15、カムチャッカの平原

ロシア連邦ハバロフスク市。東部軍管区徴兵事務所。


 「既往歴は?」


「ない」


「色覚や聴覚の異常は?」


「なし」


「薬物、アルコール依存」


「なし」


 淡々と続く問診が形式的なのは明らかだった。診察室で待っていたのは、白衣を着た医者ではなく軍のジャケットを羽織った中年の男だったのだ。彼はバインダーに挟んだ用紙に淡々とチェックを入れている。やはり、入隊前の健康診断はザルだった。


「問題なし・・・、と。では、向こうの部屋に移動してくれ」


 「医者」が示したのは、ボロい壁に囲まれた診察室の奥にある扉だった。白ペンキの塗ムラが目立つ扉のノブを引くと、その先も同じような部屋だった。そこは部屋の中央に椅子が一つ置いてある。


「ここに座ってくれ」


 その部屋で待ち構えていた一人が言い放った。何事かと当惑しつつも、私は指示された席に着く。無愛想な軍人は、少し嬉しそうに口角を上げてこちらを見ている。何か嫌な予感がする。


「どっちかの腕を捲れ。契約の印を付ける」


 簡単な説明を受けたところ、従軍契約の証として腕にタトゥーを彫るらしい。888という横並びの数字を肌に刻む事で、契約書の代わりとするようだ。私は大人しくコートを脱いで左腕を捲った。軍人は、小さいドリルのような器具を手に取って二の腕の上の方に狙いを定めた。鋭い鉛筆で突かれる様な痛みが断続的に続いた後、私の腕には小さいシンプルなタトゥーが現れた。これは違法契約故の傷だ。入隊契約は短時間で終わり、私はここでロシア人として生きる権利を得たのだ。


 それから三日後、私は軍の派遣先へ向かうために長距離列車に乗車した。ハバロフスクから遥か西のヴォルゴグラードへ向かう列車の中で、孤独な時間を与えられた私は少年時代の記憶に浸っていた。内戦後の混乱した地元の町で過ごした日々と比べて、今の生活は遥かにマシだった。だが、いつ迄続く生活かは分からない。ロシア国籍の取得は容易ではないため、ハバロフスクの街で不安定な職を転々とする未来しか見えないのだ。そんな状況の中、軍への奉仕は魅力的に思えた。非合法ながら、ロシアの戦争に参加する事で、半年後には国籍の付与が約束されるのだから。同じ列車で過ごす面々は皆、ハバロフスクから乗車した出稼ぎの人間達。私の乗る号車では、寝ている者や目を合わせない者が多く、私は車窓に意識を向けて変化しない環境を受け流していた。地平の先の先にある目的地まで、おそらく自分の時間を満喫する事になるだろうと思っていた。


 ところが旅二日目の朝、列車の窓を開けて喫煙しようとした際に反対側の席の男が話しかけてきた。荒れた肌にしわがれた声。歳は30代後半だろうか。まるで農夫の労苦が刻まれたような顔をしている。彼は、私が咥えていたシガーに興味を持ったらしい。生まれ故郷の家族から送られてきた珍しい物だと伝えると、あろう事か彼も同じ煙草を持っていた。そこで故郷の国が同じである事を知り、私はこの空間で唯一心を通わせる同志に出逢ったのだった。


「この列車は、どんどん東へ向かってるぜ」


 彼は、あらゆる前提がひっくり返るような事を真剣に言ってきた。思索を好む彼は、この逃げ場のない旅路で人知れず考えを溜め込んでいたらしい。それに対して私は答えた。


「東に路線はない筈だ。ヴォルゴグラードへ向かう筈でしょう」


「これだから土地勘のない奴は困る。この列車は妙だぜ。西方とはずっと真逆の路線を進んでる。地名すら知らん奴は何の疑問も持たないって訳さ」


「それなら一体何処へ。空輸のための飛行場でしょうか」


「ならもっと近くで降りてる。それに俺たちはスペツナズじゃねえんだ。わざわざ空輸なんて」


 「しわがれ声」の言う事は、明瞭で説得力があった。どうやら進行方向がおかしい事は間違いないらしい。その事実を、この列車に乗る人間達の一体どれほどが察知しているのだろう。皆出稼ぎの田舎者で、広域なロシア全土の地理など知った事ではないだろう。


