第5話 お仕舞

「さっむぅぅぅ……。もう帰らへん?」

 町外れの森の中。もう数十回目の『もう帰らへん?』。

「だって、もう、ホンマ、あかんって……もう、これは。これはほんまアカン。なぁ、ほら見てよ。ほら、この手。かじかんで上手く動かへんもん」

 先生が震えながら指を鳴らすと、かすれた音ともに青い火花がパチパチ飛んだ。いつもは白く綺麗な手が寒さのあまり、赤を通り越した紫色になっている。

「ハァー、こらアカンわ。帰ろ帰ろ。

 だって、もう何人も魔法使いを殺してる魔物やろ?さすがのボクもこんなんでやったら絶対無事じゃ済まへんわ」

 モゴモゴぼやいて両手に白い息をぶわーっと吹きかける。それで少しは温まったらしく、長い指は淡い桃色に色づいた。

「ボクも氷の魔法が使えたら、こんな寒さは屁でもなかったんやけどなー」

「すみません、まだ他人にかける魔法は得意じゃなくて……。

 というか、いつものローブだけじゃなくて、もっと厚着すればよかったんじゃないですか?」

「いや、すぐ焦げるから、あんまり着込めへんねん。ほら、これは昔焦げた跡」

 彼はローブをバサッとめくり、うっすら焦げた裏地を見せる。その拍子にポニーテールがピョコンと跳ねて、柔らかな香りがフワッと鼻をくすぐった。チラッと脇下から覗く腹斜筋も相まって、昨夜のお風呂を思い出した。

「えっ、何で赤くなんの?えっち?!」

「ち、違いますよ!えっと、その、そういえば、あの情報屋さん。彼女も魔法を使われるんですか?」

「あぁ、ようわかったなぁ。あの人も炎使いやで。大昔にコンビ組んでたこともあったんやけど。急にどうしたん?」

「いや、あの人も露出が多くて、髪が長かったから……」

「そうそう、炎使いは髪の毛に魔力を溜めるからなー。よう覚えてたやん!氷使うようになってしもて、ボクの教えたことなんて、忘れてしもたかと心配してたわ」


 ……そんなわけない。


「まぁ、今はキミだけの先生や。思う存分甘えたまえ!」


 いつの間にか、辺りは大分暗くなっていた。黒いローブの先生が森の闇に溶けてしまいそうな気がして、月の道を歩かなかったことを少し後悔した。


 それでも、僕は天を仰いで息を吐く。先生のみたいに白くはなくて、少し寂しい気持ちになる。


「ありがとうございます、先生。それではお言葉に甘えさせていただきます」


 片手を掲げると、バーッと巻き起こる白い吹雪の竜巻。先生の言葉を待たずに一気に包み込む。真っ白な風は、掌をぎゅっと握り締めれて振り下ろすと、パチンと弾けた。


「……あーぁ、強なったなぁ」

 氷の鎖で両手を頭上に縛り上げられ、無防備な姿の先生。それにもかかわらず、いつも通りののんびりした口調で言った。


「……いつから気づいていたんですか?」

「そんな可愛い角をお風呂の中でまでつけてる人間は、ボクの知る限り、キミくらいやしなぁ」

 先生が息をふぅーっと吐くと、暖かい風がどっと押し寄せた。深く被った帽子が落ちて、左耳上の渦巻く角が露になる。

 あのときはちゃんと隠していたはずなのに。

「それにボクはキミの先生やで?」

 微笑む瞳はとても深い光が灯っていた。


 ――僕の気持ちなんて知らないくせに。

 その言葉を飲み込んで、ゆっくり大きな息を吐く。辺りの熱を奪っている僕の息は今や霧みたいに白く漂った。


『魔物の幼体は魔法使いの子どもと見分けがつかない』

 そのことを知ったのは、自分の身体が第二次性徴を迎えたときだった。

 洗髪のときにみつけた、癖毛の奥の固く冷たい小さな角。触って裂けた手から滴る血の赤を僕は未だに忘れられない。

 初めの頃は隠すために、ずいぶん苦労した。髪を伸ばして角の上でくくってみたり、包帯を巻いて怪我のふりしてみたり。結局、帽子で隠していたけど、角の冷気で頭痛がしたり、霜がついて髪が傷んだり、結構いろいろ大変だった。

 ただ、そのうち角が出るのは主に夜遅くだけになっていた。それは魔物の活発な時間。

 角以外、僕の身体は人間だけど、夜の闇は僕の心を落ち着かせてくれた。昼間も角が絶対出ないわけではなかったから。


――――――――――――――――――――


「今夜はもう帰らへん?」


 白い頬を煤で汚した先生。身体の自由を奪っても、僕の魔法は全部いなされ、服と肌を汚すことしかできなかった。

「いっぺん、晩御飯食べに帰って、それからゆっくり話しよ?」

「そう言っても、結局ご飯つくるのは僕じゃないですか!」

 いつも杖代わりに使っている大斧を先生に向かって振り下ろす。先生はため息まじりに頭を振って、ポニテで自分を縛る鎖を切り裂くと、斧を両手で白刃取った。

「ははは、たしかにせやな!」

 そして、両手の熱で斧を焼き融かし、足を払って、僕を地面に押し倒す。


「ほな、今夜は特別にボクの手料理ご馳走するわ」


 ……土と草の焼ける香りがした。

 気づくと、先生の顔が僕の目と鼻の先にあった。僕に覆い被さるように地面についた手からは白い煙が立ち上っていた。

「それじゃアカンかな?許してくれへん?」

 少し荒い彼の息が僕の頬を温める。先生はいつもズルい。だから。


 今日だけは先生の言うことなんて聞いてやらない。

 僕はぐっと彼の頭を両手で掴んで引き寄せて、その緩んだ口を僕の口で塞いだ。魔力を込めて目をつぶると、彼の髪ゴムが弾ける音が聴こえた。

 豊かな髪に包まれるのを感じる。胸の奥から熱い何かこみ上げてくる。


 きっとこれが愛だと思った。それは肺も喉もあっという間に焼け焦がして、僕の世界をすべて奪う。光も音も塗り潰される。

 苦痛しかない僕の身体を誰かがぎゅっと抱き締めた気がした。絶望にも似た幸福の中で魔物を見つめる深い瞳を思い出す。

 ――髪を下ろした先生が僕のことを抱き締めていると嬉しいなぁ。

 昨夜のお風呂の香りを思い出し、僕の意識は薄れていった。

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