27:涙

美朝みあさちゃんさ、はっきりしといた方がいいよ」

「え?」

 飯を食い終わって部屋に戻ってくると、とりあえず美朝ちゃんを座らせて飲み物を用意した。

「別れるんじゃないの?叔父さんと叔母さん」

「うん、多分ね……」

 やっぱりそうなるだろうな。ここで子供のことをしっかり考えて、自分たちの行動を見直せる人間ならそもそもこんなことになどはなりはしない。

「どっちについて行くとか、そういうのね、ちゃんと決めとかないと多分、自分が苦労するから」

「……」

 美朝ちゃんの無言に何が言いたいのかを感じる。だけど俺はそれに応じる気はない。先に言ってやった方が優しさ、なのだろうか。

「俺は、無理だよ」

「他に頼れる所、ないもん……」

 それは美朝ちゃんの気持ちの問題だ。実際にない訳ではない。

「俺の実家行きな。ウチなら受験終わるまでなら何とかしてくれるから」

「……」

 美朝ちゃんが俺を好きだという気持ちが、一時的な、仮初のものだということは判っている。仮に、もしもそうではなかったとしても、今の俺は美朝ちゃんの気持ちに応えるつもりがない。

 応えられない。

「お兄ちゃん、今、カノジョとかいるんだ」

「いないよ。……俺はね、美朝ちゃんの従兄としてできることはしてあげるけど、一人の女の子としては多分、無理だよ……」

 はっきりと言い切ってしまうのは残酷だし可哀想だとも思う。だけれど叶わない期待を持たせるよりはマシだ。今までも散々思わせぶりな優しさを見せてきてしまった後では殊更に残酷な仕打ちだと自分でも思うが、それでもずるずると引きずれば、美朝ちゃんにつけてしまう傷を、深く惨たらしいものにしてしまうだけだ。

(それに――)

 どちらにしたって美朝ちゃんを傷付けてしまうことに変わりはない。

「……さっき」

「え?」

「さっきね、お兄ちゃんが聴かなくていいって言ったの、何だったのかな、って思って」

 話を変えて美朝ちゃんは言う。俺の気持ちは伝えるだけは伝えた。後は美朝ちゃんの問題だ。だからそれ以上は追求しない。美朝ちゃんが別の話をしたいのなら、それが、俺が話したくないことだとしてもそれには応えてやらなくちゃならない。

「あぁ……」

 少し頭の中を整理して俺は口を開いた。

「俺がね、経験してきたこととか、そういうのを言っても多分、自分は違う、って思って耳に入らないんじゃないかって。今俺が美朝ちゃんに何かを言うよりも、何年か経ってから美朝ちゃんが自分で感じたことが、一番自分の為になると思うんだ」

 それがどういうことであれ。

 それが手遅れであれ。

 多分、あの時誰かが言っていたことは、こういうことだったのか、と思うことが沢山あって、それが後悔に繋がったり、成功に繋がったり、色々なことを自分自身で感じて、自分で成長を感じて行く。

「……そうなのかもしれないね。今はきっと、判ることができないんだろう、と思うけど」

「深く考えすぎるのも良くないよ、きっと」

 今まで何度もあったし、今だって感じることはある。

 俺はあんた達みたいにはならないし、あんた達が言っている大人の理屈が、あんた達と同じ年になったって判るつもりもない、と。たかが数年先に生まれただけで、それだけのことで何だというのか。それが良いことなのか悪いことなのかは、今の俺では判らない。自分の経験が自分にとって最も重要なのかどうか、それは本人が決めることだ。失敗から学ぶ人間もいれば、何度も失敗を繰り返して嫌になる人間もいる。

 例えば髪奈裕江かみなゆえのように。

「何度も何度も失敗したってね、誰かが言ってくれることに、耳を、傾けなくちゃ、進んでかないよ」

 自分だけで、独りだけで考えて、一人だけで得たものが、何だというのだ。

 結局、誰が、何を言っても聞き入れずに。

(勝手に、死にやがって)

