プロローグ 志葵めぐる①
乱雑に立てかけられた刀。触ると祟られそうと思うほど鮮やかなターコイズブルーの石。達筆すぎる文字で何を書いているのかわからない巻物や和綴本。何か機構の一部のような木製の歯車。人一人入れそうな巨大なすり鉢状の器。謎の糸束。色水。
蔵の扉を開けると、自分の家系がかなり古い由緒のもとにあることを理解させられるような風景が目の前に広がった。
あと3年で23世紀になろうかという年の秋分の頃、
ある程度整頓されているとはいえ、物量に押しつぶされるようにごちゃりとした中で一際目を引いた真っ白な表紙の一冊は、蔵に入って右側、方角にして北の壁に祀られた神棚に立てかけられていた。
神棚の下には古い焼桐に仕上げられた箪笥が置いてある。榊は最近替えたのか青々としていて綺麗に手入れがされているようだ。なんとなく二礼二拍し、うろ覚えの祝詞を宣って、一礼してからその本を手に取った。機能性などはじめから捨てたかのような、2kgはあろうかという分厚く重い装丁だった。白いハードカバーには埃もかぶっておらず、カビ臭さもなく長年放置されていたとは思えない。そのさまが不気味さを助長して、触ってしまったことを一瞬後悔した。表紙を見ると中心に記号のような図柄が描かれており、その下に最早掠れて読めないが漢字らしい文字で何か書かれていた。この本のタイトルだろうか。
・・・胃から背骨にかけて冷たいものがじんわりと広がるような感覚に襲われた。神棚に立てかけて祀っているくらいだから、当然古文書か預言の書のような、さながらをのこ草子とか竹内文書とかヴォイニッチ手稿とか、その界隈のものだろう。ロマンが過ぎる!めぐるはワクワクした気持ちを抑えられないのか、ふひと笑った。
◇◇
志葵家は代々神道の家系だ。遠い昔に無人になってしまった
祭神は
そういえば、もう一柱、お祀りしている神様がいた気がするが、めぐるは思い出せなかった。アメノミナカヌシみたいな名前だった気がするけど、古事記などの古史古伝の書物や神話で見たことない名前だった。なんだったっけ・・・。一番もどかしいところでつっかえているようで気持ちが悪い。
とにかく、そんな古い神社の蔵にひっそり保管されているような書物だ。期待しないほうがおかしい。
ゴム手袋越しにも伝わるこの重厚感!何が書かれているのだろう。早く読みたい。しかしめぐるはソワソワする気持ちを抑え、その場で開くことはしなかった。
こういうものは「どこで」「どのように」読むかが大事なのだ。読書とは、環境とセットで楽しむものだ。読む場所はあそこしかない。元宮の中、その中心に書机–––蔵に置いてある古いのがいいだろう–––を南向きに置き、禊をしてから正座して読もう。
めぐるは、ひとまずその本を自室に持って帰ることにした。
◇◇
この塩青以神社は少し変わった造りになっている。敷地がまず六角形をしていて、北東側、つまり鬼門の方角に鳥居があり、くぐるとすぐ左右に何ともいえない形状の灯籠が建っており、参道を少し進んだ左手に手水舎、右手に社務所がある。そのまま進むと本殿があり、その右側にある常緑樹の森を突っ切るように志葵家宅への道が細く続いている。
小道の途中、木々や草に隠れて見えないが横道がある。その先に元宮があるのだが、参拝客が入れるのは本殿までで、元宮の存在自体知っている人は少ない。その存在を守るように木々が覆い被さって生えていて、人工衛星からも屋根が枝葉に隠れて見えないようになっている。
元宮に用があるのは、志葵家が定期的に行う祭祀の時の関係者くらいで、オフシーズンの今ならゆっくり楽しめるだろう。
そんなことを考えながら、めぐるは本を片手にそっと蔵を出、早足で自室に戻ろうとした。
蔵は、自宅の裏に座しており、めぐるの自室も同じく裏手に離れとして建てられていた。なので母屋の中を通らず、庭の畑を抜けてそのまままっすぐ自室に向かうだけなのだが、こんな時に限って母の
「やべえ」めぐるは思わず呟いてしまった。耳ざとくその声に真日路は反応して、こちらを振り向いた。二十メートルは離れている。なぜ聞こえるのだ。
