12:招かれざる客
「んじゃ、お疲れっすー」
店を出た途端、目の前に人影。
「……」
思い出したくない顔だった。
「久しぶり」
「ども」
前に裕江に突っかかっていた美術サークルの男だ。裕江の前の彼氏。正直塵ほどの用もない人間だ。
「何か用っすか」
俺は歩きながら言う。関わりたくない。
「
「……」
答える気にもならない。そんなもの、この男には全く関係ない。
(いや……)
「上手くいってますよ。放っておいてくださいよ」
「あのさ、お前、髪奈が売りとかやってたのって、知ってんの?」
(!)
この際それが本当か嘘かなんてどうでも良いことだ。この男の狙いがはっきりとはしないけれど、一つだけ判った。
(邪魔する気、か)
「いや……」
少し乗ってみることにした。このくだらない男が一体何を考えているのか。それを探るために。
「ただ好き放題に男食ってたんじゃないんだぜ。あいつが陸上やってたのは聞いてんだろ?」
「あぁ、それは」
「陸上駄目んなって、しばらく荒れてたんだよ、あいつ」
「あぁ、そん時に」
それが本当だとしたって、俺には、今の俺達には全く関係のないことだ。
「そこまで聞いてないのかよ。可哀想になぁ」
「言う必要ないからでしょ。これからマジメに付き合うにしたって、俺があんたと同じくあいつを捨てたって、俺が捨てられたって、そんなことは関係ないですからね」
「そういうのも理解してやってるのか」
「理解じゃなくて、目を、背けたいんですよ」
わざと後ろ向きなことを言ってけしかける。それがもし本当だったとして、裕江には、俺には言いたくない過去があって、それは言ったとしたって、結果は何も変わらないことを判っている。今はそういった過去に縛られてはいない、ということなんじゃないのか。それならばそれで良い、と思う。大切なのは、今俺と付き合っている、今のあいつの気持ちだ。態々穿り返さなくても良い過去を穿り返して何になる。
(ばかだ、コイツは)
くだらない。
「あいつが前に色々してたってのは何となく聞いてるけど、態々自分から知る必要もないし、騙し騙しやってけりゃその内それがホントになるんだし」
「なるほどね。あんたがそういう考えなんだったらそれでいいや。用はそんだけ」
男は妙にスッキリした顔になって、足を止めた。
(やっぱりな)
ヤツが裕江との復縁を望んでいるのかどうかまでは判らない。けど、俺と裕江の仲を邪魔しようという魂胆は見えた。今更何のつもりなのかを考えれば、一度捨てた女を惜しい、と思っていることくらいしか想像はできなかったけれど。裕江の気持ちがあいつにはないことはもう知っている。あいつが何をしようとしても別になんてことはないだろう。
「あれ?一人?」
大学からの帰り道、後ろから声をかけてきたのは
「あ、ども。なんか具合悪い、って」
「フケたのか」
苦笑して、しょうがねーヤツだなと呟くように言う。
「ねぇ香居さん」
「何?」
俺はあの美術サークルの男が言ったことを聞いてみることにした。香居さんなら何か知っているかもしれない。
「裕江が、あいつが売りやってた、ってホントっすか?」
香居さんは急に歩みを止めた。その表情は凍りつく、などというものではない。
「それ、どっから聞いた?」
「あぁ、なんか裕江の前の男の、美術サークルの人っすけど」
「
やっぱり香居さんも知っていた。裕江と付き合った男全部を知ってる訳ではないにせよ。何かあれば香居さんの耳にも入るのだろう。親友、という立場なのだから。
「今更何の用なのかねぇ……。自分で嫌んなって別れたくせに」
少し気になってることがある。前に呑んだ時に、香居さんが言ってたことだ。
「もしかして殴られたりって……」
「あー、それはアイツじゃないよ。もうちょっと二、三人くらい前じゃなかったかな」
「何かちょっと、邪魔したい、って気が満々って感じましたよ」
「今更寄り戻したい、とかそんなの、かねぇ……」
だとしたら面倒だ。だけど、邪魔をしたいって動機なんてそれしか考えられない。裕江にその気がないことは信じられるけど、いちいち邪魔されたらおかしくなってくることだってある。
