17、決別

 彩音の発信源の方へ真っ直ぐ目を向けると、身長程度の茅が生い茂る林が広がっていた。ショートカットとスニーキングを兼ね、僕は林の中を数十分歩き続けた。乾いた草を掻き分け、ようやく開けた視界の先にハイウェイの高架が見えた。その手前には高架から下道に繋がるスロープが伸び、端から端まで渋滞の列が伸びていた。ここで一度、彩音にコールを掛けたが繋がらず、僕はあの道のどこかに彩音が居る事を信じて草地を渡った。渋滞の路上は、車を降りて様子見をする人達で騒ついていた。車の列を辿り、遂に彩音が示した地点に到着したが、そこに彩音の姿はない。見知らぬ家族連れが、何も言わずただ不安げに市街地の方を眺めていた。

 ここに彩音は居ない。僕はスロープを下り、一般道との交差点まで確かめに行く事にした。渋滞を引き起こしている原因がある筈だ。ハイウェイの下をくぐり、見えて来た料金所エリアには大勢の人々が集まっていた。集団からは罵声が飛び、皆が何かを訴えている。そしてようやく彼女を見つけた。群れの際で、彼女はガードレールに身を寄せていた。僕が彼女の名を呼ぼうとした矢先、彩音はこちらを振り向いた。彼女は僕に抱き付いて泣き始めた。まるで数年振りの再会に思え、僕も涙を貰いそうになる。


「家に居ろって言っただろ。どうして朝から札幌へ向かったんだよ」


「札幌で入院してるパパの容態が急に悪くなっちゃったんだよね。でも途中で何だかもうよく分からなくて」


 彩音の声は震えていた。こんなに頼りなく弱々しい彩音を初めて見た。僕は頑なに抱き締めたまま、彼女への思いを口にした。その傍で、群衆の騒めきは激しさを増していたが、彩音に状況を聞いても、「よく分からない」と言うだけであり、答えたくないという含みも感じた。


「ちょっと様子見てくるよ」


「待って」


 彩音は一人を拒んだ。彼女は僕と腕を組み、二人で料金所に群れる衆の脇を抜けた。その先に着いた時、騒ぎの理由が目に焼き付いた。群衆の先は開けた大きな交差点だ。クロスする四車線の道を跨いだ先に、大きな車が止まっている。鉄板を組み合わせて作った、ボートの様な形をした黒い塊が止まっている。その周りに大柄な男達が徘徊していた。彼らのシルエットは、さっき撃って来た兵士と酷似している。厚手の迷彩服にヘルメット、黒い銃を持っており、しゃがんで群衆に銃口を向けている者も居た。ボートは装甲車なのだ。その背後に同じ色合いの車両が列をなしている。自分の立つ位置からは、車列の果てを確かめる事が出来ない。

 僕は硬直して眺めていた。彼らと群衆の間には、交差点一つ分の距離があった。しかし、その路上は荒れていた。知らない人間達の死体が転がり、ワイン樽をぶち撒けた様に血が路面を汚している。腕や指先を動かしている者も居た。それが何かの事後である事を克明に物語っていた。


「敬愛なる市民の皆さん、道を開けて下さい。(ロシア語)」


 スピーカーから野太い声が響く。音に反応した市民達がさらに声を荒げる。その時、対岸の兵士達が一斉に銃をこちらに向けて来た。群衆の一人一人がバラバラに右往左往し始める。


「逃げよう!」


 僕は反射的に叫んでいた。背中を向けた時、連続した破裂音が響いて来た。僕は目の前のガードレールを飛び越え、彩音を窪んだ草むらに投げ入れた。二人で窪みに倒れ込み、銃声が止むのを待った。彩音は動転している。銃声は一時散発的になるものの、止む事がない。僕は両手を地面に付き、そっと頭を上げ交差点の様子を伺った。射手達は未だ移動せず、交差点の向こうから銃を構えている。目の前で横たわる人の数は増えたが、人々は四方八方へ走って逃げていた。そんな中でも、奴らが撃つ方向は概ねハイウェイ入り口の方に集中していた。


