った日の内にざっと目を通し、さほど難物ではないのを見極めている。一日くらい休んだところで、遅れをとるはずがない――〉

 肉体的な快不快によって、あっさり反転してしまう精神というものの愚直さを、拓也は改めて経験則に刻んだ。直前まで捕らわれていた違和感や倦怠感は、やはり『感情』ではなく、単なる肉体的苦痛の反映だったのである。

 そもそも人間の感情とは、知性のバグにすぎないのではないか、と拓也は思う。無ければ無いで一向にかまわない。

〈――そこが炎熱の砂漠だろうと酷寒の極地だろうと、知性さえ保っていれば合理的に対処できる。肉体が生存限界に達し、どうしても死ぬのが合理的な状況なら、合理的に死ぬだけのことだ。まだ十数年しか生きていない自分が、充分な知性や合理性を備えていないのも承知の上だ。常に現時点でのフルレンジを自分自身に課していればいい――〉

 拓也は確かな歩調を取り戻し、エントランスホールの自動ドアに向かった。


 オープニングセレモニーから五年目の夏、一階正面のホールは平日の開店直後にも関わらず、多くの市民で賑わっていた。

 六階までのショッピングモールは吹き抜け構造で、時間的に余裕のある買い物客は、ホール中央の大型エスカレーターに流れてゆく。

 しかし官民複合ビルだけに、来客の多くが、ホール横に設けられた六基の大型エレベーターを利用する。ショッピング階専用が二基、市政関係階専用が二基。残りの二基は、マンション階以外の全階に止まる展望エレベーターで、外壁に張り出した三方ガラス張りの構造を目玉にしており、最も利用者が多い。

 ちなみにバックヤードにも複数の業務用小型エレベーターがあるし、ビルの横手の多層式地下駐車場側には、マンション入居者専用のエントランスとエレベーターホールが、独立して設けてある。

 県都に隣接しているとはいえ、人口十万少々の地方都市としては異例の規模である。それだけに、十数年前の建設計画発足時から竣工に至るまで、官民双方にからむ生臭い利権問題が何度も取り沙汰されたが、いざ完成してみれば、その威容と利便性に市民の誰もが納得し、数々の金銭授受の噂など、とうに忘れ去られていた。

 拓也は、待ち人もまばらな市政関係のエレベーターに向かった。

「おい、拓也」

 展望エレベーターを待つ客たちの中から、親しげな声がかかった。

「おまえも今日呼ばれたのか」

 中学時代の同級生、青山裕一だった。

 白シャツに学生ズボンの拓也とは対照的に、スケボーの似合いそうなTシャツとハーフパンツ姿で、持ち物も小ぶりのウエストポーチひとつだけ、とても同じ教育委員会を訪ねる高校生には見えない。進学先も、ほとんど生徒を選ばない、質より量の全国チェーン的な私立高である。

 それでも中学時代は、お互い気安く会話していた。立ち位置が違いすぎて利害関係がまったくかぶらなかったし、体育の実技等では対等に渡り合えた。何より青山の開けっ広げな全方位外交が、拓也の学級把握にも大いに貢献したのである。

 青山は拓也に寄ってきて、

「おまえは何時から?」

「十時半」

「じゃあ、おまえがトップだな。俺は十一時。アイウエオ順らしいな。前のクラス全員、時間と日を分けて呼ばれてる。その場で口裏を合わせないように、一人一人確かめるってことだろ? 市教の連中、今度は相当気合いが入ってるぞ。なにしろ大臣様に怒られちまったからな」

「同じことだよ。どうせ、あの時の話を繰り返すだけだ」

「そうそう。マジ俺ら、ただの部外者だもん。――あと、念のため」

 青山は、他の客に聞かれないように声を潜め、

「おまえ、例の写メ、ちゃんと消したよな」

「ああ。最初に言っただろ。僕は開いたとたんに消した。あんな間抜けな誤爆で、いじめ仲間にされちゃかなわない」

 すると青山は、意味ありげに頬笑んで、

「あん時と同じセリフかよ。わざわざ俺に、ツッパリ通すことないぞ。俺はチャラいけど、あんがいバカじゃない」

 確かに拓也の自己保身的な言葉は、必ずしも本心ではなかった。誤送信された男子たちが秘かに集まった時、写メの消去と他言無用を促すために、彼らの多種多様な性格を考慮して、誰にでも共通の『保身』と『打算』を強調した言葉だった。

 男子たちの中には、軽はずみな目立ちたがり屋もいれば、幼児的な正義中毒者もいた。佐伯沙耶をと呼んで軽んじる者もいた。彼らを放置しておけば、背景事情も明らかではない内から、視座の異なる噂が学級中に広まってしまう。それを避けるため、拓也は皆を画像消去と沈黙に誘導したのである。