 馬鹿だ、裕江は。

「お兄、ちゃん……」

 美朝ちゃんに声をかけられて気付いた。

 頬を伝う涙に。

 その涙を拭って、俺は俯く。

「死んだ人のこと、言ってるんだ、ね……」

 遠慮がちに美朝ちゃんが言う。

 俺は無言で頷いた。

 そうだ。

 ばかだ。

 俺も。

 結局のところ、俺は髪奈裕江に心惹かれたままだったんだ。

 そして髪奈裕江にとって、俺は死ぬまでの通過点でしかなかった。

「……」

 一つ、深く深呼吸をして言葉を紡ぎ出す。

「俺はさ、長いこと、バンドをやってて、自分が一番好きなものを続けられる人間だって、そう思えるのね」

「うん」

「だから、自分はこれが好きでずっと続けてるっていう、そういう人見ると、嬉しくなる気持ちって判るかな」

 涙でぼやけた視界の中、絨毯の一点を見つめて俺は続ける。

「……死んだ人がさ、絵が好きで、頑張ってるのを真面目に俺に話してたのね。だから嬉しかったんだけど、でも、それじゃ嫌だったんだ。その人は」

「何で、だろう……。もっと、違うことをしたかったのかな」

「それは判らないけど、俺はね、その人の絵はちゃんと頑張れてるって伝えたかった。何で頑張れてることが嫌なんだろうって、思うだけで、俺はそこで止まっちゃってたんだよ」

 顔を上げて美朝ちゃんの顔を見る。

「本当の本当にそう思ってたら、多分、もっと色々できることがね、あったはずなんだよ。何でそこでもう一歩、進めなかったのかな、って思うことがいっぱいあってさ」

 涙は止まったが、情けない顔をしているのは自分でも判る。

 ……美朝ちゃんの表情が驚くほどに優しい。

「そういうのって、誰でも同じだよ。わたしはまだ、中学生で子供だけど、でも、そういうこと、何度もあったし、そりゃお兄ちゃんみたいに、誰かが死んじゃったとか、そういうこと、なかったけど……」

 グラスに注いであったミルクティーを一口飲んで美朝ちゃんは息をつく。

「思うんだけど、生きるとか死ぬとか、本当のことってきっと誰も知らないし、遺されたわたし達の気持ちは死んだ人にはもう判らないし、わたし達もいなくなっちゃった人の気持ちは判らないままなんだったら、それぞれの気持ちは、どうしたらいいんだろうって。……そしたら、多分、自分の気持ちのまま、従うしかなくて、そこで色んな気持ちがいっぱい凄く出てきて、その中から間違えないように、正直に選んでいくしかないんじゃないかな、って……」

 ぐっ、と拳を握って美朝ちゃんが力説する。

「その人は、きっと、ちょっとだけ間違っちゃったんだよ」

 そうか、そういうこともあるのかもしれないな。

「他人の限界が見えることがあるとね、あぁ、俺はもっとずっと低い位置が限界なんだな、って思っちゃって、そこでもう、本当は自分に言い訳してるって判ってるくせに、そこに甘んじちゃうっていうのが俺でさ。……だから、美朝ちゃんのことだって、本当ならきっと、何かできちゃうのかもしれないんだ」

 だけれど何の保証もない。できるかも、で俺を頼れ、とは言えない。それが逃げだと言われても、自分の限界が判らないから、応えられない。

「逃げたくなるって、判るよ。わたしもね、お兄ちゃんに会いにくる時はいつもそうだし……。だから、別にいいんだ。わたしだってお兄ちゃんが強い、とか勝手に思って頼ってるんだし。そういう、わたしだけじゃなくて、周りから色々期待されていることから逃げ出したくなるっていうのは、誰にでもあると思うし、それで誰かを責めることなんてできないよ」

「そう、かもしれないね……。だから勿論俺のせいでなんて傲慢なことを言うつもりはないんだけど、要因の一つくらいにはなってたんだろうな、って思うとさ、色々とやるせないっていうのか、どうにも気持ちのやり場がなくてさ」