 その日も車内で夜を迎え、変わらない平原の闇が車窓を覆い尽くす。ストリーチナヤ・ウォッカを片手に語りを止めない相棒を前にして、私は次第に睡魔に呑まれていった。


 目を覚ますと、窓の外はもう明るかった。しかも平原の景色が動いていない。次第に意識を取り戻し、私は列車が停まっている事を理解した。


「到着だってよ」


 「しわがれ声」は、すでに荷物を纏めていた。


「到着?今どこなんだ?」


「さあな」


 どうやら列車は、駅でもない路線のど真ん中で停車したらしい。列車を降りると、目の前にオリーブ色のテントが見えた。だだっ広い草原を背景に、たった三、四張りの軍用テントが並んでいる。よく見ると平原の先は海のようだ。草原の地平とほぼ重なるように海洋の輪郭がかすかに映っている。テントの周りは軍服姿の人間達が闊歩している。そして、そのうちの一人がこちらに向かって「降りろ」と声を荒げているのが見えた。


「下車だ」


 「しわがれ声」は、車内の皆に呼びかけた。皆よく分からないと言った様子でぞろぞろと降りていく。


「持ってきた個人の荷物を回収しろ!まとめた人間からあっちの保管庫に入るんだ!」


 下士官と思しき軍人はそう叫んで、真ん中のテントを指差した。一軒家程の大きさがあるそのテントだけが出入口を開放しており、中の様子が少し伺える。黄色いランプで照らされた室内に、何やらごちゃごちゃと物資が置かれているようだ。私は最低限の荷物しか持って来なかったため、他の者より身軽だった。そのためいち早く荷物を回収した私は、テント脇にバックパックを放置して中へと先駆けた。


 テントの中には沢山の木箱が乱雑に積み上げられていた。軍人達が、釘抜きを使って最上段の箱を開けようとしてる。横長で1メートル程ある木箱の中に収まっていたのは、黒い細長の鈍器のようなシルエット。それは少年期の目に焼き付いた自動小銃だった。


「ここに小銃がある。こっちには弾薬もある。各人受領しろ!」


 私は、カビ臭いテントで小銃を受領した第一号となった。弾薬の他に装具や被服も配られ、それら全てを受け取ると両手で抱えきれないほどの荷物になり、おぼつかない足取りで保管庫を出ると、私は溢れる装備をバックパックの上にぶち撒けた。


「すげえ!カラシニコフだぜ!」


「マジモンだ!」


 列車で同行していた若い衆が、武器を手に取って興奮していた。彼らは特殊部隊の真似事をしてお互いに銃口を向け合っている。私も自分に充てがわれた銃を手に取って操作を確かめた。ボルトを引いて内部を確かめると、弾薬が干渉する箇所に傷が殆どなく摩耗もしていない。つまり、ほぼ未使用品である事が伺える。加えてこのタイプは最新型のようだ。カラシュの冷たい銃身を握った瞬間、私の少年期が走馬灯になって蘇った。


 二十年前、中央アジア某国。


 銃声が絶えない市街地でも、郊外にある火力発電所にまで近づく者は少なかった。発電所は放棄されて久しく、監視の目を感じない。実際、今は無人なのだろう。入り組んだ施設の間は、格好の隠れ家になる。モルタルの壁に挟まれた狭い路地を抜けた先にはバン一台分ほどの小さな空き地があった。兄はそこで取引の約束を付けたのだった。取引の相手は、ロシア陸軍の契約兵を名乗る人物。それは組織の絡みが一切ない、敵国一兵卒の都合を知った兄が取引を提案したものだった。どうやってそんな敵と連絡をつけたのか、当時の私はまだ知らなかった。相手は金銭と引き換えに武器を提供すると言って来ている。


