28:銀メダル
「お兄ちゃん起きてる?」
電気を消して、布団に入った
「うん。眠れない?」
「うん。ちょっと……」
カーテンから漏れる月明かりは案外明るい。俺は天井を見上げたまま美朝ちゃんの言葉を待った。
「スキ、だったんだね、死んだ人」
どういう好きかは正確には伝わっていないのかもしれないが、相手が異性であったことには感付いているのだろう。いや、きっとそれなりのことには気付いている。それだけの洞察力を、美朝ちゃんは持っている。
「まぁ、そうだね」
「止められなかった?」
だからこの現実がある、とは答えなかった。
「ん。まぁ会ってなかったし、電話のやりとりしかしてなかったし、それもそう頻繁じゃなかったしね。何よりまさか、と思ってたから……」
「そか。もしも、判ってたら止めた?」
「止めたろうね」
それで死ぬほど後悔することになるかもしれないけれど。どのみち仮定でしかない。
「本当に死にたいと思ってる人の気持ちはね、判らないから、きっと止めたと思う。それがさ、美朝ちゃんが物語を書くのと同じように、やりたいことで、そういうことを邪魔するのと同じことになるって判ってても、きっと俺は邪魔したと思う」
理由を、いくつか思い浮かべる。
悲しい思いをしたくない。
好きな人には死んで欲しくない。
生きていればきっと笑える時もくる。
有体な理由しか思いつかなかったが、それが殆どで、それが当たり前だ。
「その人にずっと恨まれることになっても?」
「止めただろうね。俺を恨んで生き続けるんなら、恨んでくれて構わない」
今なら少しだけ言える。きっと死ぬよりはずっとマシだ。
「そういうもの、かな」
「さぁね。死んで極楽がホントにあるんなら死んでみてもいいかもね。ただ、そんな確認なんて後でもできると思わない?」
「うん。そうだね」
「俺はね、止めたかもしれないけど、もしかしたら一緒に死んでも良かったんじゃないかって……少しは、思った」
きっと俺は死んでも良かった。一緒に。後を追うことはできないけれど、一緒なら死んでも良かった、と思ったかもしれない。
その意味が良く判らないから。
生きることと死ぬことの意味なんて多分一生かかっても判らないから。
死ぬことの意味を、死ぬことで判ったのかもしれないから。
だけど、もうそれはできない。
生きたまま、死ぬことの答えの一つを、突き付けられてしまった。
美朝ちゃんが、
「後では、できないから?」
「どうだろうね……」
ごそ、と音が鳴る。
「わたしね、わたしはきっと意志が弱かったから、臆病だったから、できなかったんだろうけど、でも、どうでもいいや、って思っちゃうことがあった時って、もうそれしか考えられなくて、でも死に方とか判らなくて、もうどうしたらいいか判らなくて、泣くことしかできなくて、そうやって泣いてるうちに、ぐわーって膨らんでた気持ちが、急にしぼみだすこととかあって……。しぼんじゃったら、お腹空いてることに気付いたり、おしっこしたくなってたり……」
上半身だけ起こして美朝ちゃんの方を見ると、美朝ちゃんは身体を起こしていた。俺もそれに倣って上体を起こした。
「結局欲求っていうものに、人間って中々勝てないのかなって思うと、すごくばかばかしくなって、友達と遊んだりとかしてたら、やらなくて良かったってカンタンに思えちゃうこととかあって」
「それはきっと普通に正しいことなんじゃないかな。俺は、そう思うけど」
それが、何かの拍子に、ほんの少しだけ矛先を変えてしまう。その先にあるものが死だとは気付かない場合もあるだろうし、死が見えてしまうこともある。
そもそも死が不幸だ、と考えること自体が死を否定する側の勝手な言い分に過ぎない。思い悩み、考えることに疲れ果ててしまえば、死は安息、という考え方だって、できないことはない。
「でも家に帰るたびに、親が喧嘩してたり、お姉ちゃんがピリピリしてたりとかして、また気分が下がってきて、そういうの毎日繰り返してると、ドンドン自分がおかしくなっていっちゃうことに中々気付けなくて、また死んじゃえばいいや、って思ったりして……」
