14、内通者のタスク

田中巧


 あの時、あんな事をしなければ。一つの後悔が蘇り、不自由な現実に苛立ちが募る。長い赤信号に引っ掛かったので、停車中に煙草を咥え火を点けた。今日は寒い上に雨が強いから、ウインドウを下げる事が出来ない。車内換気がフル稼働して、うるさいノイズを出しながら車内の空気を回し始めた。


 後悔はただ一つ。こんなマフィアごっこを始めた事だった。他人に誇れる仕事がいい。結局はそこに落ち着くのだ。パチンコや競馬でカネを削ったって構わない。酔い潰れて歩道に立ちションしたって、良いじゃないか。誰にも言えない仕事というのが最も耐え難い。早くこんな仕事は終わりにしたいのだ。


 今朝は早起きだったせいか気分が冴えない。真夜中の三時に電話があって、潜入の予定を今日にズラしてくれと言って来やがった。今日は家で暗号資産を別の取引所に移す作業が待っていたのに、コロコロ予定を変えて来やがって。そもそも、暗号通貨が不安定過ぎるのだ。インターネット上に設立された、全く信用できない海外の取引所を経由してカネは入って来る。明日、資産を丸々預けている取引所のアップデートが行われるため、取引所にある資産はアップデートに伴い丸ごとリセットされて消えてしまう。だから運営がメンテを始める前に、溜め込んどいた資金を全て引き出す必要があった。アップデート如きが何だって言うんだ、取引所が消滅する訳でもないのに、クソ。


「一般の人達は、どうやって毎日生活してるんでしょうね」


 ふと、助手席に座っていた柳原が、過ぎゆく景色を呆然と眺めながら言った事を思い出した。呑気な奴だ。あいつは何も知らない井の中の蛙だから、純粋な目で人の気持ちに寄り添った風になれるのだ。自分が如何に特殊な世界に居るのかを理解していない。あいつはきっと、俺が何でも知っていて「ボス」との関わりも密接だと思っているだろう。そんな訳ないのだ。あいつは俺の言葉をそのまま信じてる様だが、俺は北海道全域に警備会社の支店など持っていない。ノーナを除いては全部ペーパーカンパニーだ。それの何が悪い。あいつは何も知らないただの馬鹿なのに、どうしてなんだよ、クソ。

 柳原と内藤彩音の情事が頭から離れない。オフィスの隅に置いた観葉植物の根元には、実は監視カメラがあるという事に二人はまだ気付いていない。映像データを元に各支店の異常を報告しなければならないからだ。俺が消えてからすぐに、あんな風になりやがって。俺が仕掛けたんだぞ。珍しく可愛い子が来たと思って、オフィスの一番楽なポジションに置いてやったし、時々食事にも連れて行ったのに。自分だけが全てを見通せるという現実が気持ち悪い。


 車は最後の交差点を抜けると、検問所に差し掛かった。道路の中心に聳えるコンクリート製の小屋。その手前には、自衛官が一人立っている。緑色の迷彩服を着てヘルメットを被り、長い銃を下向きに構えてじっとしたまま動かない。その気迫に圧倒されてしまう。潜入は既に数回こなして来たが、やはりまだこの雰囲気には慣れない。まるで異世界の入り口だ。


 検問所の手前で止まり、ウインドウ越しに身分証を見せた。兵隊は「お疲れ様です。」と大声で反応し、バリケードを押し退けて道を開いた。駐屯地の中へ車でそのまま侵入する。駐屯地というのは静かで小さな町並みの様で、網目状に広がる道路網の間に団地の集合住宅みたいな建物が沢山並んでいる。お目当ての建物は検問所から最も遠い所にある建物だった。建物の正面には数台分の駐車場があり、ガラ空きだったので、スライディングの如く車を突っ込ませて、豪快に白線を跨いだところで停まった。ケータイで内部の人間にコールを掛ける。すると、数分後に迷彩服を着た隊員が一人、正面玄関から走って来た。


「これでいいんですか?」


 若い声だった。彼は、ふくらはぎに縫い付けられた大きなポケットに手を突っ込み、乱雑に折り畳んだ紙を渡して来た。


「汚ねえな。しょうがない」


 雑に四つ折りされた紙束を開くと、表紙には「秘」という字が、丸で囲まれていた。これが最高機密区分の情報である事を表していた。そのコピーを取る事を目前の隊員に依頼していたのだ。確認ができると、俺はダッシュボードから封筒を取り出してそのまま青年に手渡した。


「ここで確かめんな」


「分かってますよ」


 青年が迷彩柄の背中を向け、エントランスの奥に消えるのを待ってから、Dにシフトを入れ颯爽と駐車場を抜けた。帰り際にはもう一度、先日送られてきた緑色の身分証を指に挟んで、再び検問所へと近づいた。