「チャンスだ!横の道へ走ろう」


 僕は彩音の肩を叩き、彼女が起き上がると同時に片腕を掴んで走り出した。窪んだ草地を抜け、クロスする一般道に沿って、頭を下げたまま走り続ける。


「こっち、大丈夫なの!?」


 その通り沿いにも、彼らの車列があった。ボンネットトラックに四角いバン、その何れにも側面に白いペンキの様なもので大きくZと記されている。その車列には、ほとんど人影がない。軍服を着た人間が一人、奥のトラックに寄り掛かっているのが見えるだけだ。僕は車列を盾にする様に走った。そして途中で妙な車を見つけ、立ち止まった。


「何やってんの!」


 彩音が叫ぶ。


「あの車、エンジンが掛かってる」


 それは列中に停車したオリーブ色のバンだった。見た感じ、車内は無人だが喧しくエンジン音を立てている。アレで逃げ切れないだろうか。僕は賭けに出た。動転する彼女の手を引き、一か八かで助手席のドアノブを引くと、鍵は掛かっていなかった。


「乗れ!」


 ドアを開けた目の前にはハンドルがあった。左ハンドルだ。しかし反対側は危険なので、彩音をそのまま奥の席に押し込んで乗り込み、ハンドルやシフトレバーを触れて操作を確かめた。直感的に握ったレバーを押し倒してブレーキが解除されると、バンを車列から出して一気に加速した。手探りでシフトレバーを弄り、走らせながら不慣れなミッション車に慣れていく。激しい銃声はどんどん後方へ遠ざかってゆく。


「とにかく戦場から離れて、落ち着く場所を見つけよう」


 札幌郊外を南北に走る片道三車線の道路を北上しながら、ハイウェイを使わずに東へ向かう道を探していた。減加速を繰り返しながら、侵略者の手土産に慣れつつあった。やや上を向いたフラフープの様なハンドルに、細い鉄パイプを床に突き刺したかの様に並ぶレバー類。バンの外見に似合わない、まるで古いトラックの様なレイアウトだ。後ろは座席もない広々とした空間で、木箱などの資材が転がっている。追手がいない事に一安心し、赤信号でエンジンが大人しくなると、背後でずっと流れていたCDプレーヤーの曲が耳に入ってきた。席のすぐ後ろでアンテナを伸ばして転がっている。ラジオ兼用の角張ったデザインで、丸い網目から何やら合唱が聴こえる。


「なんて言ってるのか分からない」


 助手席の彩音は言った。彼女は膝を抱えて顔を埋めている。CDプレーヤーの細長い液晶には、読み取れない文字が浮かんでいる。この曲のタイトルなのだろう。適当なボタンを触って曲を飛ばした。切り替わった液晶が表示したのは、Тату-Нас не догонят。


 青信号で走り出すと同時に、バンドの軽快なリズムが始まった。それから突然サビに入り、アクの強い女性ボーカルの歌声が響いた。


「この曲、聞いたことある。タトゥーだよ!懐かしい」


 彩音は顔を上げた。悲劇を忘れるための、束の間の素材を掴み取った。


「オレも覚えてる。どこで聞いたんだろう」


 彩音が口を開いてくれたのが嬉しかった。名前も知らない、でも知っている曲。異国メロディでありながら何故かとても懐かしい、暗い、でも情熱的な記憶を呼び起こした。


「炎みたいな曲」


 呟く彼女は外を眺めていた。時間は午前8時25分。雲の裂け目が大きくなり、今になってようやく街並みが朝の陽気を帯び始めた。朗らかさに浸り、少し肩の力が抜けた矢先、左手に見えていたショッピングモールが爆発した。彩音は絶叫し、コンクリート片の雨が道路に降り注ぐ。ショッピングモールのシルエットは、砂煙の中に消えてしまった。大型の施設はターゲットにされるのかもしれない。