「ま、恋に障害は付き物よ、少年」
ばん、と俺の背中を叩いて香居さんは笑った。そして、その夜、裕江とは連絡が取れなかった。
翌日。
やはり裕江とは連絡が取れなかったが、食堂で、その姿を見かけた。
「裕江」
俺はギターケースをかけなおし、裕江に声をかける。しかし裕江は反応しなかった。
俺の声が届かない距離じゃない。
要するに――
(シカト、か)
「……」
(まさか)
一つの答えを導き出すのに時間はかからない。
俺は愕然とした。あの細矢とかいう男に喋ったことが全部裕江に筒抜けだったとしたら。そして、俺が細谷をけしかけるためにわざと言った後ろ向きなことを裕江が信じてしまったとしたら。
いや、それはもう自問ではなく、確信だ。
(裏目った……)
ヤバイ。
こんな時、どうしたら良いか判らない。
きっと裕江は今まで付き合った男達の中でも常に妥協ラインで付き合ってきた。そして、男の後ろ向きな言葉を幾度となく聴いてきたはずだ。
――所詮こいつも同じか。
きっとそう思われた。
「あ、あのさ」
もう一度声をかける。その声が震えているのが自分でも判った。嫌だ。こんな行き違いで裕江と別れたくない。
「何言われたか知んないけど……」
「別に。真剣に向き合うほどのコトじゃないでしょ」
天ぷらうどんを食う手を止めて、俺の方を見向きもせずに裕江は言った。
「え?」
「ウソかホントか、とか、そんなもん、どうだっていい訳でしょ?」
要するに細矢が言っていた、売り云々は嘘だったということだ。真意の置き場所はどこにしたって俺がどっちでも良い、なんて言葉を口にしたから。
「……正直言えばね。そりゃ嘘のがいいと思ったけど。でもホントだったとして、今の俺達に何か不都合とか、ある訳?」
今、俺が裕江を想っていて、裕江が俺を想ってくれているのなら。
「昔のことなんて関係ないじゃないか」
口を開こうとしない裕江に、俺は思った通りの言葉をぶつけるように言った。
「……」
「今あんたが動いてるのって、別に昔のことが原動力になってる訳じゃないでしょ。あんたが俺に見せてくれた、あんたのいいところって、そういうの、関係してる訳じゃないんでしょ」
聞いているんだか、聞いていないんだかも判らない裕江の態度を見て、何だか腹が立ってきた。
「俺が、そういう風に思ってなきゃいい、ってあんた、言ったじゃないすか」
「信じて、ないんでしょ」
ようやく口を開いた裕江の言葉の温度はやけに低い。そして俺を見るその視線の温度も。
「……どっちが」
信じてないのは裕江の方だ。
「アンタでしょ。あたしが売りやるような女だって思ってる」
「昔の男に横から言われたことの方を信じるんすか」
「何よその喋り方」
喋り方一つも気に入らないのか。まるで子供だ。こっちの話をまるで聞こうとしない。
「そういうことじゃないでしょ」
「細矢が、あんたがそう言った、って言ってたもん」
「あの男相手に俺がまともに思ってること、全部話す訳ないじゃないか!」
最初に裕江が喧嘩していたとはいえ、俺だってああいう人間を良い人間だとは思えない。だから俺だって下手をすれば手を出すくらいにまで食い下がったのに。目の前で裕江はそれを見ていたのに。
「それとこれとは違うでしょ。そんなことどっちだっていい、どうでもいい、って思われたんだよ、あたしは」
「だからそれは、そんなの嘘だったらいい、って言ったでしょ」
それにそんなこと思っていない。細矢という男の言葉を疑いもしないで、まるで信用してることと同じじゃないか。何で俺の言うことは信じてくれないのか、本当に判らない。
「悪いけど後にしようよ……。電話、するから」
冷めた裕江の声に、おれも急激に熱が引く。今の裕江には何を言っても無駄だ。
「……判った」
それから、やっぱり裕江からの連絡はなかった。
12:招かれざる客 終り
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