18:焦燥

「何、就職とかゼンゼンだめなの?」

 小高い丘の上にある公園はもう西日を浴びている。

 俺は髪奈かみなを公園まで連れてくると、先ほど買った缶コーヒーを渡し、ベンチに腰掛けた。子供の姿はまばらだ。煩くないくらいで丁度良い。

「だめだねぇ。面接までいけることも稀だし。新しいのは描けないし、こないだの子ともダメんなっちゃったし、もうめっちゃくちゃでさ……」

 言って髪奈は缶コーヒーのプルタブを引いた。

「何か焦ってるとか」

「そりゃあね。周りの連中どんどん卒論も就職も決めてくし、結局好きなことだけじゃ何もできないし、そこで意地張ってもスタート遅いだけだしさ」

 こりゃだめだ。何か妙な考え方に取り憑かれているみたいだ。

「スタート遅くて何か不都合って、あるの?」

「あるでしょ。大学出て職も決めないでプラプラしてちゃ」

「誰がヨーイドンって言うの?」

 そもそもそこがおかしいだろう。どう考えたって。他人に決められたスタートで、それこそ髪奈裕江ゆえが満足するのか。

 三月に卒業だ、四月に就職だ、って律儀に守って得することなんか何もない。損することだってそりゃあないかもしれないけれど、別にそれだったら自分のやり易いようにやるのが一番なんじゃないのか。髪奈裕江って女はそうして生きてきたんじゃないのか。

「誰に対してそういう気持ち、持ってる訳?」

「そりゃ親とか友達とか……さ」

「だからさ、あんた、俺に言ったでしょ。周りはカンケーないみたいなこと。周りが怖いんだね、って」

 自分で言っていて、それこそ信念のようなものまで感じていたものがぽっきりと折れてしまっている。

「……そう、思ってたけど、さ」

 俯いて自信無さ気に言う今の髪奈にはまったく覇気がない。

「あんたさ、自分なりのやり方で今までやってきた訳でしょ。勝つにしろ負けるにしろ。それなのにハナからそこで負けちゃってるでしょ、今のアナタは」

 それに気付いてはいるのだろうけれど。根本的に自分のやり方、歩んできた道に、疑問を持ってしまったのだろうか。

「基本的にはそう思ってたけど、だけど、そういうことって学生のうちしか言えないって、外出てみりゃ色々と判る訳よ」

「なに、ソトって」

 判っていながら、促すように俺は言う。

「社会ってヤツ?甘かないよ」

「……まぁね」

 社会人面してる。こういうのは今まで幾度となく見てきた。大学に行かずに就職した連中は決まって同じようなことを連呼する。特に俺みたいに何の目的があって大学に入った訳でもない人間に奴らは猛威を振るう。

「甘くないものに向かっていくのって、確かに学生気分じゃまずいのかもしれないけど、学生気分とか、そういうことだって、本当はみんな良く判ってないんじゃないの」

「やってみて、気付かされるって感じかな、次々にさ」

「それでヘコんでんだ」

「ま、ぶっちゃけね。香居とも喧嘩中だし」

 公園の敷地の外枠になぞって設えられている柵に腰をかけて髪奈は言う。

 色々と上手く行ってない原因をやっぱり外に向けたがっている。確かに全部が全部、髪奈個人が悪いという訳ではないし、何もかもが髪奈の思う通りに行く訳もないけれど。

「……あんたさ、単位とかは?」

「まだ取れてないのもあるけど、ちゃんと予定立ってるし」

「それで成り立つもん?」

 学生の本分も中途半端で、働き口なんてそれこそ見つかるものなのだろうか。予定は立っているにしたって予定は未定で、今この時期に、単位を取れていない学科があること自体、本分を全うできていない、と判ってしまう。

「ケースバイケース。でもさ、今まで描いたもんとかも見せて周っててさ。それも反応ないんだけど……」

「そりゃまぁ、そういう面じゃ、確かに甘くはないだろうけど……」

 ちゃんと学校へ行っていて、取れていない単位なら仕方がないとは思うが、髪奈には学校をサボって未だに取れていない単位がいくつかあるはずだった。

 そんな考えこそが甘いんじゃないのか、と言いたくもなったが、今それを言っても単位がすぐ取れる訳ではないし、きっと髪奈は聞き入れない。自分の甘さを恐らくは認識しているが故に。それに意気消沈の人間に対して正論を叩きつけて優越感を得たい、なんていうくだらない趣味は持ち合わせていない。

「最近ストリートでも売ってんのよ。たまーに売れるんだけどさ。やっぱり稼ぎにはなんないね」

 本当に絵で生活をしていこうというには、髪奈のレベルではだめだ、ということなのか、そういうことは全く判らないが、実際にやってみてだめだったという結果はきついものがあるだろう。そういういわゆる、きつい、という現実は判る気もするけれど……。

 色々な要因が今の髪奈を作り上げてしまったんだろう。恐らくは俺と別れた、ということも含めて。

「いきなり、ってのはやっぱり無理なのかな……」

 そう言ったと同時にブルブルブル、と携帯電話が震えだした。

 ポケットから取り出してディスプレイを見ると、先ほどメモリーにセットしたばかりの美朝みあさちゃんの名前が表示されている。

「ごめん……。もしもし?」

 髪奈に一言断りを入れて電話に出る。

『お兄ちゃん?今ね……』

「今どこ?」

 少し声が高くなる。連絡の一つも寄越さないことに彼女なりの意図があったにしろ、心配にはなる。いきなり俺の部屋へ泊まりにくる、ということを考えれば、美朝ちゃんの家の事情で何かがあった、ということ以上に、美朝ちゃんに何かがあったのかもしれない、ということも考えられるのだから。

