第一部 超高層のマヨヒガ

第一章 炎上の街

炎上の街 Ⅰ

長編小説 天壌霊柩 第一部 ~ 超高層のマヨヒガ ~



  第一章 炎上の街


     Ⅰ


 蔦沼つたぬまタワービル前の停留所でバスを降りると、瞬時にサウナのような熱気が哀川あいかわ拓也たくやの全身を蒸しあげた。

 午前十時の数分前、北国の太陽は、まだそれほど高くない。それでも市内唯一の超高層ビルは連日の熱気を蓄積して、陽炎のように揺らめいている。背後に連なる山々の頂には白く雪が残り、山裾には川も流れているはずなのに、山風や川風は少しも感じない。最前まで乗っていたバスの冷房さえ、天からの加熱に負けていたほどだ。

 ビルのエントランスに向かって、前庭を兼ねた小公園を横切る間にも、拓也の白シャツの背中には、ぬるま湯を浴びたような汗染みが広がっていった。

 こんな真夏には、汗の目立たない色柄のTシャツを着たいところだが、拓也が通う男子高の校則では、官公庁訪問の際は制服着用が必須と定められている。さすがに手荷物までは規定されていないので、今日は学生鞄ではなく小ぶりのバックパックを携えているが、背中の汗で背負う気になれず、拓也は鞄のように手に下げたまま歩を進めた。


 蔦沼タワービルは、タワーシティと称される真新しいビル街の中核を成す、官民複合型の超高層ビルである。

 地下三階から地上七階までは大手流通グループによるショッピングモールが仕切り、八階から二十階までが蔦沼市役所と市政関係の公共団体、二十一階から四十五階は大手ゼネコンの子会社が管轄する高級分譲マンション、そして四十六階から最上階の四十八階までが展望ロビーを含む各種外食産業階――そんな構成になっている。地上二百四十メートルに及ぶ威容は、ほぼ東京都庁の第一本庁舎に匹敵し、蔦沼市内に他の超高層ビルが一棟も存在しないだけに、その屹立感は東京都庁を遙かに凌いでいた。

 その十八階にある蔦沼市教育委員会から、今日の聴聞会ヒアリングに拓也も出席するようにと学校に連絡があったのは、つい先週、終業式の直後だった。

 なぜ半年以上も前の問題で、夏休みの貴重な一日を、今さら無駄にしなければならないのか――。

 不合理にも程があると思いながら、拓也はハンドタオルでせわしなく顔を拭った。

 中学三年の冬、底冷えのする放課後の教室で、校長と教頭と担任教師、そして蔦沼市教育委員会の教務係と称する二人の男から、小一時間ほど話を聞かれたことがある。拓也の他に、同級の男子も数人同席していた。

 拓也たちは、秋に修学旅行の部屋割りを相談した際、一時的に問題の男子たちとLINEグループを組んだけで、彼らが特定の女子をいじめていることなど少しも知らなかった――それで済んだはずである。高校に進学した今になって、また呼び出されるいわれはない。まして拓也が進んだのは、県下一の東大進学率を誇る進学校である。夏休み初日から、全生徒が大学受験に向けて連日の講習を受けている。一日たりとも後れを取りたくない。

 そもそも女子生徒の母親が学校にいじめを訴えた時、形ばかりの聴き取り調査をしただけで内々に話を握りつぶしたのは、学校と教育委員会そのものではないか。

 あのときおおやけに白黒をつけておけば、なんの後難もなかった。

 半年も後になって『蔦沼市立中学 悪質ないじめ事件を黙殺 教育委員会ぐるみの隠蔽か』などと、有名週刊誌にスクープされることもなかった。さらにその直後、いじめ現場の動画がネットに流出し、国会で文部科学大臣が市教に再調査を要請するほど、全国的に大炎上することもかったのだ――。


 エントランスに近づくにつれて、拓也の足は、いよいよ重くなった。

 タワービルを見上げると、拓也に向かってのしかかるように、明らかに傾いている。

 無論、それが高すぎるための錯視であることは理解できるが、中学の修学旅行で見上げた東京の超高層ビル群とは違い、そんな錯覚を起こさせるほどの建築物がこの土地に存在すること自体、いかにも不自然に思われる。今歩いている小公園にしろ、いかにも人工的な造園や幾何学的なオブジェなど、あまりに都会的すぎるのではないか。

 再開発以前、このタワーシティ一帯は、雑然とした下町にすぎなかった。せいぜい二階建ての木造家屋が、入り組んだ路地を挟んで密集し、昭和の中頃に建てられた棟割長屋状の平屋さえ、少なからず残っていた。昭和レトロといえば聞こえはいいが、一軒が小火ぼやを出したら町ごと灰になりかねない、過去の遺物のような町だった。拓也は、まさにその町で生まれ育ったのである。タワービルそのものの住所と、拓也の記憶にある生家の住所は、町名のみならず丁目の数字までが一致している。しかし小学生時代のなかばに地域一帯の再開発が始まり、当時の町は道筋ごと跡形もなく消滅してしまった。

 十六歳になったばかりの拓也にとって、幼い頃の生活が、さほど恋しいわけではない。今住んでいる郊外の新興住宅街と、冷暖房完備の家のほうが遙かに快適だ。市内のあちこちに分散した昔の住民たちも、充分以上の移転補償で、むしろ生活は潤ったはずだった。

 とはいえ少なくともあの頃は、北国の山々と麓の河川敷が粗末な家々を包みこむようにして、町の大気を自然に潤していた。たとえ真夏でも、ときおり心地よい涼風が、路地の奥まで吹き渡ってきた。

 しかし今、拓也は熱帯雨林のように澱んだ都市熱の底を、超高層の陽炎に向かって、マリオネットのようにぎこちなく歩いている。


 汗を含んだハンドタオルを、エントランス前の植えこみに向けて濡れ雑巾のように絞りながら、ふと拓也は思った。

 今、自分が抱いている違和感や倦怠感は、もしかしたら『懐旧』なのだろうか。『感情』と呼ばれるものの一種なのだろうか。自分がこれまで一度も自覚したことのない、『情緒』あるいは『情感』と呼ばれる心の綾なのだろうか。

 年齢的にも、その可能性はありそうに思える。

 たとえば『思春期』――多くの級友たちが、小学生から中学生へと移行するにつれて一際ひときわ不合理な情動を見せ始めた、心身の羽化とでも言うべき成長期――そんな転機が、自分にも巡ってきたのだろうか。

 ならば自分は生まれて初めて、他の級友たちと同種の、ノーマルな人格に変わりつつあるのかもしれない――。

 そんな自問を人前で口にしたら、おそらく鼻持ちならない自意識過剰、あるいは異端を気取った中二病と揶揄やゆされるだろう。

 しかし拓也にとっては、きわめて客観的な自問だった。

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