29:遺書
数週間後――
久しぶりに
『結局ね、別れることになったよ』
「そっか……。でもま、結果が出りゃ色々動きようはあるでしょ」
コツコツとブーツが石畳を叩く音と一緒に俺は答えた。あまり年末の忙しさを感じない。空気は冷たいけれど、陽は暖かかった。
『そうだね。年内にはなんとかしたいって言ってたからすぐにでも動くでしょ。……色々悪かったわね』
「姉ちゃんと
『あたしが一人暮らしする。……多分あたしは
色々と話し合って決めたことなのだろうし、人様の家の事情に首を突っ込むつもりがないことは今も変わらない。美朝ちゃんと美潮姉ちゃんにとって悪い結果にならなければ、俺はそれで良い。叔父さんのことも清美叔母さんのことも、俺には正直なところどうだって良い。
「ってことは美朝ちゃんが叔父さんと一緒ってことか」
『そうね。元々清ちゃんの不倫が原因だもん。アサが清ちゃんのとこ行ったって可哀想なだけよ』
「そうだね。とりあえずは安心したよ。親が揉め続けてたら子供はやっぱり不安だしさ」
『しばらくは皆ナーバスになるかもしれないし、まだあんたには迷惑かけることになるかもだけどさ、あたしが独り暮らしすればアサの避難場所が一つ増える訳だし』
「だね。美潮姉ちゃんもあんま無理しないようにね」
多分この件で一番心に負担がかかったのは美潮姉ちゃんと美朝ちゃんなんだろうし、美潮姉ちゃんは両親の間に立たされていたのだから。
『うん。またんじゃ連絡するよ。とりあえず伯母さんにも知らせないといけないしね』
「そうだね」
『そういやアサのこと振ったんだって?』
意外なところから意外な言葉を聞く。俺は一瞬蹴っ躓きそうになった。
「本気じゃないでしょ」
苦笑してそう答える。完全にそうだとは言いきれないと判っても。恋愛の対象に、美朝ちゃんがなり得ないと思う気持ちは今も変わらない。
『そんなもん判んないわよ。イトコ同志だって結婚はできんのよ』
「そういう問題じゃないし」
全ての可能性を否定する気はないけれど、奇妙な期待もしたくない。俺が俺のままなら、美朝ちゃんも美朝ちゃんのままだ。
この先どう変わるかは判らないからこそ、それはなるようにしかならないのだと思う。
『まぁね。冗談はともかく、また連絡する』
「あぁ、それじゃ」
通話を終えて、俺は何となく空を見上げた。髪奈に告白されたのも、髪奈の元カレと言い合った後に二人で話したのもこの公園だ。
自分の気持ちに整理はついているのだろうか。
髪奈と別れた日の夜にかかってきた電話も、あの時は一時の感情に押し流されて自分の主張ばかりしていた。
『ロクにあたしに話させないで、話してない、とかさ、アンタに非がある部分、認めないであたしを一方的に責めるのってどうなの』
『結局自分の方が気持ち、信じられなかったんじゃないの?』
自分に不安を持っていることが相手を信じていないことになるなんて、あの時は考えもしなかった。
全て自己完結で終わってしまう髪奈が出した、俺を信じるという気持ちも、髪奈の中では確固たるものだったことに気付けなかった。
もう少し、髪奈の立場に立てれば、少しの思い違いで終わることはなかったのかもしれない。
別れて、終わった。
それからの時間、多分、俺は殆ど髪奈の生活に関わっていない。
だから俺のせいで髪奈が死んだなどとは言えない。
(だけど、きっと俺に責任がなかった訳でもない)
考えても無駄なことは判っているのだけれど。
(死ぬ時に、あんたは何を考えてたんだ?)