『今駅なんだけど、何か、メイワクだよね……』

「そんなことないから。今ちょっと出てて三〇分位かかると思うけど、迎えに行くから、駅からあんまり離れないでね」

『あ、うん』

 遠慮がちな声に、やはり美朝ちゃんの中で何かあったことを感じる。

 子供の頃、よく遊んでいたころの性格から今の性格は推し量ることはできない。とにかく、会って何があったかを聞いてやらなくちゃならないことだけは確かだ。

「それじゃまた少ししたら電話するから」

『判った』

「じゃ」

 俺は通話を終えると、電話をポケットにしまう。

「何、彼女?」

「イトコの子」

 髪奈の問いに即答する。美朝ちゃんは心配だが、髪奈も今、放って置く訳には行かない。

「ふふ、キミって基本的に損な人間だよね」

「充分、判ってるけど」

 憮然として俺は言う。

 少しは余裕ができたのか、髪奈は笑顔だ。厄介ごとに巻き込まれていることを、今の会話で見抜いた上で髪奈は言っているんだろう。

「ま、あたしはとりあえずそんな訳よ」

 いきなり話を締めようとするし。こういう気遣いは本当に下手だ、と思う。

「あのさ、あんた、自分は下にいて、上なんか見上げたらキリがない、みたいに思ってるかもだけど……」

「そうじゃないよ」

「そうでしょ。俺と付き合ったのだって、上を見上げりゃキリがないから俺にしたんでしょ。自分がテッペンまでなんか行けないよ、って。その理由とかさ、外に向けたいんでしょ」

 多分、そういうことだ。妥協というものはどこかで必ず発生するものだろうけど。相手に失礼だとかそういう問題ではなく、人間の中で誰もが持っている妥協ラインというか、そういうもの。

 それが髪奈は曖昧なのかもしれないし、自分で引いた妥協ラインに納得がいっていないのかもしれない。尤も、妥協することに納得しろ、というもの無茶な話なのかもしれないが。

「……良く、判んないんだけど」

「自分が一生懸命やれてるって、自分で判ってないからだよ。やろうと思ってできなかったことは、別に下じゃない。走るのがだめだったからって絵にしたのは、別に、あんたがランクを下げたって訳じゃないよ」

 そこに負い目を感じているからがむしゃらになろうとして、裏目に出て、余裕なくして。そういうことじゃないのか。

「考えたことないけど」

「だと思う。あんたのところから下見りゃ、それこそ下なんて、いっぱいいるよ」

 髪奈は髪奈なりに頑張って、色々と考えていることもあるはずなのに、空回りしている。

 それはつまり、がんばれていない、ってことだ。

「……」

「ちゃんとできてんじゃないの。俺は、あんたの絵がちゃんとモノになるかなんて判らない。でも、モノになるんならやっぱりその方がいいって思う」

 きっとこれすらも伝わらないだろうけれど。この女の恋愛観はきっと人生観なんだろう。だから、俺の言葉じゃなくても聞き入れない。きっと自分独りで悩んで、自分独りで決めてしまうんだろう。

「……さんきゅ。ホント、ヘタクソだわ、口が」

「悪かったね」

 上手い口なら聞く訳でもないだろうに、と心の中でだけ呟いておく。

「んじゃ行くわ。サンキューね。イトコ、迎えに行ってあげて」

「……大丈夫、なの?」

「味方、いるから」

 そう言って髪奈は小型のミュージックプレイヤーを見せてくる。

「何?」

「あたしの従妹。ギターと歌、始めたばっかなんだけどさ、それなりに才能あってさ、一途なんだ」

「へぇ」

 音楽の話ならば、ゆっくり聞きたい気持ちはあるが、今の髪奈の雰囲気も、美朝ちゃんのこともあって、それどころではない。少し状況が落ち着いたら聞きたい話だ。

「自分で曲創ったりして、またソレがいい曲なのよ」

 そう言って笑う髪奈に屈託はないように思える。だけれど、今の髪奈にはそういう、従妹とは言え、他人のひたむきさを理解できる余裕があるのだろうか。俺には判らない。

「正直、羨ましい」

「あんたがそう思えてんなら、まだまだいけるでしょ」

 羨望は妬みに変わる危険性もある。だけれど、自分もその場所へと昇りたい、という向上心の支えにもなる。だから、聞かないと判っていても、俺は良い方へと促す言葉をかける。

「ん、そだね。……あんま待たせたら可哀想でしょ、行きなよ」

「ほんと、大丈夫だよな?」

「話せて良かった、じゃ答えになんない?」

 なってない、と思う。

 きっと俺に会って、話しても何の解決にもならないことは髪奈が一番良く知っているはずだ。

 その従妹の子のひたむきな姿勢も、今の髪奈ではいつ邪魔になるか判ったものではない。できうるならば、その従妹が髪奈に力を与えてくれることを願う。そう思わずにはいられない。

「……仕方ないから、とりあえずそれで納得しとく」

「よろしい。それじゃね」

 何もよろしくない。多分何も解決できないし、気分も晴れてない。結局俺に会いに来たところでぐるぐると同じところを回るだけだと気付いたのだろう。俺が、心配をしても始まらないことなのだ。付き合う前も、付き合っていた頃も、別れてからも、何一つ変わらない。

「あぁ、今度その従妹の曲、俺にも聞かせて」

「おっけ。イイ曲過ぎて度肝抜かれるわよ」

「まじか!楽しみにしとく」

 笑顔を作った髪奈を背に、俺は気持ちを断ち切るように切り替えて、駅へと向かった。


 18:焦燥 終り

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