 後から後からあの時、ああいう風に言えていれば、と思うことが出てくる。

「結局俺は、何もしてやんなかった」

 やらなかったことと、できなかったことと、無駄に終わったけどやったことには大きな差がある。

 今更の答えが溢れ出る。

 俺にはできることが沢山あったのに。

「その時やらなかったことを後から考えて、できたかも、って気付いても、きっと、その時はできなかったんだと思う。やらなかったんじゃなくて、無理だったんじゃないかな、その時は。さっきお兄ちゃんがわたしに言ったみたいに」

 私には良く判らないけれどね、と付け足して美朝ちゃんは苦笑した。

「……本当にあの時、ああしていればって思うこと、あって、それって、できたのにやらなかったことだったのかな。それって、あれができてたらってことじゃないのかな」

 そう言われると、それは判らない。

 ただ、悔やむってことは、つまりはそういうことなのではないかとも思えるし。結果だけを見て、後から色々と考えることが何も生み出さないということくらいは判ってるのに。

(死んだ人間相手に、後悔を踏まえようったって……)

「多分、意味ないよね」

「え?」

「あ、いや、ごめん。今さ、色々考えたって、何ができる訳じゃないんだよね」

 建設的かどうかは良く判らないけれど。

「それは、そうだよね。……漫画とかでさ、死んだ後の世界とか良くあるけど、死んだってその人に会えるかどうかなんて誰も証明できてないんだし」

 漫画を引き合いに出すあたり、まだ子供といえばそうなのかもしれないけれど、確かに美朝ちゃんの言う通りだ。誰も照明したことはない。

「お兄ちゃんが死んだって、意味無いよ、やっぱり……」

「ま、それは、そうだろうね……」

「何となくね、嫌になっちゃう、とかもうだめだーっとかって、色々、独りで考えて……。もう死んじゃってもいいのかなぁ、って思うこととか、きっと色んな人にあるんだよ」

 それが、本気かどうかはまたきっと別の話だ。ふと過る自身を終える妄想。確かにそんなものは誰でもするのかもしれない。

「美朝ちゃんも、あったの?」

「……あったよ」

 一瞬の逡巡の後、美朝ちゃんが答えた。

「でも、怖いのとか、遺った人のこととか考えると、できないよ。だってさ、きっとお兄ちゃんもそうだし、その死んだ人の家族とか見たら判るよね……。死んじゃうのって、きっとあんまり良くないことなんだと思う。だってわたしでも死んじゃったら、お姉ちゃんもお父さんもお母さんも、可哀想だもん」

「はは……。俺はね、死なないよ」

 苦笑して俺は美朝ちゃんに言う。後追いするとでも思ったのか。

「別にね、今はお兄ちゃんにどう思われたって構わないけど、好きな人に死なれちゃったら、悲しいよ」

「そうだね」

 それは、確かにそうだ。

 多分誰よりもそれは良く判る。別に死のうと思っている訳じゃない。俺にはまだやることもやりたいこともやれることも沢山ある。それに髪奈の存在を、俺はずっと胸に焼き付けて生きていかなくちゃならない。今後の俺にどんな影響が出るか判らない。ただ、忘れちゃいけないこと、忘れなくちゃいけないこと、そういうものを慎重に選ばなければいけないんだ、と思う。何が正しいか、何が間違っているかなんて、本人にだって判りはしないからこそ。

 その言葉を、意味を、知らせてくれた美朝ちゃんに笑顔を向ける。

「今日はさ、泊まってきなよ」

 帰るのが嫌なのだったら。

(違う……)

 俺が誰かといないと、不安なんだ。まだ中学生の美朝ちゃんにまでそんなことを期待して。

「駄目だ、俺は……」

「え?」

 美朝ちゃんの気持ちを知っているくせに、そしてそれを拒む、と美朝ちゃんに知らしめておいて。

「ずるいよね、こういうのはさ……」

「え?え?」

 判っていないのなら……。

「あ、わ、私、別に……」

「?」

「い、いいんだ。多分、判ったから。……で、お兄ちゃんがそう思ったとして、じゃあ私も帰りたくないんだけど……」

 優しい子なんだな。

「ありがと」

 俯いて俺は言った。

「また、お世話になります」

 痛いくらいに優しい美朝ちゃんの笑顔を、俺はまともには見られなかった。


 27:涙 終り

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