「もう少し郊外に出たら、車を乗り換えよう」


 彼女はとにかく頷いた。どこかに良い車はないか。鍵を回すタイプの古い車なら、配線結合でエンジンを掛けられる。商用車でも何でもいい。交通量の少ない路上から、血眼になって車を探した。道を一本逸れて住宅に囲まれた道路に入ると、小さな月極駐車場が見えてきた。そこを通り過ぎる時、丁度良さそうなセダンを見つけた。駐車場を少し過ぎた路上でバンを停め、彩音を残して僕はセダンに駆け寄った。もはや考える時間はない。胸のホルスターからピストルを出し、サイレンサーの黒い筒を銃口に取り付ける。親指でハンマーを起こすと運転席側のパワーウインドウに二発打ち込んでヒビを入れ、肘でガラスを砕いた。罪のない車は防犯ブザーで抵抗する。割れた窓から車内のロックレバーに手を突っ込み、ドアを開け、ハンドル基部に刺さった配線を引っこ抜く。配線同士を手で繋ぎ直し、エンジンが始動するとブザーは止み、ビニールテープで配線を繋ぎ止めた。幸運な事に、燃料は八割満タンに入っていた。


 すぐバンに戻って彩音を連れ、急発進でドアを閉め路上に飛び出し、放置されたZバンの横を駆け抜けた。彼女は天井の取っ手を両手で掴んでGに耐えている。さっきまでの大通りに戻ると、再び穏やかなドライブに戻った。


「この車は?」


 ぼやく様に彼女は言った。僕が答えに困り少し間を作っていると、彼女は目線を前に戻しシートに腰を落とした。さっきまで体育座りでうずくまっていた彩音は今、リラックスして座っている。


「寒かったの」


 彼女はそう答えた。運転席から絶えず外気が入って来るが、乗り慣れたセダンは落ち着く様だ。青い道路標識を頼りに進み続け、途中で二車線の細道へ右折した。山中の峠道を抜けて、最終的に千歳の方へ抜ける道だ。人里を離れ、平坦な草原の中心をアスファルトが跨ぐ。割れた窓から肥やしの臭いが立ち込めて来る。鼻を歪めて臭がる僕を見て、彼女は笑っていた。ここが故郷の彼女にとっては自然で当たり前の事なのだ。牧場を多く構える北海道の特色だった。やがて道中に、駐車場の広いコンビニが現れた。ここで食料を買い溜めしよう。そんな行為に及ぶ市民はまだ少ない様で、広い店内は品揃えが充実していた。彩音は再び混乱した様子で、トランクに爆買いした食料を投げ込む様子を眺めていた。インスタント麺にスナック菓子、二リットルボトルの飲料に粉末スープ。満遍ない種類を買えるだけ買い込んだ。あとは、移動を繰り返しながら隠れて過ごそう。治安が落ち着くまでは、彼らにアプローチする事さえ危険だと知ったから。


 二人は食料を見た途端に空腹を思い出し、おにぎりを頬張りスナック菓子の袋を開けた。何かを話すより、食べる事に夢中だった。疲労が食欲に拍車をかけたらしい。彩音の下唇に米粒がついていたので吸い取った。腹を満たした二人は口も動かさなくなり、真昼の日差しの下で意識を失った。この場所に居ると、さっきまでの地獄が幻の様に思えた。


