17:胎動

 信じられない、と思った。

 裕江ゆえが見知らぬ男と並んで歩いているのを見た時は。簡単に俺に気付いて、裕江は男に何かを言うと、俺の方へと小走りで近付いてきた。多分俺に見られることなんて百も承知だったに違いない。

「何かカンチガイ?」

「わざとでしょ」

 俺は言葉を失いながらも、何とか言葉を紡ぎだした。

「ちがうって」

 髪奈かみなは実にあっけらかんとして俺に言う。

「俺らってさ、まだ切れてなかったよね」

「うん……」

 わざとらしい……。

「何で連れて歩く必要があるの」

「ちがう、だってモデル……」

 俺の言葉に妙に言い訳じみた言い方をする。

「だからさ、そういうの、俺に一言も話してないでしょ。それじゃ仕方ないでしょ」

「話せる状況?」

 俺の言葉に反応して、少し裕江が声を高くした。そういう状況を誰が作り出したか、どっちが悪くてそうなったのか、そういうことはもう今は関係のないことだ。そういう状況が続いたからこそ、勝手に一人一人で動き出してしまったことがあるのは事実だと思うけれど、別にお互いの行動を制約することが付き合っているということでもない。

 だから何も言わなかったのかもしれない。けれど、髪奈が連れて歩いている男は明らかにモデルだけ、という間柄ではないだろう。

「話さなくちゃいけないことでしょ。描くなって言ってんじゃないんだよ。これが誤解だったとして、それは、アナタが話さなかったから誤解な訳でしょ」

 どこかで俺とはもう続けていけない、というニュアンスが感じられる。

 重い、と。

「……」

「俺から逃げる口実を、わざと俺に見せ付けてるでしょ」

 もう惨めなのは嫌だ。裕江に投げかけた好きだ、という言葉も、信じるという言葉も、何もかもが通じていなかったことを痛感させられた時の男の滑稽さは本当に笑うしかない。

 惨めに、独りで。

 その時本気だった気持ちも、過去のものになり、嘘にしたくなる。

 何故あんな言葉を口走ったのか。馬鹿なことを幾度も言った。死ぬほど後悔する。

 好きだという言葉も、追求する気持ちも急激に消滅してゆく。何も、何一つ信じてもらえなかった。聞き入れてもらえなかった。

 これがどれほど惨めなことなのか、髪奈には、女には、死んでも判らない。

「そういう風に見えるんだ」

「見せてるんでしょ。アナタが。別れ方が下手なことくらい知ってますよ」

 だから俺から促してやる。俺の方から振られてやる。そういうことだ。

「ハッキリ言えないもんでね……。キズつけたくないから」

「自覚ないからそういうこと言えるんですよ。傷なんてついてるに決まってるじゃないすか」

「じゃあいいよ、判った。終わりにしよう」

 俯いて髪奈は言う。キッパリと。

「もっと早く聞きたかったっすよ」

 そうすればもっと早くに気持ちを断ち切る努力をしたのに。

「じゃあね。バイバイ」

 くるり、と振り返って髪奈は言った。



「ちっ」

 夢にまで出てくるなんて俺もよっぽどだ。

 もう一ヶ月にもなろうとしているのに。自室のベッドの上で俺は溜息をついた。

「何なんだよ」

 頭を押さえて俺はベッドから降りた。最悪の目覚めだ。歯磨きをしながら頭の中をよぎるのは別れた日の晩の電話だった。

 しかし。

「ざけんな!」

 ぱん、と頬と叩いてその記憶を頭の中から追い出す。

 学校へ行く気が失せた。

 歯磨きを終えたと同時に携帯電話が鳴った。出る気も起きないが、一応ディスプレイを見る。

 美潮みしお姉ちゃんだ。

「仕方ねーな……。もしもし?」

 通話ボタンを押す。力になると言ってしまった手前、自分の気分が悪いからと無視する訳にもいかない。

『起きてるか、少年』

「今起きたとこだけどね。どしたの、こんな朝から」

 ベッドに腰掛けて俺は言う。

 面倒には違いないが、何か用でもなければ俺のところになんか態々電話などかけてはこないだろう。

『アサがさ、あんたんとこ、泊まり行くからよろしく頼むよ』

「……あぁーうん。はぁ?」

『うん、って言ったね』

 頓狂な声を出した俺に美潮姉ちゃんは畳み掛けるように言ってきた。そういう問題ではない気が、激しくする。

「ちょ、ちょっと待って、何で俺んとこ?」

 俺のとこより実家の方が良いだろう、どう考えたって。

『学校も予備校もあんたんとこからの方が近いでしょ』

「だからって俺、一人暮らしだよ」

 俺はともかく、美朝みあさちゃんが嫌がるんじゃないのか。

