08:内輪と蚊帳の外
何でも
アトリエのドアの前に立つと何やら話し声が聞こえてくる。髪奈の友達でもいるんだろうか。アトリエの引き戸がカラカラカラ、と軽い音を立てて開く。
直ぐに髪奈の声がはっきりと聴こえてきた。が、それはいつもの馬鹿みたいに明るい声ではなく、怒気を孕んでいた。
「あのさ、美術サークルの人間がアトリエで絵描いて何が悪い訳?」
剣呑な髪奈の声音。その内容も穏やかなんてものじゃない。
「悪い訳じゃない、っつってんだよ」
髪奈と話しているのは男だ。
「この通り、こんな端っこで別に占有してる訳じゃないし。あたしのこと嫌うのは全然構わないけどね。そっちが勝手に入ってこないだけでしょ。あたしがいたら画、描けない訳?」
「お前のさ、そういうところがサークルの輪を乱してるっつーんだよ」
「輪ぁ?サークルの連中みんな仲良しこ良しでやってきたい訳?アンタさ、あたし以外にもムカついてる奴いんでしょ?」
髪奈の声は感情が高ぶっているのが判るが、言っていることは間違っていない。男の方は言葉に詰まっている。こっちからじゃ顔は見えないけど、俺よりは背は低いな。
「俺のことなんて関係ないだろう」
「アンタのことでしょ。アンタがあたしのこと気に入らないからそういうの、言ってきてるんでしょ?他の連中入ってこないだけであたしになんも文句言ってきてないよ」
「あのな、話聞けよ」
髪奈は髪奈でやっぱり頭にきてるんだろうな。口は出さない方が良いだろう。何だか髪奈の方が有利みたいだし、多分、言ってることも間違ってる訳じゃない。
「あのさ、辞めさせたい訳?あたし、サークルのメンバーに何かした?」
「そういう訳じゃないってんだよ。聞けよ、話を」
「だからその前に答えなさいよ。美術サークルの人間がアトリエ使って絵を描いてて何がいけないのか。それが筋ってもんでしょ」
「あのなぁ……」
強いな。まぁ間違ってることは言ってないんだし、それも当然か。
「気に入らないだけでいちいちイチャモンつけるんなら付き合ってらんないよ」
ぴしゃり、と言い放ち、男から視線を逸らす。我が彼女ながらキツイ女だなぁ。
「う、あ……」
逸らした視線の先にはどうやら俺がいたらしく、髪奈は俺を見て固まった。
「い、たの……?」
急に小声になって赤面する。呼んだのあんたでしょうがとも思ったが、髪奈としては激高している自分なんて見られたくなかったってことか。でも見ちゃったもんは仕方ないよな。大体呼び出したのは髪奈なんだし。
「まぁその、言ってることは間違ってるとは思わないけど、事情は、良く知らないし」
言った俺に顔を向ける男。なんだか底意地悪そうに見えるのは私見だろうな。絶対。
「事情知らない?あんたさ、自分が事情そのものだって、判ってないわけ?」
おっと、何だこいつ。いきなり攻撃的だな。
「……意味判んないすけど」
「あんたもこの女の悪名のうちの一人なんだろ?どこの誰だか知らないけど」
失礼な男だな。こんなのが大学生だなんて良い恥さらしだ。だから最近の学生はどうのとか見当違いなことを考える奴らが……。いや近頃の若い者は、なんて江戸時代から言われてるって言うじゃないか。別にこいつ一人のせいという訳ではないな。
ともかく。
「どこの誰だか知らない初対面の人間に、大した口の利き方ですね」
ちょっと頭にきた。
「それに、絵描きにモデル頼まれて、モデルやって、それのどこが悪名なんですか?」
「そのことじゃない」
男はバツが悪そうに言う。自分が不利だということは一応判っているらしい。
「そういう話でしたよね。絵描きが、サークルの人間が、アトリエ使って文句言われてるって」