 目を覚ますと夜だった。乾いた目にコンタクトが貼り付いている。コンビニの駐車場で夜になるまで過ごしてしまった。しかし後ろを振り返ると、コンビニは看板の明かりも店内照明も点いていなかった。ここら一帯が完全に無人の様だ。フロントガラスから夜空を覗き込むと無数の星が散らばり、午前中の雲は完全に消えていた。彩音はサイドガラスに頭をもたれて眠っている。安眠の表情だった。彼女の寝顔と静かな星空を眺めていると、昼間の激闘が夢だったのではないかと錯覚する。北海道が戦場となった初日の夜は、普段以上に星空が綺麗だった。未来に想像を膨らませる。ロシア軍はあと何日で北海道全域に浸透するだろうか。午前中の様子だと、西海岸から札幌まで一気に進出したものの、組織立った進出線を拡げられず、山間部の手前で立ち往生を食らっていた様に見える。もし残存する自衛隊の部隊が再編を終えて組織的なゲリラ戦を展開できる様になれば、侵攻は遅滞するだろう。陸軍の電撃的な進出を可能とするために、内通者は存在している様なものだ。内通者の事前工作が功を奏して、防空網を含む大半のレーダーが無力化されている。こうして実際に内通者ネットワークが機能する様子を見ると、田中と僕が仕掛けた骨の折れる工作も、綿密に組まれた作戦のほんの一部に過ぎない事が実感できる。目に見えない戦いでは既に勝利している。あとは物理戦争に勝つだけなのだ。その先に、僕と彩音の幸せな暮らしが待っている。昂ぶる気持ちを落ち着かせようと、僕は残り少ない煙草を咥えた。


「圭ちゃん?」


 煙草を点ける音で彩音が目を覚ました。


「おはよう、お嬢」


 彩音は今いる場所、時間、ここで眠る事になった経緯を尋ねてきた。まだ寝惚けているのかと思い、僕が淡々と答えると、彼女は戦慄と悲しみを交えた表情を浮かべた。


「あれは夢じゃないんだね」


「うん、夢じゃない。何とかここまで逃げて来たんだ」


「殺されるよ」


「大丈夫だよ、彩音。きっと戦いは数日で終わるし、僕は彼らとコンタクトが取れる」


「数日で、あいつらは居なくなるのかな」


 その言葉を聞いて、彼女とは認識の前提が違う事に気付いた。


「あいつらって、あの撃って来た連中?彼らは居なくならないよ。残念だけど、彼らが北海道を占拠するんだよ」


 すると、彼女は驚いて目を見開いた。僕を不思議なモノでも見つけた様に、じっと見ている。いつかは伝えなければならない真実だ。僕は彩音に説明する事にした。これがロシア人による侵攻であること、日本側の勝利は絶望的である事、僕が実はロシア側と通じており彩音の身の安全は確保できるという事。つらつらと話している間、彩音はずっと僕を覗き込む様に目を見開いて動かなかった。


「通じてるって、圭ちゃんが?」


「そうだよ。実はノーナ自体がそうなんだ。侵攻をスムーズに進めるための所謂、内通者だったんだよ。黙っててごめんね」


 彼女は呆気に取られている。どう受け止めていいか分からない様子だ。


「あの会社が、、じゃあ私は?」


「彩音は直接的な内通者ではないけど、僕の方から保護を申し出る事はできる。今はまだ落ち着かない時期だけど、治安が安定すればまた平和な生活に戻るよ」


「そういう事じゃないよ!」


 彼女は声を荒げた。


「私がこの・・・、ひどい事件に関与してるって事?占領するためって、そんな。私はただ、お給料のために働いてたのよ」


「取り乱すのも無理はないよ。でも安心して。いずれこうなる筈だったんだ。だから今となっては、彼らと通じてる方がずっと安全なんだよ」


「そうじゃない!」


 彼女は怒りを露わにし、不審物でも見る様な目で僕を捉えた。


「圭ちゃんはどうしてそんなに落ち着き払ってるの?まるで、こうなる事がずっと前から分かってたみたい。彼らと繋がってるって、圭ちゃんの仲間なの?なら、もう止めるように伝えてよ!こんなのどうかしてる」


 彼女は両手で顔を覆った。僕は軽く動揺した。今、この現実を生き延びる上で、彩音は非常に重要な立ち位置にいる。しかし、それはメリット、デメリットの話であり、彼女の故郷がひどく傷付いている現実は変えられない。


