12、お昼の休憩

 「よっしゃ、今日のタスク終わり」


 僕は机の下に仕舞い込んでいたウォッカのボトルを取り出して、デスク脇のグラスに注いだ。


「あ、また飲んでる!早死にしますよ〜」


「構わん。それに、今日も運転ないから」


 元FSB諜報員と酒を交わしてから数週間、僕の生活習慣には四十度の酒が染み付いていた。飲み慣れてくると酔いに伴う頭痛は徐々に軽減され、焼ける様な温もりにいつでも浸る事ができた。内藤はいつも好機の目で見ている。


「最近は味の違いも分かってきたよ」


「味の違いとかあるんですか?アルコールと水だけでしょう?」


「あるある。甘いのから辛いの、ほんのりフルーツの味がするやつもあるよ」


「へえ〜、深いんですね」


 彼女は微笑んだ。僕は一人でゆっくり休む事にした。


「ちょっと上で光合成してくる」


 上とは屋上の事だ、一階がガレージで二階建構造の事務所は、階段をもう一階分だけ登れば屋上に辿り着く。そこにキャンプ用のスリーピングチェアを置いて憩いの場としていた。彼女は、はいはいと適当に流しながら、再び画面の向こうへ集中していった。


 時間は午後二時過ぎ、快晴だった。北海道の高くて薄い青空には鱗雲が浮いている。雲の影は少し夕陽を受けた様な赤みを帯びてゆっくりと流れている。僕はグラスを忘れた事に気づいた。取りに行くのも面倒なので、瓶の口からそのまま口に注いでみた。ウォッカが体内を巡り、頬や首元まで熱気を帯びてくる。


 全身の緊張が解れていくのを感じる。内藤と二人きりの当番でさえ、最低限の緊張が身体を拘束していたらしい。最近では彼女でさえ、たまに来る電話応対や接待などの仕事が適当になってきていた。ここら辺で、ひとつ喝を入れるべきか。否、全ての原因は僕なのだ。彼女一人だけちゃんとしているのが馬鹿馬鹿しくなるのも無理はない。


 もう一口ウォッカを飲んだ。仕事の事は忘れよう。高い空に覆われている感覚が心地いい。空の中心に、薄っすらと月の下半分がカケラの様に浮かんでいる。目を閉じて、また開いてみてもその実感は変わらない。神経にまで染み込んだウォッカが感情の蓋を緩めているのかも知れない。丸い大地に溶けていく様な心地よさと共に時折、昔の感覚が蘇った。空を見上げていた頃の記憶とデジャブしたのだ。小学校に上がって間もない頃、市民公園の小さな丘に寝そべって空を見上げていた。真昼に月が見える事に、人知れず気付いたのだった。嘘みたいな話だ。僕は、それを絵に書き留めれば母にも信じて貰えると思った。その頃の僕はスケッチブックを日常的に持ち歩き、事ある毎に鉛筆で絵を描いていた。路上に停まるスポーツカー、消防車、或いは幼稚園の洋風な柵や風見鶏。僕の目を少しでも奪ったものは描き留めていた。時々、クラスメートから茶化される事はあっても、それ以上の喝采で僕は評価を保っていた。まだ、自己を保てなくなる恐ろしさを知らない時代。真昼の月を再発見した僕は、HBの鉛筆でモノクロ写真のような薄色の月を描いた。その頃は、空がこんなにも立体的で躍動のあるものに映っていたのだ。


 もう一口ウォッカを飲んだ。喉の奥まで、一筋の道が焼け上がっていく。忘れていた感情で心が満たされてくると、心の屈折がどんどん小さくなっていく。脳裏に刷り込まれた冷たい記憶の塊は、音もなく溶け落ちていく様だ。何も考える必要なんてない。ただ、今を生きてればいいんだ。不透明な膜に囚われて自意識に引き籠っている内に、こんなにも空が広い事すら忘れていた。


 さらにウォッカを一口。思考が活発になり始め、眠る気分ではなくなってきた。そこで考え抜きたいテーマは、内通者。結局、内通者とは何なのか。グレーヴィチから直接的な答えを得る事は出来なかった。そもそも、彼はロシア本国で活動していた諜報員であり、敵地で単独行動する内通者とはまた異なるのかも知れない。田中や僕の雇い主が仮にロシア政府だとして、こんな緩み切った組織を幾つも作るために、莫大な資金を投げ打つのは滑稽だと思った。僕らが居ようが居まいが、日本国民には何ら影響を及ぼさない。


「やなぎさん〜」


 その時、内藤が上がってきた。彼女の片手にはグラス、もう片手にはビールの缶が握られていた。


「グラス、忘れてますよ」


「別に良かったのに」


「私も飲みたいから来たんですっ」


 正気かと思った。彼女はグラスをリラックスチェアのボトルスタンドに置くと、ビールの栓を勢いよく開けた。それは、「社長」が内藤を想って定期的に送ってくる差し入れだった。


「頂きま〜す」


「おいおい。電話番は?」


「本気で言ってます?いつもサボってるくせに」


「内藤がちゃんとしてくれてるから、安心できてたんだよ」


「私に押し付けないでください。まるで田中みたい」


 田中。それは「社長」の偽名だった。何も知らない彼女はその苗字にナチュラルな嫌悪感を含ませる。


「ごめんわかったよ。オレが内藤に甘えてた」


「認めてくれるだけ田中より偉いですよ」


「あいつと一緒にはされたくない」


 僕らは笑った。僕は改めてグラスにウォッカを注いで、彼女のビールと乾杯した。


「内藤、いつもありがとう」


「いえいえ、でも私もう時期辞めますよ」


「ま?」


「ま」


 彼女が居なくなれば、酒に歯止めが掛からなくなるかも知れない。


「そもそもさ、何で内藤はここに入ろうと思ったの?」


「私、元々保育士目指してたんです。その為の専門学校にも通ってたんですけど、何だか途中で女の世界がムリだって思って、専門学校を途中で辞めちゃったんです」


「それでうちに流れてきたと。」


「そう。こちらは実家から近いし、正直給与もいいと思ったので」


「それは間違いないね。でも、それだけだ」


「人との交流がないなんてつまらないですよ。私、田中の代わりに柳原さんが来てくれてなかったら、もう早くに辞めてたと思います」


「うん、それは嬉しいな。でも、ここに居たら内藤も腐っちゃうよ。ここはちょっとお金の流れも特殊で、外とは隔絶された世界だから」


「柳原さんは辞められないんですか?」


「すぐには辞めないよ。ただ、あと一、二年以内に新しい仕事が始まるかもしれないから、その時は東京に戻ると思う」


「そっかあ、東京かあ」


 彼女はため息をついた。


「北海道に残ってほしかった?」


「居なくなるのは寂しいです」


 彼女はしょぼくれ顔を作って見せた。僕は、彼女の片方の手をそっと握り、彼女の手が思った以上に冷えている事に驚いた。僕は彼女の手を温めるために、両手で彼女の指をそっと挟んだ。


酒を飲み終えた後、僕らは手を繋いだままオフィスに戻り、最低な行為に手を染めた。

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