16、開戦の報

 柳原 圭人 二十五歳

 十月十日午前七時十分。


 その日は警報音で目を覚ました。真っ暗な室内で、床の充電器に繋いでいたスマホの画面が煌々と光っている。Jアラートだった。ロックを解除して警報を止め、詳細を開いてみるとそこには北海道全域のマップが映し出された。そこに流れるテロップが目に入った時、夢が現実となった事を知った。心臓の高鳴りが喉元まで届いてきた。遂に始まったのだ。仕事に対する確信が、この瞬間を以て真実になった。この有事に至るプロセスに、僕は間違いなく関与している。


 また、スマホのニュースアプリを開くと緊急のライブ映像が流れていた。海岸沿いの交差点に設置された監視カメラが、道路上を通過してゆく黒い車両の列を映し出している。薄暗い曇り空の下、人の居ない早朝の国道を果てしない車列がゆっくりと進んでいる。字幕やテロップは表示されないが、音声を通じて避難勧告や注意喚起が絶えず聞こえてくる。僕は一旦スマホを机に置いてベッドに座り込んだ。僕は今まで通りに暮らせばいい。


 テレグラムの通知が鳴る。最初に入った連絡は田中からのメッセージだった。


「ニュース見てるか?侵攻だよ。ロシアが南下してきてる。お前がやり遂げたマーキングやジャミングが功を奏して、各地に隠匿されてたロケットが防衛用の設備を破壊したらしい。上からお前についてコメントがあったから伝えとくぞ。」


 「ボス」からのコメントか。結局、田中を含め彼らの正体を確かめる事が出来ないまま、この日を迎えてしまった。このまま何事もなく縁が切れてしまえばいい。


「始めたからには、早く済ませてほしいですね。犠牲を抑えるためにも。」


 僕は返信の続きを考える前に、支度をして家を出る事にした。事務所で使っていた物やデータは破棄、処分したものの、ここを警察に特定されないとも限らない。新たな統治が成立するまでは、不安定な生活を受け入れなければならない。洗顔を済ませ、荷物を纏める。床に転がるスマホを充電ケーブルから外すと複数のLINE通知が目に留まった。全て彩音からの不在着信だった。


 部屋を出て、アパート脇に停めてある軽トラックに乗り込む。それは田中から引き継いだ予備車両だった。荷台には、汚れた救命筏や緊急用浮き輪が積まれており、それらは海岸沿いでの警備を見越して購入したガラクタだった。鍵を回すと、かかりの悪いエンジンが甲高い雄叫びを上げた。燃料は少ないが暫くは走れる。小さなペダルを全力で踏みつけ、荒地の砂利を巻き上げた。目的地は彩音の住むマンションだ。


「もしもし、彩音?」


「圭ちゃん、今どこなの!?」


 電話越しの彼女は混乱していた。僕の居場所を何度も訊きながら、僕以外の誰かとも会話している様だ。車が通過する音や話し声、その他ノイズに彼女の声が遮られる。そして、唐突に通話が切れてしまった。分かったのは、彼女が今屋外に居るという事。


 今日は車の交通量が少ない代わりに人の姿が多い。歩道を走りながら何かを周囲に呼び掛けている親父、路上駐車した車の前で何やら深刻そうに話し合う人々。街全体から浮き足立った様子が伝わって来る。しかし、「来訪者」の姿は見られない。流石に、ここにはまだ到達していないのだろうか。通行車の有無に拘らず交差点の信号は移ろう。赤信号になり、軽トラ一台だけが白線の前で止まった。停車した際、荷台に積まれた救命用資材が崩れガタンと音を立てた。後ろの様子を小窓から確かめていた時、今度は正面から爆音が轟いた。道の遥か先、山の奥から煙が上がっている。濃厚な黒煙は、分厚い低気圧の雲と混ざり合う事なく、不透明なまま天に伸びていく。更にその時、雲が一瞬光を帯びた。黒煙に隠れつつあった雲の層が、一定のリズムを刻んで何度も光っている。少し遅れて、耳をつん裂く轟音が数回に渡って響いてきた。これは爆発だ。地上の閃光が雲に映っているのだ。山の向こうは修羅場かも知れない。