「戦争なんだよ。とても悲しいけど」


 彼女は顔を覆ったまま、何も言わない。


「故郷が傷付いてて辛いと思う。僕も悲しいよ。でもこれはある種の自然災害みたいなもので、避けられない事だったんだよ。それはロシア人もきっと同じだよ。問答無用で撃って来た奴らも居たけど、僕の方から話しかけて、気さくに応じてくれた人達もいたよ。これは人と人同士の命のやり取りで、個人が働きかけたところでどうにもならない事なんだよ。だから・・・」


「圭ちゃんはどうしてそんなに落ち着いてるの?」


 彩音が言葉を遮った。


「私は圭ちゃんが、あなたが理解できない。あの朝倒れてた人達は夢じゃないんだよね?本当に死んでるんだよね。信じられない」


 惨劇に対してなのか、僕の人格に対してなのか、どちらの意味でも受け取れた。信じられない、と繰り返しながら両手を顔で覆っている。抱き締めようとしたが、彼女は拒否した。無言の気まずい時間が流れてゆく。暫くの間、彼女は両手の中で涙を流していたが、手の震えが次第に収まりゆっくりと両手を降ろした。彼女は前を向いたまま呆然として、僕が二本目を咥えた時に口を開いた。


「内通者ってどういう事?」


 僕はその言葉を、ほぼこだま返しした。内通者の仕事内容を全て説明するのは面倒だと思った。


「あなたは事務室でこっそりスパイ活動でもしてたの?私が気付かない所で」


「事務室では何もしてないかな。彩音が見てた通りだよ」


「じゃあ、何もしてないじゃん」


 彼女は即答した。


「あなたはお酒を飲んでくつろいでただけよ。私ともう一人が、基本的な事務を回してた。何もせずにどうして内通者が成立するの?」


「何もしてなかった訳じゃない。事務所の席を外してる時は車で資材を運んだり、山の中を歩いたりもしたよ。ノーナは時折来るスパイタスクを実行するための組織だったんだ」


「何でそんな組織を私が頑張って回さなきゃいけなかったの?私にはあなたが懸命に働いてた様には見えない。どうでもいいと思った作業は何も手を付けないし、それで不満を感じた事もあった」


 予想外の告白だった。


「あなたは協力してたと言うより、ただじっと待ってたんじゃないの?あんな人殺しが大勢雪崩れ込んで来るのを、心待ちにしてたんじゃないの?」


「打算的に言えば、そうだよ」


「酷いね」


 彼女は失望している。しかし、今ここで嘘をつくのも面倒だった。ヒューマニズムに訴えて非難を喰らうのは、やはりピンと来ない。道徳に拘束されて命を落とす位なら、何が何でも生き延びたっていいじゃないか。彼女は僕の中の人間性を見誤っていた事で、酷くショックを受けてしまったのだ。ここまで失望されるとは思わなかった。


「今ね、誰とも連絡がつかないの」


 彼女は真っ暗なスマホの画面を眺めていた。ジャミングが効いている証拠だ。僕と田中が設置したセンサーはジャマーだったのだろう。恐らく、他の面識のない内通者達も同様の任務を帯び、多数のセンサーを設置してジャミングネットワークを構築しているのだろう。


「ねえ、内通者さん。何とかしてよ」


 僕は耐えられなくなり、車を出た。北海道の十月の夜は寒い。綺麗すぎる夜空からも、透き通るような冷気が伝わってくる。この寒空の中で、一気に孤独に陥った。彼女を命懸けで助けたのに、すれ違いがこんなにも深刻になるなんて。僕は三本目を吸い終わると行き場を失い、再び運転席に腰を落とした。彼女は無の表情で呆然と前を見ている。感情を荒げる以前にまでリセットされたかの様だ。


「私ね、圭ちゃんの事が好きだったの」


 語りが始まった。僕の胸に、熱いものが流れ込んできた。


「圭ちゃんと初めて知り合った時、ちょっとシャイな人だなって思った。でも時々話すうちに、意見はハッキリ言うし良く笑う人だなって思ったの。少し個人主義っぽいというか」