ポケットにしまった電話が震えだした。
髪奈との思い出が強く残る今、この場所でかかってきた電話は、髪奈
「ごめんね、また呼び出してしまって」
圭一さんはそう言って車を走らせた。
「いえ……。でも、どうしたんです?」
「君に渡さなくちゃいけないものがまだ、あってね。
まっすぐ、前を見たまま圭一さんは苦笑したようだった。
「なんです?」
「遺書、になるのかもしれないね」
(……見たくないな)
きちんと遺書として遺されたものではないだろう。それでも生きていた頃の、それも死ぬ、すぐ前のもののはずだ。
今の俺がそれを見てどうなるか、想像もつかない。
「僕は中は知っている。その内容を見てこれは君に渡すべきものだと判断したんだけど……。君が、それを読むかどうかは君に任せるよ」
「はい」
俺がその内容を知ったところで、やはり何一つとして変わることはないだろう。そして、それを読む責任もない。それを判った上で、圭一さんは髪奈の最期の言葉を俺に託そうとしている。
「今更君にそれを渡したところで何がどうなる訳でもないんだろうけどね……」
遺された者が釈然としない気持ちに、ある程度の決着を付けられるものなのかもしれない。
どちらにしろ、俺は責任だとか、そういったものとは別の気持ちで、髪奈の遺した言葉を読まなければいけないのだろう。
「そう、でしょうね……。でも、
「忘れないでくれたら、裕江は幸せかな」
「それは、本人のみ知るところでしょうけどね」
苦笑して言った圭一さんに、おれも苦笑を返した。
「それと、これ」
「CD?」
「あぁ、僕らの従妹の子がね、ギターを始めて曲を創ってるんだ」
葬儀場で目を真っ赤にして泣いていた女の子。美朝ちゃんと同じ年頃の、笑顔だったのならきっと可愛らしい女の子だ。
「女神の
髪奈が、虚勢だったとしても『味方』だと言った人物が創った曲。
髪奈を止めるまでの力はなかったにしても、ほんの少しでも、ほんの一部でも、髪奈に笑顔をもたらしたであろう曲のはずだ。
俺はそのCDを圭一さんから受け取った。
「聞いてあげてくれると嬉しい」
「判りました」
いつか俺自身も髪奈に聞かせてくれ、といった曲だ。こんな形で聴くことになるとは思わなかったけれど。
『大事な用って訳でもないんだけど、時間あったらちょっと付き合わない?』
そんな内容だった。
俺と香居さんの共通点というものは、髪奈裕江しかない。髪奈がいなければ俺は香居さんとは出会わなかった。
髪奈がいなければ、美朝ちゃんにももう少し優しくできたのかもしれない。
全てが仮定であることは認めるけれど、そう考えてみるのも面白い、と俺は何故か思った。
意味のないことを考えて、意味が無い、と終わらせるよりも。
俺は香居さんのメールにいつでも良い、と返信した。
「だからってこんなに急だとはね……」
その日の夕方にはもう俺は駅近くの居酒屋にいた。
「ま、いいじゃないのどうせヒマだったんでしょ」
「なんか髪奈みたいっすよ、それ」
悪びれもせず言う、少しやつれた香居さんに、俺は冗談めかしてそう返した。
「伊達に十年近くも裕江の親友やってた訳じゃないのよ」
香居さんの笑顔が物語っている。
もう大丈夫だ、と。
俺はどう映っているんだろう。
「なんだか納得できるようなできないような理由っすね」
俺も笑顔を返す。
「あいつよりは色々理屈、通じると思うんだけど」
「そりゃそうっすね」
「で、今日呼んだ訳なんだけど」
「えぇ」
流石にもう、何か重大なことが起こるということではないだろう。俺は軽く相槌を打った。
「あたしさ、しばらく日本離れようと思ってね」
「は?」
いや、言った後に判った。海外に留学だとか長期滞在だとか、ともかくそんなところだろう。
「春になったら卒業だし、幸か不幸か就職だって決まってないし」
「なるほど……」
まだ大丈夫じゃない、ってことだ。それは。そういうことに自分で気付けていない、っていう自覚はあるということなんだろう。
「ま、あたしんちって、何でか知らないけど金あんのよ。親が出してくれるって言うからさ、何ヶ月かここを離れようかな、と思って」
考えてみれば俺よりも髪奈との付き合いが深くて、一番傷付いているかもしれない人だ。しばらくしたら墓前で愚痴を聞かせてやろうと思う。お前のせいでどれだけ大変だったか、とか。
俺や香居さんがどんな思いをしたか、とか。
(カクゴしておけよ)
俺の中でゆっくりと髪奈がいない、という現実が浸透して行く。
それはきっとタイミングなんだ。美朝ちゃんが言っていた。
(そういう時をやり過ごすのって、ただ待ってればいいだけなのに、ってわたしは思う)
俺の中で髪奈の死が現実として受け入れられるまでの時間というのは、俺の性格だとか気持ちだとか、そういうことが一番大きな問題になる訳じゃないのかもしれない。
本当に、ふとしたことで、そう感じる時がくるんだろう。
そう思える。
「髪奈は俺達の間にいたけど……」
「でも、もういない、んだよね……」
俺の言葉を香居さんが続けた。
「そんなに長い間じゃないと思うけど、さ。戻ってきたらまた連絡するよ」
「そうっすね。そん時はまたここで呑みましょう」
「そうね」
どこか晴れやかにも見える香居さんの笑顔に、俺も少しだけ晴れやかな気持ちで頷いた。
29:遺書 終り
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