 信号が変わったとほぼ同時に、彩音からのコールが鳴った。彼女はさっきより落ち着き払い、周辺のノイズも収まっていた。


「彩音は今どこにいるの?」


 彼女は、分からないと言った。事情を聞いた所、車で札幌市へ向かう途中で通行止めに遭い、渋滞の中で立ち往生していると言う。大人しく家に居てくれれば良かったものを。電話の向こうでは、再び喧騒が巻き起こり会話が遮られてしまった。僕は、すぐに向かうとだけ伝え、運転に集中した。ハイウェイを使い最短距離で札幌へ向かう。彼女から送られてきた位置情報を目に焼き付け、目一杯アクセルを踏んだ。道路の曲がり角を横転しないギリギリの速度で突き抜けると、荷台の救命浮き輪がいくつか路上に転がり落ちた。


 札幌へ向かうハイウェイの車線には、殆ど車が走っていない。一方で、対向車線の自動車とは常にすれ違っていた。時折、黒色の大きなトラックが数両の列を成して右手を通過して行く。その正体について想像を巡らせる暇はなかった。


 最終的に道のりは、トンネルの先に現れた渋滞によって阻まれた。彩音の元まで後数キロのところなのに、車の列は進む気配を見せない。間抜けにも、彼女が訴えていた渋滞に引っ掛かってしまった。僕は小回りを利かせ、その場でUターンしてひとつ手前のインターチェンジを目指した。下道経由でも良いから、できるだけ彼女の近くに車を持って行きたい。


 しかし手前のインターで降りても、待ち構えていたのは渋滞だった。僕は、道路の横に広がる草地に車を乗り上げ、林の植物を薙ぎ倒しながら一気に下り、木々に囲まれた一般道に合流した。この道には自動車が殆どいない。僕はアクセルを限界まで踏み、真っ直ぐ札幌方面へ向かっていた。額から汗が滲む。彩音の身が危ないのだ。今彩音を失ったら、ここで生きる希望も何もかも失ってしまう。


 長いトンネルに入った。これを抜ければ札幌市街が見えてくる筈だ。しかし、トンネルを抜けた先で見たのは、「来訪者達」の姿だった。そうだと一目で分かる特徴が、彼らの車両に刻まれていた。ブルドーザーの様に巨大で無骨な車両が車線をはみ出して停まっている。車両の正面には、白い線で大きくZと記されている。それは事前情報で聞いていた部隊識別符号だった。ブルドーザーの前には、一人の人間が腕を組んで立っているのが見える。すでに逃げ場はない。「演習用」として手元にある身分証明証を探して鞄の中を弄りながら、彼らへの挨拶を考えた。こんな時、グレーヴィチ氏ならどう話し掛ける。片言のロシア語で会話を試みた。


「故障ですか?」


「ガス欠だ」


 戦車の正面に立っていた男が答えた。他には、戦車のてっぺんから頭を出している兵士が1人見える。どちらも鼻が高く、肌が薄い。


「目的地は?」


「チトセ」


「千歳はずっと先ですよ。牽引しましょう。」


「ハッハッ」


 砲塔から顔を出していた男が笑った。身分証が出る幕もなく、彼らはそのまま道を通してくれた。彩音のいる場所まで、あと五キロ。最後の通話から、二十分が経とうとしていた。あの戦車を抜けてからの景色は住居に囲まれ、人々が慌てふためく姿が散見された。やがて道の先に、再びロシアの車両が見えてきた。黒いトラックが道を塞ぐ形で斜めに停車して、その周囲に数人の兵士がいる。いずれも長い銃を持っており、一人がこちらを指差していた。アクセルを離しゆっくり速度を落としていた時、フロントガラスに蜘蛛の巣の様な割れ目が現れた。パリパリと音を立てながら、蜘蛛の巣が二つ、三つと出現して視界を遮る。それと同時に、助手席のシートが細かく破裂し綿煙を撒き散らした。


「撃たれている!」と自覚するよりも先に腕が動いていた。反射的に全力でハンドルを切った事で軽トラは簡単にバランスを崩し、横転したまま脇の団地へ突っ込んでしまった。景色は闇に包まれ、肩と腹がシートベルトに締め付けられた。親指で赤のリリースボタンを思い切り押し込むと、身体は助手席側に落下し砕けた窓ガラスの上に手をついた。そこからは、懸命に逃げた。見通しの良い集合住宅の間を全力で走り抜け、撃たれた現場から遠ざかる事だけを考えた。血に塗れた指先でもう一度マップを確かめる。彩音の場所まで、あと一キロ。

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