めぐると目が合うとすぐその視線を下にやり、めぐるの手元で止まった。そして恐怖と怒りがないまぜになった表情をしたかと思うと、農具を放り出し、ものすごいスピードでこちらに走ってきた。その様は鬼気迫るという言葉そのままで、めぐるは正直命の終わりすら視野に入りかけていた。とんでもないことをしたのだと、母の形相を見てすぐに悟った。
「めぐっ、その本に触るな!」言うが早いか、真日路はめぐるの手から本をはたき落とした。どんっという落下音からこの本の重さがうかがえる。
真日路は、呆然とするめぐるの襟首を掴むと、乱暴に井戸に引き摺って行き、頭から水を被せ、全身を擦り始めた。真日路は何やらぶつぶつ呟きながら、めぐるを洗った。
「つめたっ!え、お母さん、なんなん…!?やめて…痛っ!さむい!」
「あんたは…あんたはほんまに…!蔵の物には何一つ触るないうたやろ!祟られるって教えんかったか!どういう目に遭うかも話してやったの覚えてるやろが!忘れたんか!」真日路の目には涙が浮かんでいた。めぐるは罪悪感でいっぱいになり、「あの本がどうしても気になって、読もうと思って…」右頬に熱い衝撃が走り、思わず手で覆う。ついに涙が出てしまった。
「あの本は、神前に捧げた神聖な供物やっど。軽々しく持ち出すような真似、絶対したらあかん代物やってわかるやろが!死んでまうがね!」真日路は本気で怒ると故郷の方言が混ざって変な言葉遣いになる。
「本を読んだだけでなんで死ぬん?」
一心不乱にめぐるの体を洗っている真日路は、息が上がり始めていた。
「わからん、わからんがあんたが産まれるちょっと前に、蔵に盗みが入って、あの本が無くなったことがあったんや。それからすぐ近所の家で人死にが出た。前から噂になってた手癖の悪い嫁がいると言われてた家やった。まずは生まれたばかりの赤ちゃん、それから旦那、息子、娘と1ヶ月経たずでその嫁と姑以外全員死んだ。」
ごくり、と喉が鳴った。「でも、この本のせいって何でわかるん」
真日路はその問いには答えず続けた。
「それから1週間くらい後や。神事のために蔵から神具出そうと扉を開けたら、真ん中でその嫁があの本抱えて俯くように息絶えとった」
じゃああれはしばらく死体に抱えられていた本ということか。めぐるは思わず両手をジャージに擦り付けて、見えない不浄な何かを拭おうとした。
「持ち出したことは本当にごめんなさい。そんな怖いものって知らなかった。・・・じゃあせめて何の本か教えてよ」
真日路は、めぐるの懲りない好奇心に呆れつつ「知らん!お母さんだって読んだこともない。誰も読んだことない。お父さんも。おばあちゃんもや。室町時代くらいからうちにあったって言う話があるだけや。それも本当かどうか」と、吐き捨てるように言った。
「とにかくあれは触ったらあかんのや。まして読もうなんて。神前に供えあげた物を持ち出すと思わんかったから油断したわ。蔵には入るな言うたやろが!ほんま罰当たりが!」そう言って真日路はめぐるの頭頂をゲンコツで小突いた。
「本は大祓いする。ほんまお
そう言って真日路は本に向かい、手を合わせて何やら呟いた後、いつのまにか持っていた布で、本を何重にも包んで持って行った。
めぐるはビショビショのまま、その場に立ちすくんでいたが、自らのくしゃみで我に帰り、トボトボと自室に戻った。
自分が持ち出したあの本はとんでもない物だというのはわかったが、絶対仕掛けがあるはずだとも思った。仕組みがわかれば回避できるとめぐるは思い至ると、あれだけ怒られたにも関わらず、本への興味は膨れ上がっていた。何とかして読めないだろうか。しかし仕組みがわからない以上迂闊に触るのはやめておきたい。祟りなんて信じていないが、あの本を巡って死人が出てる以上無視はできない。
めぐるは、明日もう一度蔵に入ろうと決めて、今夜はもう母に会わせる顔もないし、このまま寝てしまおうと横になった。
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