「事情知らない、ってあんた、自分で言ったじゃないか」
髪奈の言った通りのことを俺も言うと、男は更に訳の判らないことを言い出す。要するに、全部髪奈の言った通りのことだ。この男は結局髪奈のことが気に入らないだけで文句を言ってきているだけにすぎない。安い人間なんだろう。
「その事情を知らない人間に対して頭ごなしに事情だ、って言いつけたのはアナタでしょ」
何言ってるのか判ってるのか、自分で。判ってないんだろう。だからはぐらかして、矛先を逸らして。
「髪奈の噂くらい、聞いてるんだろ」
「恥ずかしい人っすね、アンタ……。どんな噂が立ってようが俺が
いい加減俺も頭にきて言い放つ。本当にこんなくだらない人間には付き合っていられない。
「……」
「裕江と誰が付き合うとかなんてアンタに申し立てする必要ないし、どんな付き合い方してるかなんて、それこそカンケーないだろ。絵描きとモデルのプライベートにまで口出しすんのか、このサークルは」
「そういうこと言ってんじゃ、ない……」
「アンタの女との関係に俺も首突っ込んでやろうか?ゴシップばっか気にしてるくだらねぇ連中みてぇによ」
アトリエの中に入り、俺は男の目の前に立つ。一発殴ってやりたい気持ちもあるが、流石に手は出せない。それにまだまだ俺の怒りも自制が利く範囲だ。
「あ、ね、ねぇ、もういいよ……」
俺の剣幕に驚いたのか、髪奈が割って入ってきた。
「良くない」
俺は髪奈を嗜めるように言う。
「アンタが裕江を気に入らないってのは良く理解できましたよ。誰にだってムカツク人間の一人や二人、いますからね。本当にムカツクんならシカトしといてくださいよ」
いい迷惑だ、と言い放ち、俺は髪奈の手を取った。
「行こう」
「え、で、でも、絵!」
髪奈が振り返った方向にイーゼルが立っている。
「今、気分じゃない」
こんな気分で見たって意味がない。折角惚れた女に描いてもらった俺の絵なのに。
「待って!」
髪奈は俺の手を振り解いてイーゼルの上に載っていたシーツのかかった絵を抱えた。
「行こ」
俺と髪奈はもう振り返りもせずにアトリエを後にした。
「サークル、辞めちゃえば?」
あんなくだらない人間がいるなんて。そりゃあ髪奈は悪い噂があった女だけれど、今は俺と付き合ってる。誰に何を言われる筋合いはないはずだ。
「そうだね。辞めたって絵は描けるもんね」
駅からほど近い公園を歩きながら髪奈は言う。あんなムカツクことがあったのに髪奈本人はやたらとニコニコしている。
「何ニコニコしてんすか、あんた」
俺はまだ少々ムカッ腹だっていうのに。
「へっへっへぇ」
……何だ。
「ユエって呼んでくれた」
あ。
「……そ、それはね、イキオイというか、何と言うか」
かっ、と顔が熱くなる。
「あ、あの場で、髪奈って呼べない、でしょ」
付き合ってんだし。
「そのままユエでいいんすけどねー」
ニマニマしながら髪奈は言う。不気味だぞ……。
「ま、まぁ、それは、判った。……で、それ、見せてくれんでしょ」
「そりゃまぁ……でもここで?」
一瞬、逡巡して髪奈は問うてきた。別にどこでもいいんだけどさ。
「そしたら俺んち、くる?」
思い切って言ってみる。
「いいの?」
「きったねー部屋でいいんならね」
俺がそう言うと髪奈は嬉しそうに頷いて、絵を抱えていない方の腕で俺の腕に絡み付いてきた。俺はそんな髪奈の笑顔を見て、心底髪奈を愛しく思っている自分に気付く。
そしてそれと同時に、拭い切れない、言い知れぬ不安にも気付かされた。
08:内輪と蚊帳の外 終り
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