13:お互いの確認

「なるほどなぁ」

「正直キツイっすよ。ついこないだまでずっと上手くいってると思ってたのに」

 冴城さえきさんに事情を話して、それを理解したらしい冴城さんは頷きながら言った。夕刻の学生食堂はそれほど人がいる訳でもなく、俺と冴城さんの他はまばらに数人がいるだけだった。

「だから言ったろ。簡単じゃねぇ、って」

 煙草の煙を吐き出しながら、冴城さんは言う。本当にそうだった。甘く見ていたのは確かにあると思う。ただ、俺は裕江ゆえとは全部とは言わないまでも、判り合えている、と思っていた。簡単じゃない髪奈裕江と俺はちゃんと付き合えているし向き合えているんだ、と思っていた。思っていたからこそ、尚更ショックだった。

「冴城さん、裕江とはやってないって言ってたけど、付き合ってもなかったんすか?」

「あぁ、オレはメンドーは好きじゃねぇしな。あいつに言い寄られ時だって……あー、もう二年も前だけどよ、そん時だってあいつの性格判ってたし、俺もこの性格だからな。メンドーなことになんの目に見えてたし」

 俺だって最初は長くは続かないかもって、思ったけど。

「俺はそんなに面倒だとは思ってなかったんですけどね……」

「実際面倒になってるじゃねぇか」

 苦笑して冴城さんは言う。こういうところが俺自身の甘さなのかもしれない。ただ、それにしても、どうしたら良いか判らないという状況はきつい。

「連絡取れないんじゃどうにもならない、よなぁ……」

 呟くように俺は言う。

「ま、直で会って話すしかねーだろ」

 煙草の火を消し、冴城さんは立ち上がりながら言った。俺も冴城さんに倣う。

「そうなんすけどねぇ」

「ま、大した問題じゃねぇよ。ちょっとした行き違いだ」

「はい……」

 冴城さんの声にとりあえず頷いてはみたものの、それを素直に受け入れられはしなかった。



 バイトを終えて裕江の家へ行こうと思ったが、店から出てすぐに、待っていてくれた頃には定位置だった場所に裕江がいた。

「よっ」

「あ、うん」

 振った手には安物のリング。結局なんだかんだで先月におれが買ってやったやつだ。

「ごめん、電話出なくて」

「いや、うん……」

 妙に明るく裕江は言う。

細矢ほそやがさ、あんたのこと、凄く悪く言うからさ」

「まぁ、それは、そうだろうね」

 そういう態度を取ってしまったのは俺だし。あの男にも悪意はありありと、見て取れたし。

「付き合ってみて、嫌なとこ、見えてきたでしょ、あたしの」

「悪いとこ探すために付き合ってる訳じゃないでしょ」

 そう言ったのは裕江自身だ。

「うん」

「俺は、信じるとか信じないとか、そういうことの前に、あんたと付き合ってるんだよ。昔のことで何かあったかもしれない。なかったかもしれない。でも、あんたの過去で、今の俺の気持ちが変わる訳じゃないんだよ」

「それは、判るけど……。頭のどっかで、あたしはすぐ男と寝るような女だ、とか、そういうの、あるでしょ」

「最初は、あった、けど……」

 いや、今だってそれは時折感じる。だけれどそれは裕江のせいじゃなくて、俺みたいにロクに女を満足させられないような男なんか、簡単に捨てられる。そんな危機感が常にある。難しいかもしれない、無理かもしれない。そんな気持ちはずっと燻っていた。だからといって、少しずつだけど、確実に育っていった裕江を想う気持ちに嘘はなかった。