柳原圭人


 静かな山を登っていた。枯葉に覆われた地面をブーツで踏みつける音が反響する。鳥の囀りさえ聞こえない静かな空気は霧に包まれ、聳え立つ針葉樹林の実体を曖昧にする。視界の両脇はなだらかに下降しており、僕は今歩いている道筋が尾根であると信じて進み続ける。獣道すら避けて山を登っていると、岩肌剥き出しの斜面や乗り越え難いレベルの谷間に時折遭遇したが、それでも迂回は最小限に抑えて最短ルートで頂上を目指している。


 この山の頂上には大型の電波塔があり、そこに登ってセンサーを取り付けるのが今回のタスクだった。事務所から出るのは久し振りだ。田中は、一任されたタスクが多過ぎるので手伝って欲しいと言って来た。数日後の報告までに、離れにある十箇所の山々にコンクリートブロック程の大きさの装置を取り付けなければいけない。示された山々の頂きには電波塔が建てられており、各アンテナの頂上付近にセンサーを巻き付けて固定しなければならないと言う。僕は六つのアンテナを担当し、一つずつ現場に向かっていた。僕が今向かっている山が担当している中で唯一、標高千メートルを越す山だった。

 ブーツが次第に重くなり太腿に限界を感じ始めた頃から徐々に霧が晴れ、枯れ葉で覆われた地平の先にフェンスが見えてきた。最後の一押しでフェンスの前まで到達し、そこで一服。目の前に聳えるアンテナは巨大だった。この頂点まで至るには、アンテナの中心に備え付けられた梯子を登っていくしかない。


 吸い殻を飛ばし、息を深く吸った。フェンスはアンテナの四周を囲み、唯一の出入り口には錆びれた南京錠がぶら下がっている。その鍵穴にバーナーライターを当てて炎を通すと、カチッとロックが外れた。アンテナはその巨体の割に非常階段などはなく、ひたすら垂直に梯子を登るしかない。梯子の丸いパイプを握ると、霧の細かい水滴が手に染みた。


 頂上までは、上も下も見ずに無心で登った。アンテナの頂点、鉄骨が一点に集約される場所まで人間が到達する事は出来ない。人が立ち入れる最上階は、その数メートル下に設けられたゴンドラの様な足場であり、梯子を登り切ると僕は背負っていた物を足元に置いた。リュックの中からセンサーを取り出し、備え付けの三脚を展開する。更に厳重に固定するために、分厚いテープをセンサーと鉄塔の柱に何往復も巻き付けた。センサーは鉄板で覆われた深緑色の箱だった。その目的は分からない。


 頂上は風が強く、寒かった。そして絶景を見渡せる場所だった。夕陽が沈む直前、薄い雲に覆われた空は真紅に染まってその中心に鎮まりつつある太陽を据えていた。周囲の山肌は濃い影を作り、眼下の平野に広がる街を呑み込んでいる。街は既に無数のネオンに輝いていた。



田中巧


 得体の知れない物を担いで深夜の山中を駆け回るなんて、もう御免だ。最後のセンサー設置が終わってから二日を経た今、全身の筋肉痛がピークを迎えていた。指の付け根から四肢へ、そして体幹に至るまで全ての筋繊維が動く度に悲鳴を上げる。ベッドから身体を起こすのも苦痛だ。何とかスマホを手に取りテレグラムの通知を確認したが、「ボス」に昨晩送り付けた写真報告に対するレスはまだ来ていない。送金連絡はまだ来ないのかよ。


 衛星電話が鳴った。床を懸命に這い進み、部屋の隅にある充電スタンドから古臭いケータイを分取った。相手はいつもの声、無愛想な重低音がスピーカーから響いて来た。


「次の依頼だ。全ての支店に伝達して欲しい」


「はい」


「そしてこの仕事の段取りがついたら報告し、十月五日までに各支店のリーダー達を連れて東京に引き上げてくれ」


 ・・・どういう事だ。ここでのタスクはもう終わりという事か。


「分かりました」


「データは今、送った。そのデータの通り再現してくれ」


 そこで電話は切れた。テレグラムを確認すると複数の画像データが届いており、文面のページ、円や十字などのシンプルな記号が幾つも並んだページ、そして最後には白黒の地図で占められたページが現れた。パッと目を通すだけでは、指示の内容が掴めない。しかも文面は馴染みのない外国語で書かれていた。一瞬英語かと思ったが、読めない記号が散りばめられており読み方も意味もさっぱり分からない。これは確か、キリル文字とか言うやつではないか。柳原がロシア語について話していた記憶と繋がった。


 数分後には、日本語による説明が長々とチャットで送られてきた。その内容を理解した時、俺は仰天した。足を洗うタイミングを伺っていた矢先、最大規模のタスクが舞い込んで来たのだ。錯乱する気持ちを抑えて、人を集める事から考え始めた。ボスは恐らく、柳原が居座る一社を除いた他全てがペーパーであり、浮いたカネで俺が私服を肥やしている事など知らない。このタスクを成すには、現状の人数では不可能だ。建設的に思考を巡らす事も、問題を一旦棚に上げて眠りにつく事も出来ず、スマホの画面から目が離せない時間が続いた。やがて吹っ切れた時、衛星電話を掴んで柳原の番号をひとつずつ確実にプッシュした。



