09:不安の確認
とりあえずイーゼルなどというものがない俺の部屋には小さなソファーが一つだけある。それに
「そいじゃ、いよいよお披露目っす」
髪奈の嬉しそうな声に、俺は無言で頷く。他人に絵を描いてもらったことなんてなかったから、なんだか妙に緊張する。ぐび、っと喉を鳴らした俺を見て髪奈は軽く笑った。
「そんな緊張するほどのもんじゃないって」
そう言いながら膝立ちになってシーツに手を伸ばすと、するりとシーツを取る。もしかして落書きされてたり、滅茶苦茶にされてるかもしれない、という不安も過ったけれど、そんなこともなく。
「どーよ、どーなのよ」
興奮して髪奈は言う。正直言って……。
「うまい……。っつーか、美化しすぎ?」
「あぁ、あたしにはこう、なの!」
かっと赤面して髪奈は言う。あ、いや、何か、そんな反応されるとこっちも恥ずかしいんだけど。
「まぁ似てるかどうかは別としても、うまいな。何か本気で、とか考えてる?」
絵のことは殆ど判らないが、正直な感想として上手いと思う。色合いなんかは自分で色々と変えたのだろう。夕刻のアトリエ、というような雰囲気の色彩だ。下書きの時にしかモデルはやっていないが、その時に夕刻時の色彩を自分の目に焼き付けていたのだろうか。見なくてもモデルをやった時に着ていた服の色だとか、夕焼けに染まるアトリエのカーテンの色だとかを記憶していたのかもしれない。あまり絵のことを判っていないからかもしれないが、本当にたいしたもんだ、と思ってしまう。
「考えてるよ。学校出たらさ、ニースに行きたいんだ」
「ニース?」
確かフランスかどこかだっけ。
「うん。ニースったらカーニバルのが有名だけどね。あたしは海岸沿いの街とかヨットハーバーとか、そういうの描いてみたいんだ」
「へー」
ニースのカーニバルってなんだか有名だったような気もするけど、どんな祭だったっけ。一瞬そんなことも考えたが、そんな俺の思考を断ち切るように、髪奈は興奮して声を高くする。
「すっごいの、青と白だけで描けちゃうくらいホンットに青と白しかなくてさ!」
ばば、っと嬉しそうに両腕を広げて、大きな身振りと声で髪奈は言う。
「あたしにとっちゃカーニバルなんて二の次だよ」
「はは、らしいな」
将来的には、っていつのことなんだろうという不安が俺の中に生まれる。もしもその時にまだ付き合っていたとしたら、きっと髪奈は俺を置いて行ってしまうのだろうか。今はまだ、そんな気がする。
ふふん、と笑った後に、広げた手をぱたり、と下げた。
「……」
そしていきなり黙り込む。
「つまんない?」
「は?」
不安が顔に出てしまったか、生返事になってしまったか。
「何かあたしばっか喋ってる」
「今はあんたの話、聴くときでしょ」
笑顔になって俺は言った。自分自身の不安を隠すように。俺に、髪奈の好きを止める権利はない。だから、髪奈がその時に一番だと思うことをやれば良い、と頭では理解している。けれど、じゃあ髪奈を好きな俺の気持ちはどうしたら良いのか。
「だってさ、自分のこと喋んないじゃん」
「だからね、そりゃ話したっていいけど、今、あなたが喋ってんのに、同時に俺が喋ったら会話になんないでしょうが」
それにきっと俺の話なんか面白くもなんともない。そして俺の中に生まれてしまった不安を、零してしまうかもしれない。
「うん……」
「何が不安なの」
俺を繋ぎ止めておくような、そんな態度が髪奈には時折見え隠れしているような気がする。でもそれはきっと俺も同じ気持ちを持っているからなのだ、と判る。お互いに持っている焦燥感。そんなものが俺と髪奈にはあるのかもしれない。
「何も言ってくんないから」
「は?」
「いくらあたしが好きって言ったって一方的なら付き合ってることになんないじゃん」
「え、でも付き合ってんだから一方的じゃ、ないでしょ」
俺はちゃんと髪奈が好きなのに。
「あのさ、あたしに付き合ってくれてる訳?」
何だ、急に。