『別に手ぇ出しでもいいよ、責任取るなら』

「言ってる場合じゃ……」

 いや、待て。

「何か、あった?」

 恐らく叔父さんと叔母さんの間で何かがあったんだ。

きよちゃんがさ、今日とりあえず話するんだって、父さんと』

「じゃあ今日だけってことか。それならまぁ、いいか」

 俺はとりあえず納得する。一日二日くらいならどうということもないだろう。美朝ちゃんの方さえ問題がないのなら。

『良かった。んじゃアサから電話行くと思うから、よろしくね』

「あぃよ」

 通話を終えてますます学校へ行く気が失せた。

「掃除、しなくちゃ……」 



 とりあえず掃除をして、一通り飲み物を揃えたり、と色々なことをしていたら時間はあっという間に過ぎてしまった。

 しかし……。

 時計を見る。

 もうすぐ十七時になる。学校は終わっている時間のはずだ。

 部活か何かかとも思ったが、美朝ちゃんが何か部活をやっている、という話は聞いていないし、もし部活をしているなら、それなりの情報を美潮姉ちゃんも教えてくれるはずだ。

 ブー、っという振動音とともにボン・ジョヴィが鳴る。

 ディスプレイを見ると美朝ちゃんからではなく、美潮姉ちゃんからだった。

 そもそも俺は美朝ちゃんの携帯電話の番号を知らない。こんなことならば美潮姉ちゃんから電話番号を聞いておけばよかった。

「もしもし?」

『手ぇ出すなよー』

 結局妹が心配なのだろう。手を出す気などもちろんないが、責任取るなら出してもいいだとか、言うだけ言っておいてのこれだ。だけれど。

「……出すも何も連絡ないぞ」

『え?』

「音沙汰ないんだってば」

 どういうことだ?美潮姉ちゃんが知らない、ということは美朝ちゃんはどうしてるんだ?

『まさか迷った、とか……』

「携帯は?」

『持ってるよ』

 だとするならば、すぐに電話すれば済む。今時携帯電話を持っていて迷子も何もないだろう。

「なら誰かのとこにかけるでしょ」

『そうよねぇ……。番号教えるからかけてみてよ。あたしもかけるから』

「いいけど……」

(勘付いてるんじゃないのか?)

 だからこないんじゃないのか?美朝ちゃんなりの、何かの意思表示なのではないのか。

『んじゃ頼むね』

 美朝ちゃんの電話番号を控えて通話を終える。早速メモリーに入れて、ふと考える。

 美朝ちゃんが叔父さんと叔母さんのことに気付いてるのは確実だ。ロボと散歩した時に俺に言ってきたことは間違いなく両親のことだ。それに今現在別居している時点で何かおかしい、と気付かなければ逆に変だろう。多感な時期だからこそ、色んなことに勘付いているはずだ。

 セットした番号に早速かける。

 程なくして相手の電話が圏外か電源が切れているアナウンスが流れる。

(ほら見ろ……。決定的じゃないか)

 背の低いベッドに寝転んで、携帯電話を投げ出す。

 ぐぅ、と腹の虫が鳴く。晩飯は美朝ちゃんと一緒に食おうと思っていたけど、待っていられないな。とにもかくにも美朝ちゃんを捜しに駅に向かいつつ、コンビニエンスストアで何か買って帰るか。



 駅へと向かう途中にあるコンビニエンスストアに足を運ぶ。それが運の尽きだったのかどうか。

「うす」

 店内に入った途端に、記憶にはまだ残っていた小柄な女性の姿が視界に飛び込んでくる。

「どしたの、こんなとこで」

「んー、色々と切羽詰まっててさ」

 相変わらず意味が判らない上にこっちの都合などお構いなしだ。髪奈は俺に声をかける直前まで聞いていたのだろう、ミュージックプレイヤーのイヤフォンを外してそう言った。

「何考えてる、とか、良く判んないんだけど、何か急に顔見たくなってさ」

 ……参った。いや、別に髪奈に対して嫌悪感がある訳ではない。

 美朝ちゃんの行方が知れない今、正直言ってそれどころじゃないのだが、何だか今の髪奈はどこかおかしい。人の顔を見たくなった、なんて付き合っていた時でもなかったことだ。どうにもこのまま放っておく訳には行かない気がする。

「時間、ない?」

「あるにはある。その理由、聞く余裕、ある?」

 あまり余裕があるようには見えない。多分だけど俺の顔を見たくなるということ自体がもうそれを物語っている。

「いいや。んじゃさ、とりあえず時間許すまでは付き合ってよ」

「判った」

 缶コーヒーだけを買うと、俺は髪奈を連れて近場の公園へ向かった。


 17:胎動 終り

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