「うん」


「だからね、圭ちゃんはよく分からない人だなって思ってた。それなりに長い時間を過ごしても、横顔を間近でじっくり眺めても、何考えてるのかよく分からない。圭ちゃんはどこか遠くの世界にいるの。だから惹かれちゃう事もあれば、寂しさを感じる事もあった」


「うん」


「そして今、もっと分からなくなってるの」


 彼女の心境は、その言葉に集約されていた。


「圭ちゃん、あなたはどこから来たの?どこの人なの?」


 最も答えたくない質問だった。


「どこの人なんだろうね」


 僕は夜空を見上げながら言った。


「ねえ、もう一度聞くけど、あなたはどこの人なの?」


 日本人、と答えると彼女は再び感情的になるだろうか。僕は答えなかった。


「圭ちゃんに、私の気持ちが分かって貰えるかどうか分からないけど、ここは私の故郷なの。ここで育って、色んな人と笑顔になって、時々傷付いて。故郷が傷付く事は、私自身が深く傷付くのと同じ様なもんなの」


「うん」


「でもあなたは、今の世界を心待ちにしてたんだよね。私はそんな事も知らずに、あなたに好奇心で近付いて、もっと振り向いて欲しくて頑張っちゃった」


 心の中が空洞になって行く。きっと、お互いにそうなんだ。


「あなたと出会わなければよかった。私がみんなを不幸にしちゃった」


 それが決定的だった。

 彼女への欲、溜め込んだ煩わしさ、受けて来た言葉の傷、全てが一つの熱量に変わり、腹の底から衝動が巻き起こった。僕は、燃え尽きた様な有様の彩音を強く抱きしめた。数秒間、目一杯の腕力で抱き留めていると、彼女は未来を悟り、全力で抵抗を始めた。勢いは全てを呑み込み、僕は彼女の両手を掴んでシートに押し付けた。全身で足掻く彼女にのし掛かり、隙を突いてシートのレバーを引くと2人は一気に後ろへ倒れ込んだ。


「離せ!!離してよ!」


 彼女の制服のジッパーを下ろそうと襟元に手を伸ばすが、抵抗され何度も引き剥がされるのでそのまま首を絞めた。意識を混濁させている間に、全てのジッパーを下ろし布を引きちぎった。もはや自己の内なる抵抗は感じなかった。むしろ、何をしても揺るがない自らの衝動に酔い始めていた。彼女に身体を重ね、突き果てるまで動き続ける内に、彼女の足掻きは次第に勢いを失っていった。


 行為の最中、横の窓から差し込む満月の光が終始、彼女を照らしていた。事後、僕は運転席で一服しながら、生気を失った女を眺めていた。陰部からは精液が溢れ出し、シートに大きなシミを作っている。衝動的に望んだ破壊のつもりだったが、この状況から新たな可能性が閃いた。僕は助手席の下に落ちていた彩音のスマホを手に取り110と打ち込むと、それをドリンクホルダーに立て掛けた。


 僕は車と彼女を置いて、来た道を徒歩で戻り始めた。カラシニコフを片手に、地の果てまで伸びる二車線の道路をまっすぐ辿ってゆく。広大な草原は満月の青白い光に覆われ、穏やかな波を打っている。今の心は、凪そのものだった。葛藤は消え、再び戻ってくる気配もない。漠然と抱いていた夢や期待さえ凪に還り、冷気を浴びながら大地を踏み付けている自分だけが唯一のリアリティだった。僕は遂に、自分自身に勝利したのだ。僕は内なる欲を愛していた。やがて緩やかな傾斜を登り切ると、遠くからヘッドライトが迫って来るのが見えた。次第に大きくなるその輪郭が一般車両である事が分かると、僕は薬室内に弾が入っている事を確認して引き金に指を乗せた。

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