16:紫煙の心

 散歩からの帰り道、駅から実家へと向かう道と合流するのだが、そこで丁度うちへと向かっている美潮みしお姉ちゃんと出くわした。

「あ、お姉ちゃん」

「あれ?アサ?」

 美潮姉ちゃんは俺と美朝みあさちゃんとロボを見て目を丸くしてから、笑顔に変える。相変わらず美人だが、子供の頃の憧れだとか、そういう気持ちはもう今はなくなっている。ただ、何かあれば力になりたい、というような漠然とした気持ちだけは残っている。要するに赤の他人よりは絆を持っていたいという、ただそれだけのことなのだろうけれど。

「元気だった?」

「あぁ、美潮姉ちゃんも相変わらず」

「うん」

 二七歳じゃそろそろ結婚の話も出てきそうだけど、そういう相手はいないのかな。

「仕事?」

「そ。デートとか言ってみたいけどねぇ」

 ぼん、と俺の背中を叩きながら美潮姉ちゃんはおちゃらける。相変わらず独りってことだ。これだけ美人ならば簡単に男の一人や二人、作れそうな気もするが、美潮姉ちゃんの世の中もそう上手いこと回ってはいないってことらしい。甘くないな、だとか、運が悪いな、だとか、そういうことは自分だけにあることではなくて、大多数が同じことを考えているんだと思うと、希望のない世の中だなぁ、と他人事のように思ってしまう。

「とりあえず飯でも食ってゆっくりしなよ」

「沢山とってあるよ」

 俺の言葉と美朝ちゃんの言葉に、美潮姉ちゃんが頷いた。

「楽しみといえば呑む食う寝る、くらいだもんねぇ……」

 しんみりと美潮姉ちゃんは言う。もちろん冗談の域だろうけれど、それでも強く生きているんだな、と思えばまだマシなのかもしれない。俺も美潮姉ちゃんも美朝ちゃんも、結局投げ出さないで生きてるんだから。

 実際何が楽しくて生きているか、なんて考えたこともないけれど。



 うちの親父が帰ってきてから、本格的に酒を呑み始めて(俺も付き合わされた)美潮ちゃんが先に寝て、それでもまだまだ親父たちは寝る気配がなく、付き合っていられなくなった俺もそろそろ寝ようかと思っていたところで――。

 ポケットの中から振動とともに微かにボン・ジョヴィが聞こえてきた。

 俺は居間を出るとディスプレイを見てから電話に出た。また番号非通知だったが、多分ヒマだと言っていた髪奈だろう。

「もしもし」

『オレダー』

 酔ってやがる。

「何すか」

 やっぱり予想通り髪奈で、しかも酔っているときたら頭にもくる。

『何よ、冷たいじゃん』

 後ろの方で「ちょっとやめなさいよ」という香居さんの声が聞こえてきた。俺が断ったから香居さんに白羽の矢が立ったということだ。少々悪い気もしたが、そこまで考えてやる義理だって、もう本当はありはしない。

「ねむいんですよー」

 時間は確認しなかったが、優に一時は回っている時間だ。少し言い方を改めて、俺は外に出た。

『言い訳としちゃま、妥当だけどー、その敬語やめてくんない?』

 別に本気で取るとも思っていなかったけど。付き合ってた時にも崩れた敬語でも使うと気にしてたな、と思い出す。

『何かさ、色々香居から聞いたんだ』

「今更、でしょ」

 何が変わる訳でもないし、変えるつもりもなければ変化を望んでいる訳でもない自分に気付く。もう終わったことなんだ、ということが、ゆっくりと俺の中で溶けてゆく。

『まーねー』

 復縁を望んでいる訳ではない。それは髪奈も同じだ。俺は少し前までは万に一つでも機会があれば、という考えをどこかで持っていたけれど、髪奈は違う。元々見ている先が違う人間との付き合いなんてそんなものなんだと判った時に、自分の脆弱さを感じる。髪奈は俺とは違う。目指し続けて、やり続けられる。好きなことに対して体全部でぶつかっていけるバイタリティがあるし、何より打算がない。そういう女だからこそ、終わったものが再び始まることはなく、次の新しいトコロを目指す。