「ね。境遇とか経験とか気にしないったって、口じゃ言えたって、後々出てきちゃうんだよ」

「そういうのにやんなっちゃったら、もうどうにもならないんだ」

 思い切って言ってみる。ここでそうだ、とでも肯定されればすぐにでも終わるだろう。

「そうじゃなくて」

 裕江は最悪の返答を返した訳ではなかったが、でもそれは否定でも肯定でもないような返事だった。

「俺があんたを想ってる気持ちって……」

 いや、そういうことか。

「それは判ってる」

 俺がどれだけ想ったところで裕江の気持ちが俺に向かなくなってしまえば、どうにもならない。二人の気持ちが向き合ってこそ成り立つもので、片方がどれだけ頑張ったところで、空回りになり、裏目に出るだけ。

 これはもう、本当に、どうしようもない、現実だ。

「うん、俺も、判った」

 そう言って裕江に背を向けた。こんな惨めな気持ちになるだなんて思いもしなかった。酷く大きな穴が身体のど真ん中に空いてしまって、そこが悲しくて仕方ない。

 好きだからこそ、喜ばせようだとか、不安を感じさせないようにだとか、色々とやってきた自分の馬鹿さ加減が、そうしたものすべてが無価値に捨てられたことが、あまりにも惨めだった。

「何か、間違ってるよ、それ」

「頭冷やしてから電話するよ」

 出ないならもうそれでもいい、と思った。そして時間を空けたところで、俺の頭も冷えないことくらい、既に判り切っていた。



 気ままに生きたいって気持ちは判る。

 できるのなら、俺はそれを邪魔したくはない。そう思っていた。俺が裕江の時間を奪うような真似はしたくはなかった。ただ、それにも限度はあったのだろう。何をするのも裕江が決めていたのは、結果、そういう気持ちが強かったからだ。裕江が俺と会う時間を、裕江の好きな時間にさせたかった。今になってみれば、自分の女に対して、そこまで退いた考えをする必要はなかったのかもしれない。香居かいさんが言っていた『束縛されていたい』という裕江の気持ちは、つまるところ、そういう気持ちからだったのだろう。

 そんなことを考えながら、公園を歩いていると、電話が鳴った。

「もしもし」

 ディスプレイには見知らぬ番号だけが映し出された。

『あ、香居だけどさ、ごめんね、急に』

 香居さんはそう言って、俺に今、時間があるかまでを確認した。

「大丈夫っすよ」

『そ。裕江から番号聞いたんだけどさ、裕江と何かあった?』

「……もう、おかしいんすか」

『少しね』

 裕江が男と別れると手に負えなくなる、と以前香居さんは言っていた。

「俺が突き放した訳じゃないすよ。俺は、俺の気持ちは変わってないのに……」

 いきなり言い訳がましい言葉が口をついて出てしまった。香居さんに自分の正当性を主張したってどうにもならないだろうに。混乱して、錯乱して、とにかく冷静にはなれていない証拠だ。

『どっちもムキになってるって訳か。じゃあ私の出る幕じゃないわね。私の出番はあんた達が切れたあとだからね』

 それは確かにそうなのかもしれない。誰に話を聞いても、相談を持ちかけても、結局決めるのは本人達だ。

「すんません。とりあえず、今あんま冷静じゃないんで」

『だね。キミが頭に血ぃ上らせてたらどうにもならんしね。とりあえずあいつとやり合うんじゃ、冷めるんじゃなくて、きちんと頭冷やさなくちゃ駄目だから』

 少し、香居さんは笑ったようだった。

「もう少し頭冷やしてからちゃんと話し合いますよ」

『私もあんま苦労したくないからねぇ。ま、宜しく頼むよ』

「俺だって別れたくないっすからね。できることはしますよ」

『ん。がんばんな』

「うす」

 正直言ってどうなるかは判らない。人の気持ちを動かす、ということは、できないことではないのかもしれないけれど、並大抵のことではない。そして、裕江の気持ちが俺から離れ始めているのなら、もう俺では裕江の気持ちを動かすことは不可能だろう、とさえ思う。香居さんとの通話を終えると、また歩き出す。身体中が急激に重たくなった気がした。胸にできた空間に、鉛でも詰まったかのように、どうしようもなくやるせない、ぶつけどころのない痛みとなって俺を責め立てているようだった。


13:お互いの確認 終り

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