炎上の街 Ⅱ
Ⅱ
実際、拓也は物心ついた頃から、『感情』らしい心の動きを自覚したことがない。一般に『情感』あるいは『情緒』と呼ばれる感覚が、生まれつき極端に希薄なのである。
人並み外れた記憶力と知能に恵まれ、誰よりも早く言葉を覚えた一方で、幼児らしい無邪気な言動は、ほとんど見せなかった。無論、肉体的にはただの幼児だから、肉体的苦痛を覚えれば泣くし、解消されれば泣きやむ。しかし精神的な意味での痛みや和みは、ほとんど自覚していなかった。
一人歩きできるようになってからも、自分が喜怒哀楽や好悪といった感情に
拓也の両親は、蔦沼市に隣接する県都の国立大学で共に
しかし、幼い拓也の問題行動は、ほどなく消え去った。感情に目覚めたわけではない。不特定多数の子供や職員と触れあう内に、他人の情動や人間関係の機微を知識として学習し、判断力で対処したのである。同時に、周囲が期待する無邪気な子供らしさのパターンも学習し、必要に応じて表現できるようになった。感情に邪魔されない分、かえってうまく立ち回れたと言ってもいい。当然、周囲の不審感は霧消し、幼稚園の職員も、両親も胸を撫で下ろした。
小学校入学以来、拓也は周囲の評価や嫉妬を考慮し、ふだんの言動のみならず知能テストや学力テストの点数さえ、意図的にコントロールするようになった。出すぎた杭はかえって打たれる、そんな社会的現実を学習したのである。子供社会では学業成績以上に運動能力が問われることも悟ったが、野球やサッカー等のチームプレイはまだ荷が重く感じられ、和道流の空手教室に通い始めたのもその頃である。結果、周囲からは文武両道の模範的生徒と認められ、学級委員長や生徒会長も、そつなくこなしてきた。
中学時代、同級生の間で、サイコパス診断が流行ったことがある。遊び半分のオカルト雑誌に載った記事だから設問も甘く、拓也は典型的なノーマルと診断され、級友たちも素直に納得していた。しかし帰宅後、自室のパソコンで学術的なサイトを検索し、あえて本音で診断を受けると、90パーセントの確率で『PPI―Ⅰ型サイコパス』、そんな結果が出た。
本質的には狡猾で冷淡。しかし認知能力や言語能力に秀でており、攻撃性や衝動性を自己制御できる。周囲には魅力的な人物と信じられているが、邪魔な相手を排除するためには手段を選ばない――。
拓也は苦笑しながら、異議なし、と受け入れた。
ならば自分はその傾向を、合理的に、合法的に生かすだけのことだ。社会的な成功者はしばしば『PPI―Ⅰ型サイコパス』であると、そのサイトを運営する世界的な心理学者自身が明言している。排除するほどの邪魔者は今のところ見当たらないが、そもそも手段を選ばずに排除するより、とことん手段を選んで懐柔するほうが、よほど合理的ではないか――。
そんな拓也にとって、先のいじめ問題を見過ごしてしまったことは、中学生活における唯一の失点だった。
偏差値や内申書によって選別される高校とは違い、単に地理的な区分で生徒を寄せ集める市立の小中学校に、様々な
しかし――。
あの加害者三人の品性が、そこまで腐っていると悟れなかったのは、自分の未熟に他ならなかった。確かに悪ぶってはいたが、万引きや恐喝で補導される他のクラスの不良よりは、まだ小者だろうと看過してしまった。
被害者への気遣いも、今にして思えば、まだまだ足りなかったと思う。
佐伯
理屈が通らない不良たちを、
ちなみに中学の部活空手は、寸止めが原則のいわゆるスポーツ空手だが、拓也はOBの極真空手有段者から、フルコンタクトの実技も一通り伝授されている。私情による暴力は
しかし――。
今となっては、とりあえず事態の進展を静観するしかない。
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