大勢おおぜいに言った立前たてまえは、その中の一人が相手の時も、話を変えないことにしてるんだ。相手が馬鹿じゃない奴でもな」

「なんか、うちの親父に説教されてるみてえ。他の相手に聞かれたら、そっちに信用されなくなるってことだろ」

 青山裕一の父親は、宮大工の棟梁なのである。

「ああ。世の中、腹芸と本音の区別がつかない、真面目な馬鹿だって多いからな」

「ま、俺も親父なみの腕になれたら、そうするさ。で、それはそれとして――」

 裕一は、真顔になって言った。

「実は、消してない奴がいたんだよ」

「まさか。あの時、みんな一斉に消したはずだろ」

「こっそりコピーを隠してたらしい」

「誰なんだ、そいつ」

「エロ崎。あいつ、マジにスケベだから。こないだ念のため確かめたら、しっかり保存してやがった。その場で消させたよ」

 話に出たエロ崎こと江崎は、青山とは親しいらしいが、拓也は事務的にしか口をきいたことがない。そんなニックネームが定着するだけあって、ネットのアダルト動画に夢中な生徒だった。愛嬌があればまだいいが、いわゆるセクハラ親爺のように下品なのである。

 拓也は呆れて言った。

「救いようがない奴だな」

 江崎の場合、保身より性欲が大切らしい。

「まったくな。おまけにあいつ、口も軽いし。今日は俺の次に呼ばれてるから、その前に釘を刺しとくつもりなんだ。これから上のマックで会う約束してる」

 青山の言に、拓也もうなずいた。

 無論、教育委員会が全員のスマホをチェックするはずはない。そもそもスマホを含めて、手荷物は事前に受付に預けるよう指示されている。それでも念を入れるに越したことはない。

「だいたい、いじめた三人組だって、あんなひでえ証拠残さなきゃ『ちょっとからかっただけ』で済んだんだよ。LINEで悪口言うくらい、今どき珍しくもねえだろ」

 青山は苦笑いを浮かべ、

「ま、どっちみち部外者の俺らとしちゃ、知ったこっちゃねえけどな。誰が何人行方不明になろうが関係ねえし」

 誰が何人、という言葉に、拓也は眉をひそめた。

「僕も妙な噂を聞いたけど、本当に、そんなに大勢いなくなってるのか?」

「いや、俺もほとんど噂で聞いただけなんで、よくわかんねえ。でも、あのDQN三人組が消えたのは確かだな。マジに夏休み前から学校に出てきてねえし」

「そうなのか……」

 いじめ事件の被害者である佐伯沙耶は、卒業を待たずに、市外に転校している。

 転校した当初は、拓也が励ましのメールを送ると短い返信があったが、あの記事が発表されてからは、一度も連絡がとれない。

 学校側の当事者である校長は春に定年退職し、教頭は病気療養を理由に休職中、担任教師は人事異動で他校に赴任した。おそらく市教が意図的に異動させたのだろう。

 一方、加害者側の三人は、青山と同じ私立高に進んでいる。

 池川光史、杉戸伸次、そして犬木茉莉まり――。

 三人とも成績は中位で、けして劣等生ではなかった。しかし親が甘やかしすぎたのか、社会常識は最底辺に近かった。とくに犬木茉莉は、男子たちの中でもとりわけ素行の悪い池川や杉戸、さらに他校のヤンキーや年上のハングレと遊んでいることを、一種のステータスと心得るほど軽薄な女子だった。

 いじめ現場の写メを他校の悪仲間に送る際、同級の男子数人に誤爆したのも茉莉である。しかし自分では、その失敗に気づいていないらしい。のちにネットで大炎上した動画も、元々は彼女が悪仲間限定のSNSに上げ、それが巡り巡って拡散したと噂されている。

 青山は訳知り顔で話を続けた。

「まあ、俺としちゃ、三人つるんで家出したか、親が世間体を気にしてどこかに隠したか、そんなとこじゃねえかと思ってる。もしかしたら学校や市教も、陰で絡んでたりしてな」

「いや、さすがに、それはないだろ」

 拓也はそう返したが、内心、一抹の疑念はあった。

 佐伯親子は、身寄りのない母子家庭である。母親が複数のパートを掛け持ちして、なんとか生計を立てていると聞く。拓也は幼い頃、町内で佐伯家の父親と何度か顔を合わせた記憶があるが、町が消えた後は一度も見ていない。職場の金を横領し、不倫相手と駆け落ちした――そんな話を拓也が聞いたのは、中学に上がった後である。無論、佐伯母子の口からではなく、周囲の良からぬ噂としてだった。

 対して加害者三人の父親は、職種こそ違え、この地域社会の中枢に近い要職に就いている。県下有数の不動産会社社長、複数のシネコンや大型遊戯施設を束ねる興行グループ会長、そして現職の県会議員――甘やかされた子供がどんな不始末をしでかしても、親の地位と権力に変わりはない。

 蔦沼市は、そんな忖度そんたくが、官民双方を繋ぎかねない土地柄なのである。

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