『あたしゃー問題児だからねー』

「全くだ」

 冗談めかして俺は言った。そんな口調とは裏腹に単に暇つぶしならいい加減にしてほしいという気持ちが膨れ上がってくる。正直に言えば、こんな夜更けに酔って電話をかけてくるその無神経さには、腹が立っている。

『ひっでー!……ってまぁそれもあたしのこと、ちゃんと見ててくれたってことだよね』

 少し声のトーンを落として髪奈は言う。

「いや、急にマジメになられても……」

 真面目な話なら尚更したくない。特に酒を呑んでいる相手なんかとは。酔った相手にムキになることほど不毛なことはないし、髪奈相手に掛ける言葉を、俺はもう一つも持っていないのだから。

『へへ。ごめんごめん。んじゃ切るわ』

「あぁ。そいじゃ」

 器用なんだか不器用なんだか判らないが、多分、そういうことは敏感に感じ取れるんだろう。声は素面に戻っていたが、通話を終えた後に香居さんに当り散らすのは何となく想像できる。

『うん。またねー』

 ツー、ツー、という電子音が聞こえたと同時に、俺は深い溜息をつく。

 ……まったく、何のために賑いの中に態々身を置いたのか判りゃしない。電話をしまって中へ入ろうとすると、美潮姉ちゃんが出てきた。

「あ、終わった?何、カノジョ?」

 美朝ちゃんと同じことを訊いてくる。流石は姉妹だ。

「元、ね」

「ほー、あんたもそういうこと言えるようになったんだねぇ」

「そんなしみじみ言わないでくれる?そういう姉ちゃんはどうなんだよ」

 笑っておれはやり返す。

「うひゃー、キビシーこと言うねぇ」

「どっちがだよ。俺なんかまだ別れたばっかだっての」

「古傷ってヤツ?」

 苦笑する俺に美潮姉ちゃんも合わせたように笑う。こうぶっちゃけられれば楽なのに。妙に気を使って哀れんでくれるもんだから余計に立つ瀬がない。笑ってくれるんならその方が俺は気持ちが軽くなるし、実際笑っちゃえるのに、と思う。美潮姉ちゃんはそういうことをきっと良く知っているんだろうな、と何となく思った。そういう部分から大人なんだろうな、ということを思い知らされるし、自分はまだ子供なんだな、と痛感する。