柳原圭人


 午前七時半。事務所の鍵を開け、暗がりのオフィスを歩いてチーフ席に座り込んだ。ブラインド越しに朝日が差し込んでいる。早朝の優しい光がオフィスに流れ込むこの時間が尊い。蛍光灯の明かりを点けるのが嫌になる。


 僕は心を決めて、田中に電話を掛けた。


「ここには内藤が居ますから」


 唐突に迫られた究極の選択に対する僕の答えだった。


「内藤と2人でやっていこうと思います。田中さんも、東京に戻ったら足を洗うんでしょう?それなら、僕はここに残って役目を終えますよ」


「そうか」


 田中の返答は重かった。しかし、二度と東京へは戻れない事を覚悟の上で決めた事だった。


「やっぱ、マズいですかね」


「いや、俺には関係ないからな。死んだ事にでもしておくよ。女が居るんなら大事にしろよ。それに、最後の仕事を俺が押し付ける形になっちまったからな。こっちの事は気にするな。お前の分も後始末は付けとく」


「ありがとうございます。最後のタスクって言っても、僕は何もしませんよ。田中さんが手配してくれた連中をモニターするだけだ。本当に最後までありがとうございます」


「まあ、これで貸し借りなしだ。じゃあな」


 恐らく最後となる田中との通話が切れた。内藤と共に暮らしてゆくからここに残る、と言うのは概ね本心だった。今、彩音を地獄の様な未来の中で手放すのは相当に苦しい。僕がここで彩音を引き留めておくだけでも彼女の身は保証されるのだ。ここは、「来訪者達」と通じる数少ない組織なのだから。


 僕は喫煙室を出て事務室に戻った。今日は彩音の席に、外国人労働者のミンが座っている。少し色黒でぱっちりした目を持つベトナム人の青年だ。彩音と交代でシフトについている。


 ミンは何にも手を付けず退屈そうに鎮座している。彼にいつも任せている人事書類は既に完成し、最新データがチーフのPCに届いていた。軽く目を通した後、僕はミンを連れて力仕事に取り掛かった。それは一階車庫の奥に積み上げられた大量の白いペンキの缶を、先日手配した自動車に載せるという作業。退屈を最も嫌う彼は、十八リットルのペンキ缶をひたすらワゴンのトランクに詰め込むという作業に対しても、割とポジティブな反応を示した。


 百を超える缶が車庫の奥隅にピラミッドを築いていた。ピラミッドは長い間放置され、缶のラベルが見えなくなる程の砂埃を被っていた。僕がここに来た当初からこの状態だったので、最初から気にも留めていなかった。


「埃は聞いてないっすよ」


 ミンは訴えた。手元にあったマスクとグローブを渡したが、彼は防塵用ゴーグルも要求した。ない物強請りだなと僕が言った事に対してミンは、警備会社なのに云々と愚痴を漏らしながら、長時間のバケツリレーに取り掛かった。もはや壁の一部と化していた缶の山。これもタスクのために配置されたものだと知った時、僕はその用意周到さに戦慄した。「ボス」の頭の中では、数年間に及ぶスケールで構築されたシナリオがあって、僕らはそれを実現する些細な要素に過ぎないのだ。


 手配されたワゴン車は十台。狭い一階車庫に納まるのは四台、残りは事務所の横に広がる荒野に並んでいた。それぞれの荷台に十缶ずつ積載し、僕とミンは息を切らしながら事務室に戻った。これで最後のタスクに向けた準備は終わり、二人は制服を叩きながら事務室に戻った。


「こんだけのペンキを分けて、どこに持って行くんですか?」


「役所が主催のお絵描きイベントだよ。ロードアートってヤツ」


「面白そうっすね。僕も参加します」


 彼は、僕に答える気がない事を理解していた。


「オレ達は自宅待機でいいんだよ」


 僕は礼として、魔法の粉混じりの煙草をミンにプレゼントした。これは以前から彼にも好評だった。


「オレ達は、ペンキが道路にぶち撒けられる様子をテレビ越しに観てればいいんだよ」


 数日前に田中から送られてきたタスクの内容。それを把握した時、田中が電話越しに、最後のタスクだと言い放った理由が分かった。それは札幌市内の道路上にマーキングを施すと言うものだった。その数、百二十。主に郊外の交差点や道路橋、駐車場などの中心に全長三メートル基準で種々の記号を描かなければならない。記号は、サークルやクロスなどシンプルなものから、サークルの中に数字を記入するものなど数種類に及ぶ。実施期間の指定もあり、十月十日の深夜零時から五時までの間に完成させる。警察の妨害も十分予想されるこのタスクでは、田中がテレグラムを活用して人員をかき集める事を約束した。やがて陽が昇り、無数のミステリーサークルが姿を現した時に何が起こるのか。それは市民の野次騒ぎと共に掻き消されてしまうのか。それとも、全てのタスクに共通する一貫した目的、「演習」が現実のものとなるのか。

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