 その日は小雨が降っていた。私は一人、路地裏で彼の到着を待っていた。待つ事およそ十分。相手は約束の時間通りにやって来た。ロシアの官品迷彩服を着た、モンゴル系で背の低い男だった。背中に大きな荷物を抱えているようだ。この閉鎖空間で顔を合わせるなり、早々に取引は始まった。


「これが小銃。倉庫のストックだ」


 彼は、背中に担いでいた二丁の小銃を地面に置いた。本物のカラシニコフだ。さらに彼は背嚢のチャックを開けて中のものを地面に広げた。


「この箱は5.45の弾薬。1080発。で、こっちは手榴弾。これで全てだ」


 示されたのは、オリーブ色の四角い缶一つと、紐付けされた手榴弾四つだった。暗い路地裏に座り込む二人の間で、目立たない品々が取引される。私は缶に印字された文字を見て、彼の言う事を信用した。しかし、約束の品はこれだけではない。


「あと、モルヒネは?」


「これが全てだと言った」


 相手はこの内容で貫きたいようだ。


「わかったよ。ありがとう、おじさん」


 私は声の震えを隠しながら、兄から渡された紙幣を胸ポケットから取り出して、目の前の軍人に手渡した。金額を確認した取引相手は頷いてから言った。


「いいか坊主。俺の部隊を撃ったらブッ殺すぞ」


「わかった」


 私が返事をすると、彼は立ち上がって小走りで後方へ去っていく。しかし途中で再びこちらを振り返って念押ししてきた。


「戻ったらボスにも伝えとけ。もし撃ってきたら家族ごと埋めてやる」


 言いながら奴は道の向こうへ消えていった。あの軍人がどこで戦っているのか、私は知らなかった。受け取った武器を急いでリュックに詰めると、私は彼と反対方向の路地を走って逃げた。そして家の地下室に戻ると、敵に言われた事をそのまま兄に伝えたのだった。


 あれからもう二十年が経つ。当時の自分が決して望まなかった姿に、結局のところ成り下がったのかも知れない。生活難を理由に武器を密売してきた敵兵と同じ姿で、私はこれから戦地へ向かうのだ。しかし、カネのために自分で選んだ道だ。迷いはない。ドンバスで二ヶ月耐えれば、あとは半年の任期満了を待つだけ。ロシア国籍が得られれば、家族の居ない本国の荒野からオサラバ出来るのだ。


「いい装備だ」


 私は、装備を両手いっぱいに抱えてテントから出てきた「しわがれ声」の姿を見て言った。


「何でここなんだ」


 しかし、彼はどこか落ち着きがない。


「どうしたんです?」


「何でここで全部受け取るんだ。しかもフル装備を。軍はお粗末で何も支給してくれないって聞いて、せっかく自分で買い揃えたのによ。」


「私も、せめてヴォルゴグラードの駐屯地で受け取るモンだと思ってましたよ。案外準備が良いみたいだ。」


「いや、にしても・・・」


 「しわがれ声」は何を思い立ったか、言葉を詰まらせた。


「ひょっとしたら俺ら、有名人になるかもな。」


 彼は硬直した表情で語った。


「どういう事です?ここでYouTubeでも始めるんですか?」


「きっと、今に分かる。」


 その時、テントの際に立っている下士官が唐突に叫んだ。


「集合!テント前に集合だ!!」


 広場に散らばる皆が一斉に声の主に反応して、気怠そうにぞろぞろとテント前に向かう。集まった烏合の衆は、軍服を着た十数人の男達に囲まれて指示を飛ばされた。名指しで呼ばれた人間から一人ずつテントの正面に立ち、次第に横隊の列が形成されていく。三十人くらい呼ばれたところで、私の名も呼ばれた。すでに十人の横列が三つ並んでいる状態だ。その後ろから私は四列目の最初になった。視界の前には、見知らぬ召集兵達の丸刈り後頭部が並んでいる。