「や、最近だってば。強いて言うなら傷心、ってところでしょ」

「そうねー」

 ころころと表情を変えるのは子供のころから同じだ。きっとそういうところは叔父さんに似たんだろう。美朝ちゃんもそうだし。

「で、どうしたの?」

「何が?」

「外出てきちゃって。酔い覚ましって訳じゃないんでしょ?」

 長話をしていた訳ではない。心配して出てきた、という訳でもないだろう。

「まぁ、ね。用っていう用でもないんだけど、さ……」

 ろくに星も見えない空を見上げて美潮姉ちゃんは呟くように言った。

「俺でいいんなら聞くけど」

 多分俺に聞かせたい話があるんだろうから、こうして出てきたんだろうし。

「そうねー。……ねぇ、公園とかないの?」

「さっき美朝ちゃんとロボの散歩行った公園なら近いけど」

「じゃそこ行こう」

 折り入って、という感じがした。多分面白い話じゃないことだけは、何となく判った。



 公園のベンチに座ると、美潮姉ちゃんは煙草に火を点けた。

「吸う?」

「いや」

 短く行った俺から視線を外して、ふぅ、と煙を吐き出した。確か働き始めてから吸い始めたはずだ。

「アサがさ……。あんたのこと好きみたいなのよね」

「はぁ?」

 頓狂な声を上げて俺は美潮姉ちゃんを見る。煙草なんか吸っていたら豪快に噎せ返っていたところだ。

「いや別に何の脈絡もなしに言ってる訳じゃないのよ」

「何か、判んないんだけど」

「だから、これから話すってば」

「訳有りな訳だ」

 下を向いて俺は言う。厄介な話になりそうだ。

「まぁ別に直であんたに何かしてもらおうって思ってる訳じゃないし」

「うん。で?」

 溜息混じりに煙草の煙を吐き出して美潮姉ちゃんが前を向く。

「アサの母親のこと、なんだけどさ」

清美きよみ叔母さん?」

「そう。今日会ってきた」

「仕事じゃなかったんだ」

 別居中の母親に会ってきた、とは妹には言えなかったのだろう。そして恐らく叔父さんにも。

「まぁね。あの人はアサにとっては母親だけどね。私に取っちゃ姉さんみたいなもんで、色々と突っ込んだ話とかもしてたんだけどさ」

 とん、と灰を落とす。

「父さんのコト。別れるとか言ってて」

「……で?」

 促す。別にそこで驚きはしない。だから別居しているのだろうし。問題はそこから動きがある、ということだ。そうじゃなければ態々俺にそんな話を聞かせはしないだろう。いくら血縁とはいっても結局は他人と何ら変わりはしない。年に数えるくらいか、それ以下の回数でしか顔を合わせない親戚など。それでもこうして俺に話してくれるってことは、それなりに、俺を認めてくれているってことなのかもしれないけれど、ただのはけ口という可能性だって充分に有る。

「別に構わないとは思うんだけど、まだアサがさ……」

「……だね。もし別れるとしたら姉ちゃんは叔父さんについてくとして、美潮ちゃんは清美叔母さんのとこに行く訳?」

「そこなのよ。一応父さんは気付いてるみたいだけど、アサはまだ何も知らないからさ。アサにそれを言って、私が父さんについて行くって言ったら結局アサは清ちゃんのとこ、行く訳でしょ」

「だねぇ」

 とは言ったものの、そうだろうか。美朝ちゃんは美朝ちゃんで何かに気付いている。先ほどのロボの散歩で俺はそう思った。それを美朝ちゃんがまだ中学生だから、と隠しておくことが良いことだとは思えない。

「アサが父さんについて行くって言ったら、私どうしようかと思って」

「独り暮らしすりゃいいじゃん」

 美潮姉ちゃんがおじさんと一緒にいなければならない理由がない限り、それが一番良い方法のように思える。そうすれば、美朝ちゃんも自分の意思で叔父さんについて行くか、叔母さんについて行くか選べる訳だし。

「清ちゃんはね、それが一番望ましい、って言うのよね」

 やっぱりな。それはそうだろう。

「ま、他に男がいるんじゃねぇ。子供は邪魔なだけだろうし」

 わざと険悪な言い方をする。俺は昔から清美叔母さんのことがあまり好きではなかった。だからかもしれない。

「アサのこと心配はしてんのよね、清ちゃんも一応さ」

「余計な心配でしょ、そんなもん」

「でも娘なんだし」

「こんな、受験控えた娘がいるのに不倫してホれたハれたもないでしょうに……」

 親の責任がどうの、という言葉を並べ立てているだけではないのか。言うだけだって印象は随分違う。俺みたいに最初から食ってかかっている人間以外には。

「手厳しいねー」

「そうかな……」

 そうは思わない。俺は自分が間違っているとは思わなかったけれど、口を出す気にもあまりなれなかった。人様のお家の事情だ。俺が口を出しても何もならないし、そういうのは本人同士で決めることだ。結局人が別れるだとか、そういう問題は全て本人同士が決めることだ。周りはどうすることもできない。

 ただ、流されていくだけ。気持ちを曲げることは誰にもできはしないことくらい、判っているはずなのに。

 どうして俺にそんなことを聞かせたのだろう。

「ま、そんな訳でさ。あんたももう一人前だし、少し頼りにしたいのよ。これからのこととかでも」

「別に構わないけど、期待に添えられるかどうかは判んないよ」

 実際問題俺に美朝ちゃんの面倒を見ることなどできはしないし、する気もない。

 俺のことを好きだとかいうのが本当ならば尚更だ。きっと子供の頃に俺が美潮姉ちゃんに憧れたのと同じだ。それは一時的なものであって、本当に心の底から自分を突き動かすほどの気持ちじゃない。

 時間が経って、気付けば、同じクラスの誰かを好きになっていたりするものだ。だから冷たくあしらう必要はないけれど、こちらからあえて懇意にする必要だってない。

 正直に言えば、構っていられないし、付き合ってもいられない。煩わしいことにはあまり関わりたくない。気分的に。

「ま、それもそうだね。……さて、戻るかね。そろそろみんなつぶれてるかもしれないし」

「だね」

 美潮姉ちゃんが煙草を落として踏み消すのを待ってから、俺はベンチから立ち上がった。


 16:紫煙の心 終り

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