「情けで付き合ってくれてるんならそんなのあたしに失礼だよ。あんたさ、前に男見下してる、ってあたしに言ったことあるけど、あんただってそうなんじゃないの」
「気持ち、伝わんない、とか、そういうの?」
「そうでしょ。何をするにも全部あたしからでさ、名前だって満足に呼んでくんないじゃん」
伝わってない。
足りてない、ってことか。
俺は髪奈の頭に手を乗せて、振り向かせる。
今の俺の不安は、とりあえず横に置く。今不安なのは多分俺よりも髪奈だ。だから、少し佇まいを正して俺は髪奈と向き合った。
「大丈夫だって。俺は口下手だしさ、あんまり大したこと、言えないけど、でもさ……。何っつーのか、俺は、あんたと、付き合ってんだよ」
付き合ってやってるんじゃない。付き合ってるんだ。
言えないことなんか山ほどあるけど、言わなくちゃいけないことも言えないかもしれないけど。
「わかんない」
「判んなくていい。でも俺は、あんたといたいから」
「……」
また急に黙り込む。
「言葉が欲しいとか、そういうの、ちゃんと返してやれないこともあるけど、でも、情けで付き合えるほど器用じゃない」
「……」
「俺はね、女と付き合うのだって初めてだし、判んないことだっていっぱいある」
だから求めてくるもの全部、ちゃんと応えられる訳がないんだ。応えられるものなら俺だってちゃんと応えたい。初めて髪奈を抱いた時に、髪奈自身「初めからなんてできっこないんだし」と、そう言っていた。
「……ごめん」
「や、全然いいけど。だけど、さ、俺、あんたの思ってるように動ける自信ないし、思ってることだって判ってやれないことだってあると思う。それを言い訳にして居直りたくないって思ってるけど、だけど、言葉がなくちゃ判んないことだっていっぱいあるはずなんだ」
「うん」
俺に身体を預けるように寄りかかり、髪奈は急に素直になった。
「だから、そういうの、上手く行かなくてイライラするかもしれないけど、さ、一回や二回で諦めないで欲しい、ってのはあるよ」
あまり判らないけど、そのくらいの失敗で気持ちが途切れるようじゃそもそもが駄目なんだろう。
「あんたが俺を突き放さなきゃ、俺は、あんたの傍にいるよ」
それじゃ駄目なのか。そう問えはしなかった。
「うん。判った」
「俺だってさ、あんたの我儘とか、そういうの、付き合ってやりたいって思うし」
基本的な、根本的なものが全然違うのかもしれないけれど、だからってそれが駄目な理由にはならないはずだと信じたい。たとえこの先、髪奈が海外に留学する道を選んだとしても。
「じゃああたしは、それだけ信じるから。そしたら、大丈夫なんだよね」
髪奈の問いに俺は無言で頷いた。
でも。
「俺のことでそんなに不安になってくれる、ってのさ、何か、ちょっと嬉しかったり……」
「うわ、それって性質悪い……」
据わった目で髪奈は俺を見据える。
「あ、い、いや、そういうんじゃなくて」
「悪名高い髪奈が一人の男にこれだけシンケンになるのがイガイ、ってことでしょ」
つい、と顔を背けて髪、いや、
「あ、それは、ある」
「ひっどーい!……つったってまぁ、それは仕方ないけどさぁ。今までが今までだしさぁ」
「でもさ、俺が気にしてなきゃ別にいいんじゃん?」
「……そういうことじゃん?」
口調を真似て裕江は笑った。
俺が判っていて、裕江も判ってくれたんなら、それで良いってことだろうな、多分。きっとそれで、俺の不安は伝わってる、と思う。そして裕江の不安も俺に伝わったんだし。
誰かのそばにいるって言うのは、きっとそういうことなんだ。自分の不安も、相手の不安も、一度全部テーブルの上に出して、一つ一つ話し合って更新して行く。
きっと彼女にだけじゃなく、友達や、家族とだって、そうしなきゃいけないんだろう。
09:不安の確認 終り
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