今、美朝ちゃんは俺に何かを伝えようとしている。それをどう受け取るかは、俺の自由で、そして俺の責任だ。
「だけどね、やっぱりそういう気分が下がっちゃう原因になる人達だって、もしもわたしが死んじゃったら、泣いたりすると思うの。そう思ったら死ねないって思うのね」
髪奈の親族を思い浮かべる。圭一さんも、両親も、あの従妹の女の子も、俺は悲しい表情しか知らない。美朝ちゃんが言う、そういう気持ちを、髪奈は持っていなかった。いや、持っていても、髪奈自身が持っていた負の気持ちが上回った。
それも勝手な妄想だ。死にたい人間の気持ちなんて判らないし、判るなんて傲慢なことも言えない。
「死んだ人もね、きっと、お兄ちゃんとか、他の友達が悲しむことだって判ってたんだと思う。……死ぬ準備をしながら、きっと思い出してたよ」
それでも死んだ。
それほどの何かを髪奈は抱えていた。独りきりで、誰に打ち明けることもしないで、できないで。
「お兄ちゃんが何もできなかった訳じゃないよ。何も、しなかった訳じゃないよ」
涙声になって美朝ちゃんは言う。
「わたしは、お兄ちゃんが死んじゃったら、悲しいよ……」
「死なないよ、俺はね」
こうやって泣いてくれる従妹がいる。
月明かりを浴びた美朝ちゃんを見ていたら、俺もなんだか泣けてきた。
「自惚れかも知れないけどね……」
涙を拭い、一呼吸置く。
「もっと俺が言ったことを考えてくれたら、って何度も思ったよ。それだけのことを俺は、伝えたと思ってた……」
だけれど、それも意味がないことだった。確かに美朝ちゃんが言ったように俺は何もしなかった訳じゃないんだろう。何もできなかった訳じゃないんだろう。だけれど、それこそが自惚れなのかもしれないと危惧することもある。
髪奈の様に、見誤ってはいけない。
「だけど判らないよね。俺が言ったことを考えて、それでも辛かったら、もうそれはその人本人の問題で」
だから、髪奈が死んだことに対し、欠片でも俺は責任を負うことができない。そうして突き放したようなカタチになってしまうことが、自分の無力感を浮き彫りにさせる。
「そういう時をやり過ごすのって、実はただ待ってればいいだけなのに、ってわたしは思う」
きっとそれもそうなのだろう。普遍的に変わらないものはきっとない。だから、待っていれば良かった。でも、髪奈は待てなかった。きっと待つことに疲れて。疲れすぎて。
「その人はね、美朝ちゃんが言ったように、結果が欲しい人だったんだよ。いつも結果に急いでた。……だからなのかもね」
「急いでも多分いいことってない、よね。わたしは、もうなんとかしてーっていう時に、お兄ちゃんに久しぶりに会って、子供の頃からずーっと考え込んでたことに答えが出せたから、だから、それで救われたと思うの」
だから、と美朝ちゃんは言葉を切る。
「だからね、今は別にいいの。だけど、この先も多分私はずっと好きだって、想い続けられるのね……。だから、もっと時間が経って、それでもやっぱり駄目な時に、もう一回、ちゃんと駄目だって、言って欲しい」
美朝ちゃんが俺のことを好きだという気持ち。それを俺は一時的なものだと決め付けていた。俺が
だけど、そういうものではないのかもしれない。人の気持ちを動かすことがどれほど大変なことなのかは、身をもって痛感している。
だからこそ、美朝ちゃんの気持ちも、簡単に動かすことはできないのだろう。
「そう、かもね。結果は、急ぐこと、ないんだったら」
今はとてもではないが、誰かを好きになるような気持ちにはなれない。
美朝ちゃんは可愛いし、優しくて賢い子だ。考えて、悩んで、反発して、そして一緒に泣いてくれるような子だ。
そういう子にはいつか、正直に答えなくちゃいけない時がくる。けれど、まだそれは、ほんの少しだけ先で良いと美朝ちゃんは言ってくれる。
「何にもやる気がなくなっちゃうくらい、何もできなくなっちゃうくらい、色々なものを奪ってくって、知ってたかな……」