「列中で口を開くな!!これから旅団長より訓示を頂く!」


 右端で図盤片手に名前を読み上げていた下士官が叫んだ。なるほど、出発前の儀式という訳か。チラッと後ろを振り向くと、後ろの列に並んでいる「しわがれ声」がウインクしてきた。その彼の背後、列の左奥にビデオカメラを構えている軍服姿の人間がいた。ここを撮影でもするつもりか。見窄らしい貧乏人が並んでいる姿を撮って何になるのだろう。やがて全員の名前が呼ばれ、巨大な正方形を成すような列が草原の中に完成した。そして、列の右端からこちらを睨んでいた軍人が叫んだ。


「団長、登壇!部隊気をつけ!!」


 団長と思しき一人の軍服姿の人間が、奥のテントから出てきてこちらに歩いてくる。その大柄で腹の太いシルエットから、度を超えた肥満である事は一目瞭然だった。テントの前には木製の木箱が置いてあり、団長はその上に立って、正面に広がる列を見下ろしてきた。


「同志諸君、我々は諸君の自発的な協力に感謝し、勇敢な決断に敬意を表している」


 何やら長々しい話が始まりそうだ。うっかり眠ったら下士官に殴られるだろうか。旅団長のゴツゴツした顔面に似合わない甲高い声が聞こえてくる。果てしない平原で行われるスピーチは声の反響が全くないばかりか、時折吹き荒れる海風で声そのものが掻き消される。聞こえてくる内容は、激励的なものであり単調でつまらない。周りの下士官達は、ただ彼の方に鼻を向けて整列の姿勢を崩さない。こんな時間が軍隊では日常的なのだろうか。そう思うと、先が思いやられる。しかし彼は、途中から耳を疑うような事を口にした。


「賞与に関しても我々には準備がある。諸君らは明日から日給七十ドル相当が分配される」


 初耳だった。七十米ドルと言うのが分かりにくいが、ルーブル換算で五千位だろう。月単位で計算すると、給与は聞いていた額より三倍以上多い事になる。あまりに極端な昇給じゃないか。私は後ろの同志と目を合わせた。


「作戦は予定通り一月目処で完了するだろう。最初の数日でネオナチ勢力を蹴散らし、後の期間は治安維持活動に従事してもらう」


 ネオナチとは、パルチザンの事だ。しかし、その説明をこんな場所で受けるとは思わなかった。まだ列車で数日の旅が残っているのだ。もはや、現地では説明を省くと言う事なのだろうか。


「敵は烏合の衆だ。戦闘は普段の演習と変わらない」


 団長は、国家の脅威を根絶する重要性をしきりに強調する。そして最後に「健闘を祈る」と言葉を添えてスピーチを締め括った。太い腹を抱えた巨体が、演台を慎重に降りて後ろのテントへと消えていく。下士官から解散の合図が掛かり、隊列は緊張を解かれた。私は今の胸中を「しわがれ声」にぶつけようと後ろを振り向いて、彼の方へ歩こうとした。しかし、再び下士官の叫び声が聞こえ皆が前を向く。軍人の一人がダンボール箱を抱えていた。彼は群衆の真ん中まで箱を持って来ると、中身をひっくり返して草の上にぶち撒けた。中から出てきたのは無数の黒くて四角いワッペンだった。裏面がマジックテープになっている。下士官に指示されるがままに皆が周囲に群がって、ワッペンを一つずつ受領していく。シンプルな模様のワッペンだった。四角い黒地に目一杯のサイズで、ラテン文字のZが記されている。地面は白いZの文字だけで埋め尽くされていた。すでに軍服を着ていた「しわがれ声」は、その中の一つを手に取って右上腕のベルクロに貼り付けた。迷彩服の腕に刻まれたZは、まるで新しいタトゥーのように定着していた。

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