晴天の地下室
柿木梓杏
プロローグ 起き始める世界
––––––世界が揺らぐ。
波打つような頭痛が、消えそうな意識を現実に引き戻す。体が動かない。宙に浮かんでいるような気分。
〈–––ここはどこだ〉声に出したつもりだったが、聴覚が捉えたのは右耳からリズムよく聞こえる電子音のみだった。もう一度口を開ける。今度は大きく。叫ぶ。しかし口から溢れたのは吐息だけだった。
もう一度体を動かしてみる。指先が動いた感覚があったと同時に何か液体に触れて、ちゃぷん、という音がした。水浸しのベッドに横たわっている。
何があった。何か病気か。倒れたのか?視界がぼやけている。頭がうまく働かない。思い出そうとするが、大きな壁があるようで、それ以上遡れない。うまくまとめられなくて、もどかしく、イライラする。
目だけを左右に振ると、内側がクッション地の箱状の物に横たわっていることがわかった。左側の壁面に自分の名前と生年月日、何かの日付、妙な番号、それから写真が載ったプレートが貼られている。少し思い出してきた。そうだった。僕はいつもの・・・眠い。
再び目を開けると、はめ殺しの窓からオレンジ色の光が部屋を照らしていた。夕方のようだ。さっきより意識がはっきりしている。もう一度体を動かしてみる。腕が少し上がり、関節に痛みが走る。拘縮具合から、自分が随分長い間眠っていたのだということが分かった。一週間ほどと聞いていたが、ここまでガチガチになるだろうか。
次は足に集中してみる。つま先、そして足首が動いた。少しずつ、少しずつ。体の中心に向かって意識を広げていく。膝。下腹部。肩。胸部。首。眠い。
再び目を閉じようとした時、扉の開く音がして、人が入って来る気配がした。小さく軽い足音。狭い歩幅。150cm前半くらいか。小柄な人。
箱の淵からぬっと顔が現れた。思った通り、小柄な女性だった。服装からすると看護師か。ということはここは病院か。眠気が少し飛んだ。
鼻歌まじりに、恐らく心電モニターらしき箱を見て何やらタブレットに入力している。ふんふん言いながら向きを変えて僕の足元を見ると、少し訝しげな顔をした。僕がくいくいと足首を動かしているからだろう。目線がゆっくりと、腹部、胸部、首、口元と辿っていき、ついに目が合った。彼女の表情がこわばり始める。
なんとか声を出そうとしてみたが、掠れた音が口から漏れるばかりで、脳からの命令と体の反応が剥離していてまるで自分が分裂して置いてけぼりにされたような気分だった。しかし声にもならない空気の振動でも看護師を気づかせるには充分だったみたいで、しばらく固まっていたかと思うと、みるみると顔色を悪くし、ひゅうと大きく息を吸い、じりじりと後ずさった。叫ばなかったところはやはりプロといったところか。そして踵を返し部屋を飛び出した。部屋の外からなにやら崩れる音や、金属のぶつかる音が奏でられている。
心電モニターがピッチをあげて、僕が動揺していることを教えてくれる。心臓の存在がはっきりわかるほど、跳ね上がるように胸中で踊り狂っていた。
刺激のおかげか、頭もはっきりとして来た。同時に、怒りのような、落胆のような、なんとも言えない悲しみのような、とにかく、無力感に包まれた。聞いていた話と違うではないか。回復したら真っ先にあの二人に会いに行く。クレームを言わねば。
しかしほっとしている自分もいる。ひどい倦怠感も、沸き起こってくるのを抑えられない不満と怒りが、自分はまだ生きていると実感させてくれると思えば、幾分愛おしく、なんなら少し二人を許そうとすら思えてくる。いやそんなわけない。HAKASEと
再びドアの開く音がした。先ほどの看護師に続いて、大きめの歩幅で踏み込みが重い恐らく大柄な男性とそして少しチャラそうなカツカツした足音の男性が入ってきて、少し遅れてもう一人すり足気味の小さい歩幅で少し神経質そうな足音の女性が続いた。
大柄な割に丁寧で信念を持っていそうな足音の男性は医者だろう。その後に入室してきたチャラそうな足音の二人は、これまでの燦々たる経験で予想できる。寝起き早々いきなりか。何も喋れないぞ僕は。
ベッドの淵から看護師に続き三人が顔を覗かせ、こちらを凝視した。予想通り。僕の感性は失われていない。寝起き早々、一気に日常に戻された気分だ。
僕は彼らを無視してもう一度眠りにつこうと目を閉じた。それは、かつてうんざりしていた日々へ戻れることを噛み締めたいからというのと、彼らの体に付けられている機器が自分の知っている範疇を大きく超えたものであり、そしてそれらの機器にプリントされた見覚えのあるロゴから、もしかして自分はとんでもなく眠っていたのではないかと言う不安からの逃避のためであった。
看護師達が口々に僕の名前を呼ぶ。まるでもう充分寝ただろう、いい加減起きてくれと言わんばかりに連呼され、僕はしぶしぶ目を開け、そしてふと別の不安が過ぎった。
あの子達はどうなったんだろう。心の拠り所だった、あの美しい、まさに偶像だったあの子達。
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