「そういうことは、きっと、考えてないと思う」
俺の問いに美朝ちゃんはぐす、と鼻を鳴らしながら答えた。
「私達が、死んじゃいたいくらいの人の気持ちも判ってないで、死んじゃった人の気持ちも知らないで、そういうのと同じくらい、本気で死んじゃいたいって思う人も、心配してくれる人、好きになってくれた人、そういう人達のことなんて、考えて、ないよ」
それがどうしようもない現実だということは判る。だけど、そこで全てを納得したくないから座りのいい答えを模索する。自分独りで、勝手な解釈で。
「死んだ人がね、俺に、周りのことなんか関係ないようで、周りが怖いんだね、って言ったんだ」
「お兄ちゃんは、きっと自信の持てる人だから」
自信。
何に対してかは判らないし、その答えを俺は髪奈には訊かなかった。
その一言がきっかけになって、俺は髪奈に興味を持ったのに。
「判らないな、そういうのは……」
「さっき、言ったでしょ。お兄ちゃんは、自分が好きなバンドを一生懸命続けられる人間だって。そういうのは、自分にいいことを見つけられない人にとっては、羨ましいし、妬ましいんだよ」
「そういう気持ちが、人の気も知らないで、っていうことに繋がる」
きっとそうだ。
陸上が駄目になって、絵を見つけた髪奈でさえも。常に、諦めたものの次、という気持ちを拭いきれなかった。
「銀メダルは、負けた者に贈られる、っていうのと似てるかもね」
前に何かのスポーツ選手が言っていたことを思い出した。トーナメント形式の競技では、銅メダルは確かに銀メダルよりも低い位置にあるメダルだけど、三位決定戦に勝って、貰えるメダルだ。だけれど、銀メダルというのは決勝戦に負けた者が貰うものだ。負けて貰うメダルと、勝って貰うメダルに、順位以外の価値を見出だす者もいる。
「そうだね。私が物語を書くようになったのも、きっと銀メダルなんだろうな」
「どうして?」
「私はね、本当に落ち込んでいる時に、何か逃げるものが欲しかったんだと思うの。元々本を読むのは好きだったから、書いてみようかなって。自分が創り出した、自分だけの世界に逃げ込めるんじゃないかって」
確かに自分の好きなものというのは嫌なことがあったときの逃げ道にもなる。美朝ちゃんが追い込まれて、駄目になりそうだった時に、目の前にあったものだったのかもしれない。髪奈
「今は?」
「今は、逃げ道になってるのも確かなんだけど……。だけど、そういうこと、ね、私が駄目になりそうだったこととか、そういう時にどんなことがあって今の私がいる、とか、そういうことを、物語の中に織り交ぜて、伝えられたらいいな、って少しずつ、思えるようになってきた」
「それは、いいことだよね」
正直に、素直に凄いことだと思える。中学生では中々そこに辿り着くことはできない答えだ。美朝ちゃんと美潮姉ちゃんは母親が違う。いわゆる世間一般での、ごく一般的な家庭とは違う上に、今の両親も離婚はほぼ確定。この多感な時期に、美朝ちゃんが感じた様々なことを、美朝ちゃんなりに、整理して、座りの良い形に変えていったのかもしれない。
「そう、かな……」
「今度、ちゃんと読ませてもらわなくちゃな、美朝ちゃんの物語」
「うん。いいよ」
声が弾む。泣き止んで、笑顔になった美朝ちゃんはごろり、と寝転んで、俺の視界から消えた。
「さて、寝ようか」
「うん。ごめんね、変なことばっかり訊いて」
「いや」
逆に救われたのは俺の方だ。きっと美朝ちゃんは最初からそのつもりだった。俺を力付けようとしてくれていた。こんなに優しい子なのに、俺はきっと、まだしばらくは何も答えは出せないだろう。
「まぁ、こんなこと言うのもおかしな話だけど、また泊まりにおいで」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
美朝ちゃんの呼吸が寝息に変わっても、俺は天井を見上げたままだった。
28:銀メダル 終り
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